26   ほほえみの国
更新日時:
2003/05/09(金)
 
 「ほほえみの国」はオーストリアが生んだオペレッタの傑作で、フランツ・レハール(1870〜1948)が作曲した。レハールの作品としては「メリーウィドウ」とならんで後世にのこる名作といえよう。
 
 レハールはハンガリーに生まれた、そのせいなのか彼のつくった喜歌劇には一種独特のバタ臭さがある。無論それは欧羅巴からみてのバタ臭さであり、ありていにいえば欧羅巴のなかの異国情緒なのである。「ほほえみの国」は1929年に作曲された愛の喪失物語で、第一次大戦前の1912年ごろのウィーンと北京が舞台、ウィーンの伯爵令嬢リーザと中国皇太子スー・チョンの出会いと別れを描いている。
 
 何が「ほほえみ」かというと、あの不可解なジャパニーズ・スマイルと遠からず近からずのチャイニーズ・スマイル、といってしまえば身も蓋もないのだが、スー・チョンのリーザに対する複雑な思いのたけを歌にし、最後にスー・チョンが「私たちはただほほえむだけ、それがみほとけの教え」と歌って幕が下りるオペレッタである。北京に嫁いだリーザの軽率さ、それはそのまま欧羅巴と東洋との文化と慣習の違い、互いに相容れない断裂を象徴する。
 
 ほほえみの国というタイトルをつけるなら、舞台は中国よりむしろタイのほうがしっくりくると思うのであるが(みほとけの教えとくればタイ、中国は儒教の国)、それはそれ、当時としては中国のほうが相応しいと思われたのであろう。もしかしたら、台本を書いた二人のシナリオ・ライター(ルートヴィヒ・ヘルツァーとフリッツ某)は中国のこともタイのこともあまり知らなかったのかもしれないのだが、そうした詮索はしないほうがよい。蝶々夫人同様、歌の素晴らしさにしびれればよいのだ。
 
 さて、この「ほほえみの国」のなかでうたわれる「君はわが心のすべて」がとんでもない名曲なのだ。前述のスー・チョンが屈折したおもいを胸に切々とうたうテノールの名アリアで、ストーリーの不整合さに文句の一つも言いたくなる御仁も、この歌にだけは聴き惚れる。
 
 「君はわが心のすべて」は過去、名テノールと称讃された歌手がうたい継ぎ、いまもその伝統は受け継がれているが、巷間いわれている名声とか名テノールの条件とかはどうでもよろしい、歌唱力抜群、声に張りとツヤがあって声量豊か、しかも常に溌剌としていなければならない、それが私の注文である。
 
 「君はわが心のすべて」は生でもCDでもずいぶんと聴いた、あまたの「わが心の」を聴いたが、一番よかったのは、生でもCDでも、ポーランド生まれの歌手リシャード・カルチコフスキーだった。カルチコフスキーの風貌はお世辞にも二枚目とは言い難い。一見すればむしろ悪役にむいている顔なのである。
それをきいてひどく失望する人もおられると思うが、彼の舞台で歌う顔はふだんと別物で、ちょうど舞台で真面目な役をやる勘九郎がふだんと違ってみえるようなものだ、いや、それ以上である。
 
 そしてまた歌唱力とツヤ、溌剌とした声だけでなく、カルチコフスキーのほほえみは、事後に爽やかさと感動の余韻を与える類のほほえみなのだ。私のつれあいは、彼のことをバットマン(コウモリ男‥そういわれれば似ている)と呼んでいた。勿論、カルチコフスキーの歌のうまさを十分認めた上でのこと。
 
 しかし、あることがきっかけでバットマンと言わなくなった。某年の12月31日、大阪シンフォニー・ホールでジルベスタ・コンサートが行われた。当時ジルベスタのスタッフの定宿はシンフォニー・ホールの隣のプラザ・ホテル(いまはもうない)。開演までの時間をつぶしていた私たちは、開演時間が近づいたので、ホテルのトイレをつかい、エレベーター・ホールまで出てきた。
 
 そうしたら突然エレベーターのドアが開いた。なかから背の高い男が不意に出てきて、つれあいとぶつかりそうになり、その男は素っ頓狂な声をあげ、とっさに体をかわして難をさけた。その後すぐにつれあいと顔を見合わせたときのやさしい笑顔、まさに「ほほえみの国」そのものの、あふれんばかりの心のこもった笑顔であった。爾来つれあいがカルチコフスキーをバットマンと言ったのを私はきいたことがない。
 
 
※「ほほえみの国」の「君はわが心のすべて」をカルチコフスキーが朗々と歌いあげる声に興味をもたれた方は、CD品番「Camerata 20CMー160」の『メラニー・ホリディ 「メリー・ウィドウ」〜レハール名曲集』の14曲目をお聴き下されば幸いです。



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