27   隣の人
更新日時:
2003/04/11(金)
 
 生来のものぐさのせいか、近年ますます近所づきあいが煩わしくなってきて、日々の挨拶以外のことはできるだけしないようにしている。隣は何をする人‥かは互いに知っているが、共通の話題のあるわけのものでもないので、畢竟お天気と挨拶以外の会話を避けている。なに、こちらが敬遠するから相手も敬遠するというわけなのだ。
長くつき合って飽きのこない隣人は‥探せばいるのかもしれない、だが「隣人を探す」というのも変な話なので探したことはない。これは「夢画廊(Gallery Dream)」のなかでもふれたが、誤解を恐れずにいうと、すでに鬼籍に入った画家、音楽家、劇作家を彼らの許可を得ることなく無断で隣人にしている。
 
 ブリューゲル、シューベルト、モリエールは言うに及ばず、マキャベリ、モンテーニュ、シェークスピア、ティツアーノなども隣人で、なかにはアーサー王やマルグリット(ヴァロア家)、アン・ブリンも隣人の隣人で、当方が先方に出向くこともあるし、先方が拙宅の机まで来てくれることもある。
話題の中心はありていにいって行き当たりばったり、景気の話もあれば、殿方&ご婦人の醜聞や弔問に話が及ぶこともあるのだが、最近は「隣人とのつきあいの避け方」にもっぱら話題が集中している。
いずこも同じ春の夕暮れという次第なのである。
 
 先日、「魅力的な人間とは」という話題になったとき、隣人のひとりが‥ひん曲がった口髭を尖(とが)らし、肉屋のようにせり出した三段腹をゆさゆさ揺らしながら‥こんなことを言っていた。
 
 “話をすればたえなる声で人を魅了し、立居振舞もそれに劣らず魅力的という人物はいるものだ。話すことも黙ることも心得ていて、穏やかに相手に対し、話題も相手にふさわしいものばかり。巧みに言葉を選び、言葉づかいは美しく、皮肉を言っても人の心をなごませ、批判はしても傷つけない。
馬鹿によくある恐いもの知らずで喰ってかかるようなことは決してなく、ひたすら相手と共に良識と真実を探し求めているかのよう。滔々とまくしたてたり言い争ったりなどせずに、話をたのしみながら適当なところで口を噤む。
 
 いつどんな時もにこやかで笑顔を絶やさない。その礼儀正しさは少しもわざとらしさを感じさせず、慇懃でこそあれ卑屈なところはいささかもない。相手に気を使っていても、ほのかな影のようにさりげない。
ついつい行きたくなって彼のところに足を運び、その生活に触れてみると、身の回りの品のひとつひとつにその温かい人柄がにじんでいる。何もかもが目に心地よく、まるで故郷の空気を吸っている気分。
 
 派手なところ、ひけらかすところがまるでない、ただただ本当の気持を素直に表しているのである。率直にものを言いながら誰の心を傷つけるでもない。こうした人物は他人を神がつくり給うたままに、その欠点も滑稽さも温かく受け容れるのだ。
だからどんな年齢の人ともうまくゆくし、何があっても腹を立てない。万事先を見通す明がそなわっているのである。人を慰める前に親切を施し、やさしく、そして明るい。こういう人だから誰もが愛さずにはいられない。理想の人と仰がれて、人々の崇拝を一身にあつめることになる。”
 
 話がはじまった時、耳をそばだてて聞いていた数人の隣人も、話が進むにしたがって次第に白けきった表情に変わった。私たち、つまりシェークスピアもモリエールも、王妃マルゴも、思わず顔を見合わせたものであった。そりゃたしかに肉屋の言っている魅力ある人物の条件のうち、三つや四つそなわった人はいる。しかし、彼の言うように全部そなわった人間など存在しようもないことなのであった。
 
 マキャベリなどはよくとおる声でこう言ったものである。「そんな隣人がこの世にいたなら君主論より売れていたろうよ。」
肉屋のような風貌の男の名はたしかバルザックといったように思う。



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