30   プロテスタント(2)
更新日時:
2003/01/27(月)
 
 ルターは1483年ザクセン地方の鉱山業者の家に生まれた。エルフルト大学で文学と法学を学んだが、21歳のとき、郷里から大学へ帰る途上で落雷にあう。その落雷を単なる偶然ではなく神の啓示、もしくは神の怒りと受けとめたのがルターの新たなる人生のはじまりであった。その後、アウグスティヌス隠修修道会に入り魂の救済を求める。修道士ルターが自らに課した最大のテーマは、いかにして欲望に打ち克つかであったようである。
 
 のちにヴァチカンがサン・ピエトロ大聖堂の再建費用をまかなうための免償状(免償状=煉獄での償いを免除する証書。私は免罪符として習ったが、免罪符は誤訳の色が濃い)の販売にルターは疑義を唱えた。そもそも免償状とは十字軍やローマ巡礼に付与されたもので、それが金で買えるというのは、どうみてもカトリックの教義に照らして納得のいく話ではない。逆に、罪の意識にさいなまれ、煉獄を想像してはおびえるキリスト教徒にとってこんなにありがたいお守りはない。免償状に対してルターが反論して書いたのが例の「95ヵ条の提題」。
 
 さて、このマルティン・ルターなる男、宗教改革を推進したヒーロー、もしくは傑物と賞賛する声も多く、たいていの歴史の教科書に紹介されてもいるが、それはそれでまことに結構、そういってルターさん、あなたは偉かったと万歳三唱でもしたい場面であるが、そうとばかりもいっておれない事情もある。
 
 キリスト教には崇高な理想があり、神の教えに従って誠実に生きるのが本分であるはずなのに、いつの時代も神の教えを無視したり歪曲したり、自分本位に解釈する連中が輩出し、その結果、敬虔な信仰者までもが世間の非難を浴びることもある。純朴で真面目な信仰者が世論の誤解や誹謗の対象にされるのは、なんとも理不尽きわまりない。
 
 ところでルターであるが、この偏執的とも思える排他主義者について、ユダヤ人とのかかわり方という見地から書いておかねばなるまい。ルターは異常としかいいようのないユダヤ人排斥論者であった。ルターがお上に進言した七つの提案は以下の通りである。
 
 「まず第一に、ユダヤ人のシナゴーグ(集会所)や学校には火をつけること。第二に、彼らの家も同じく取り壊すこと。第三に、祈祷書やタルムード(ユダヤ教の聖典)もすべて取り上げること。第四に、ラビ(ユダヤ教でいう賢人)がユダヤ教を講じるのを禁止すること。これを守らぬならば命を奪うこと。第五に、ユダヤ人には警護や道路使用を全面的に禁ずること。第六に、高利貸しを禁ずること。現金、金銀の装身具はすべて取り上げ、保管すること。第七に、若くて丈夫なユダヤ人には、男女を問わず殻竿、斧、鍬、シャベル、または糸まき棒、紡鐘を手にもたせ、額に汗しておのがパンを稼がせること。」
 
 これが一方で宗教改革に邁進してきた男のもう一方の側面である。自らが唱え、説くものはすべて正しく、神の御意に従っているが、カトリック、ユダヤ教が唱え説くものは背徳にほかならない。改革、革命とは古今東西かくなるものなのである。当時ルターの信奉者はおおぜいいたが、彼の改革運動に加わったのは信奉者だけではなかった。ルターの力説することが理解できない者、ルターの教義などどうでもよいと思っている者のほうが数の上ではまさっていただろう。
 
 その多数派とおぼしき人々が改革に参加して、あるいは参加するふりをして、カトリックやユダヤ教を排斥するにいたった動機は何か。カトリック教会を焼き払ったり、司教やユダヤ人を殺害した動機は何だったのか。
 
 ローマ教皇の専横や司教の俗物主義。貧困。それだけが彼らを暴動に駆り立てた理由であろうか。おそらくそうではあるまい。彼我のあまりに大きい貧富の差、日々の何処にも持って行きようのない疲労と虚脱感、永久に支払われることのない労働の代価。耕すための広大な土地はあっても、所有するための一坪の土地すら得ることのないかなしさ、無力感。世の中への苛立ち、不満、憤り。そんなものがはけ口を求めて、一度にどっと噴き出したのではあるまいか。
 
 しかし、ルターの最大にして最高の信奉者はこの当時の人々ではなかった。それはユダヤ人からみれば幸いにも、といったほうがよいのかもしれない。最大、最高の信奉者の登場まで、歴史は400年の時を与える‥。400年後かれは現れた、ヒトラーという名で。
 
 プロテスタント精神は、時空を超えて未来に継承されるべきものではなかろうか。民族、宗教、政治経済の問題や利害の有無にかかわらず、プロテスト魂は受け継がれていくべきはずなのである。なぜなら、民族、宗教、政治などの問題と利害を遙かに超えたところで、いや、そうではなく、そうした問題や利害と不即不離に、深い闇から鋭くとがった長い爪で私たちの心臓をえぐる魔物が、虎視眈々と出番を待っている。そいつは私たち人間の深層意識の奥にひそみ、時々外の様子をうかがっているのだから。
 
 ヨーロッパの全体像は甚だつかみにくいものであると思うが、いわゆるルネサンスや宗教改革なるものが中世と近世の橋渡しをしつつあった14世紀から15〜16世紀、学問を携えた市民の台頭とともに、ヨーロッパ各地の町々で急激な都市化がはじまった。学問を修めること自体はおおいによろこばしいことであるし、学問によって富裕な市民層が町の近代化を推進するのも悪いことではないだろう。だが、近世において学問が立身出世の道具となり、市民たちが自らの利権を守ることに汲々として、異文化を、さらには都市から隔絶された民衆を排除するとしたらどうだろう。
 
 改革という名の下に、新興都市に住む市民の多くが、彼らとは異質な者、異なった文化や宗教をもつものを忌み嫌い、そういう人々を排除し、迫害するとすれば‥。ことはユダヤ人だけの問題ではない、それは歴史が物語っている、アジアでも米国でも日本でもそれは繰り返し行われてきた。その問題と宗教との関係は別稿に譲るとして、この稿はひとまず終わりたい。
 
                           (了)



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