29   神のあわせ給いしもの(1)
更新日時:
2003/02/17(月)
 
 私たちが自分自身を変えることができるとすれば、それは私たちの心に罪の意識が芽生えたとき‥日本人の場合、ほかの人間やものとの関わり合いの中でしか罪の意識は生じないように思える‥なのではないだろうか。キリスト教が示唆するのは絶対者への罪の意識であり、原罪である。山や海、大地、大自然すべてに神々が宿り、それらを時に敬い、時に畏怖した私たちの祖先は、絶対者や原罪という意識をもたなかったもののようである。
 
 人はことごとく罪を犯す生きものというべきであるが、罪を犯したことが問題なのではなく、罪の意識の有無、改心する可能性の有無のほうがもっと重要であり、罪の意識の欠如している者、自分は罪を犯していない、したがって自分は悪くないと思っている者はさらに罪深く、罪の意識のある者、改心する可能性のある者のほうがむしろ天国の近くにいるとイエスは説いた。
 
 こういった考え方は今なら誰も怪しまないだろうが、当時としては画期的ともいうべき考え方で、キリスト教が各地に普及していった理由のひとつが分かろうというものである。では、罪深い者とは当時どういう人であったかというと、まず犯罪者、そして娼婦、しかし娼婦については「もっとも古い職業」などと記す史家もいたのであったが、これは娼婦にいわせると「選択の余地がなかった」ということになる。結婚できなければ、あるいは結婚できる環境が調(ととの)わなければ、当時の女性が就くべき職業がほかにあったのか、彼女たちはそういいたかったろう。
 
 イエスの教えはまことに簡潔にして明快、「この世で逆境にある者こそが真実を見分ける力を持っている、そしてそういう者たちのために天国はあるのだ」ということである。娼婦についても、彼女らは一般の人々に先んじて天国に入ると言明している。いわく、「汝らに先立ちて神の国に入るなり」と。
 
 昨今のように結婚する自由、しない自由云々ばかりか、離婚の自由が当たり前の時代には思いも及ばぬことかもしれないが、イエスは「神のあわせ給いしもの、人これを分かつべからず」といっている。離婚できないくらいなら結婚しないほうがまし、という考え方もないわけではないと思うが、結局イエスが言わんとしたのは、結婚とはそれほど重いものだということではあるまいか。
 
 今日では常識化している話として、古来から結婚とは子孫をのこすために行われてきたわけであって、家系を絶やさぬことはいわば至上命令であり、子を産まない、あるいは産めない妻とは離婚してもよかったし、古代ローマでは妻を裏切った夫は、夫を欺いた妻同様離婚の対象とされた。しかし、イエスの教えはそういった離婚のための必要条件を覆してしまったのである。たとえ子供のいない夫婦でも離婚は許されないとイエスはいっているのだから。
 
 そもそもイエスのいう結婚とは子供をつくることではなく、夫婦が愛を媒介として(つまりは男女の結合)互いの共同体を築くことであって、死がふたりを引き離すまで慈しみあうことであったもののようである。こういうことを口でいうのは簡単であるが、その思想というか教えを、いかなる迫害を受けても広めていこうとする意志は神の子の名にふさわしく、よくよくの使命感に根ざしていなければできようはずもない。
 
 家系を絶やさぬことや、相続がもっとも大切と考えられていた当時にあっては、こうした教えがどれほど革新的であったかは私たちの想像以上である思うし、もしかしたらイエスは相続のことなど眼中になかったのではないかと訝(いぶか)ってみたくもなるのだが、妻の社会的地位を保証し、娼婦が一般人より先に天国に入るいうイエスのことばは瞠目させたであろう、女性たちを。
 
 これで女性の多くがキリスト教を支持しないとすればおかしいというもので、おおっぴらに支持表明するのは当時としては憚(はばか)られても、その教えに共鳴した人は多かったはずである。ただしイエスが離婚できる唯一の理由としてあげたのは次のこと‥すなわち姦通であった。 
 
                             (未完) 



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