28   神のあわせ給いしもの(2)
更新日時:
2003/02/17(月)
 
 資料が後世の人間に教えるものは数々あるのだが、パウロの書簡は実に含蓄に富んでいる。彼はその書簡(「コリント人への第一の手紙」)で「自ら欺くな、淫行の者」といい、「もし自ら制することあたわずば婚姻すべし。婚姻するは胸の燃ゆるよりはまさればなり」といっている。また、天国に入れない者は、「姦淫をなす者、男娼となる者、男色を行う者、盗む者、貪欲の者、酒に酔う者、罵る者、奪う者など」であるという。となれば、殆どの者が天国に入れない、貪欲、酒に酔う者とあってみれば‥。
 
 パウロが問題にしたのはイエス同様独身者の淫行ではない、既婚者の姦淫すなわち姦通であって、未婚者の淫行は既婚者ほどには問題とならなかった。その理由はまことに単純にして明快、既婚者の一方が配偶者以外の者と淫行に走れば、他方の苦しみは未婚者の比ではないからである。
 
 キリスト教(カトリック)は離婚を禁じているが、唯一姦通だけを離婚の理由としてイエスは挙げている。
姦通がいかに重い罪であったかを物語る話であるが、それでもイエスは姦通を厳罰に処すべきではないと説いている。ユダヤ教では姦通した女は死刑に処せられたからだ。イエスは、姦通はいわば倫理上の罪で、法の裁きとは別の方法によって癒されるのが妥当と判断した。
 
 姦通の重さについてはシェークスピアが、妻の姦通に苦悶する「オセロ」に言わせている。オセロの妻デズデモーナは勿論姦通などしていない、オセロは腹心イアーゴーの策略にまんまとはめられたのである。猜疑心という毒は毒の中でも特に回りが早く、猜疑心は美徳を一瞬にして醜い姿に変える力をもっている。そして猜疑心が身体に充満すると、愛を捨てることも疑念を捨てることもできないのだ‥‥。
以下はオセロのセリフである。
 
 盗まれても、盗まれたものに気づかずば、知らさぬがいい。知らずば盗まれぬと同じことだ
 何も知りさえせずば、おれは幸せだったろうに。ああ、もう、永遠におさらばだ、安らいだ心も、
  満ち足りた気持も!
 誇り、光栄、はでやかさ!ああ、不滅のジュピターのおどろしき雷にまがう雄叫びすさまじい
  致命の大砲よ、お前ともおさらばだ!オセロの仕事はもう終わった!
 
 もう祈りもやめろ、良心も捨てろ。心を凍らす悪業にさらに恐怖の所業を重ねろ。天を泣かせ、
  地を驚かせる非道をやれ。何をしたって、もうこれ以上ひどい堕地獄の罪は加えようはないのだ
 真っ黒い復讐よ、立て、起これ、うつろな洞穴から!愛よ、わが心に占める王座と王冠を暴虐の
  憎悪に譲りわたせ!胸よ、毒蛇の舌から出た、お前の中の毒でいっぱいに腫れあがれ!
 
 経験したことのない人にとっては空気より軽いことでも、経験した身にとって姦通がいかに人間を苦悩の淵に追いやるか、イエスもシェークスピアも熟知していたもののようである。姦通は古今東西を問わず恰好の世間話の対象(現在「不倫」とか「不適切な関係」とかに呼び名を変えているが)となりうるであろうし、傍目には軽い題材かもしれないが、胸の奥深くに疑念が生じている者には、親の遺言以上に重い楔となるのである。
 
                           (未完)



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