5   映画を愉しむ(7)
更新日時:
2005/05/24(火)
 
 主だったキャストが米国俳優であったなら、まったく別の映画になっていたろうと思わずにはいられなかった「キングダム・オブ・ヘブン」である。イスラム教とキリスト教の相剋を単純化して映画にするといった安直な手法は減り、12世紀の十字軍遠征が21世紀の米国軍イラク派遣を連想させるような意図は前面に押し出されずにすんだ。そう思わせなかったのは、主だった俳優が英国の俳優だったからである。
 
 リドリー・スコットが何を考えていたのかはさておき、ジェレミー・アイアンズ、デヴィッド・シューリスなどの英国俳優が、イラクで反米テロ活動をおこなっているイスラム過激派を心のどこかで想定していたなら、シリアの名優ハッサン・マスードが演じた英雄サラディンはビンラディンになりさがっていただろう。
ごくふつうに考えると、キャストよりスタッフのほうがストーリーや背景をより深く把握しているはずであるが、映画を見て私が感じたのはその逆であった。米国の俳優と英国の俳優はそこがちがう。米国俳優が十字軍のヨハネ騎士団やテンプル騎士団を演じていたらイラク派遣軍になっていたであろう。複雑怪奇な歴史的背景へのハラの薄いまま出演するからである。
 
 英雄サラディンが安物ビンラディンに格下げとならなかったのは、ひとえに英国俳優の中世ヨーロッパと中世イスラム世界、また、十字軍への造詣が深いからと思われる。
かつてフランス外相ドピルパンが「私たちのほうがあなたがたよりアラブ世界のことはよく知っている」と発言したのは正鵠を射ている。あなたがたとはむろん米国政府のこと。
 
 11世紀から13世紀にかけての十字軍遠征にいかほどの意味があったかの考察は、新大陸に渡った人たちの子孫よりヨーロッパ世界に住む人々のほうがくみしやすいにちがいない。地の利とはまさしくそういうことをいうのであろうし、イスラム教徒であるアラブ人やトルコ人との長年にわたる抗争と妥協、あるいは巻き返し(レコンキスタ)の歴史はヨーロッパにあって米国にはなかった。
そういう意味では、米国は2001年9月11日以来はじめて本格的にイスラム世界との対等な抗争に巻きこまれたといえる。それまでの数十年は明らかに米国優位であった。
 
 さて、「キングダム・オブ・ヘブン」の登場人物のなかでエルサレム王ボードワン4世とその義妹シビラ、ボードワン4世亡き後エルサレム王になるシビラの夫ギー・ド・リュジニャン、ギーと気脈を通じるルノー・シャティヨン、そしてサラディンは実在の人物である。
オーランド・ブルーム演じるバリアンは架空の人であるが、おもしろいのは、バリアンの勇猛果敢と寛容がイングランド・プランタジネット家のリチャード獅子心王を想起させることである。
 
 わずか数十騎を従え、大軍を率いるサラディンの本陣目がけて疾風のごとく襲いかかる、鬼神としかいいようのない姿は獅子心王リチャードそのものではなかったか。
味方を鼓舞するための行動なのか、無謀をかえりみず負け戦を勝利にかえる、機を見るに敏な頭脳的作戦なのか判然としがたいところがよく、また、バリアンが捕えられたとき、ボードワン4世が無数の援軍を従えて砂漠の彼方から忽然と現れる光景が絵になっている。彼は重いハンセン病なのだ。
 
 ついでにいえば、ジェレミー・アイアンズ扮するティベリアスはリチャード獅子心王と同時代人のフランス王フィリップ2世を連想させぬでもない。フィリップ2世は尊厳王とも呼ばれたようであるが、リチャードと共に第三回十字軍としてエルサレム王国への途についたにもかかわらず、現地で戦闘らしい戦闘もせず、さっさとフランスへ帰っている。
 
 リチャード獅子心王とフィリップ2世で思い出すのは、「冬のライオン」で共演したアンソニー・ホプキンス(リチャード)とティモシー・ダルトン(フィリップ)で、当時はふたりとも若く、ヘンリー2世を演じたピーター・オトゥール、その妻エレノアを演じたキャサリン・ヘプバーンにひけをとらないほどの存在感を示したことである。後にアンソニー・ホプキンスの語るところによれば、そのときキャサリンは、「いまのあなたから何も足す必要はない、いまのままで演技しろ」と言ったという。
 
 英国王家の紋章は二頭のライオンが歩いている絵であり、それはリチャードがフィリップに送った手紙の押印である。当時その押印の色は緑であったらしい。現在、英国民がもっとも尊敬する歴代国王はリチャード獅子心王なのだ。
 
 私が「キングダム・オブ・ヘブンを見た理由はただ一点、彼がいつ、どこで登場するかであった。映画の時代背景が第二回十字軍と第三回十字軍遠征のはざまとあれば、近年、歴史物に凝っているリドリー・スコットのことゆえ、かならずリチャード獅子心王を登場させるにちがいない。
はたして彼は現れた、大詰の大詰で、王にふさわしい威厳と品格、やさしさをたずさえて。それを見たさに映画館まで来たわけなので、この映画の食い足りない部分‥テンプル騎士団とギー・ド・リュジニアンが主人公バリアンにからむ場面が少なく、また迫力にも欠ける‥は大目にみるしかない。



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