31   プロテスタント(1)
更新日時:
2003/01/26(日)
 
 歴史を学ぶことで得る教訓は、というのもまことにおこがましいが、学ぶことにはそれなりの意味があると私は声低く申し上げたい。歴史と地理は苦手でねえという人は少なからずいて、誤解を恐れずに申し上げると女性に多い。歴史の学習を推奨することは、もしかしたら女性を敵に回すことになるやもしれないが、それをあえて承知の上で小さな声で力説したいのである、歴史を知っていれば、いま現に起こっている国際問題の諸相をある程度正確に理解できようから。
 
 勤労者も専業主婦も、テレビの報道が伝える情報に敏感になっている昨今とあってはなおさらのこと、ニュースが時間の都合で端折ってしまったり、伝えなかったりした多くの事どもは、歴史を知っていること、あるいは歴史を学習することで補完できるのである。歴史に学べば、不精確きわまりない報道や情報が伝えなかったことを推理するよすがともなり、時と次第によっては、報道の欺瞞さえみえてくるのだ。
 
 歴史を知ることは単に歴史をおぼえることではない、現代を知ることである、過去を知ることで。
知っているだけではネ、分析能力の有無が問題なのでは‥などとこうるさい事を云うなかれ、それをいう前にまず知らねばなるまい、知れば比較もできよう。比較すれば何が正しく、どこが正しくないかおのずとみえてくる。分析とはそういうことである。
 
 14世紀半ば、ヨーロッパのいたるところでユダヤ人は聖餅を冒涜(カトリックのミサで使用される聖餅=せいへい=小型のパンは、キリストの身体に変形すると考えられていて、それをユダヤ人が盗み、針を刺したり、熱湯に入れたという)したとか、井戸に毒を投げ入れてペストを引きおこしたといういわれなき非難を受けて訴えられ、火あぶりや吊し首、車裂きの刑に処せられた。災難は咎人(とがにん)をつくるのである。また、ユダヤ人撲殺団と称する市民グループが大勢のユダヤ人を殺害してまわった。
 
 その背後には当時の年代記作者も推測していたように、金銭的利害が隠されていた。ユダヤ人迫害の裏には“ユダヤ人の財産を没収しようとする”意図があったのである。かれらはペストという悪魔に捧げられる生け贄であった。ペストという疫病を口実に焚刑(ふんけい)となったのだ。井戸に毒を投げ入れたなどという中傷は、債務者が負債を逃れるためのこじつけ以外の何ものでもない。
 
 ストラスブールの市参事はユダヤ人保護を義務づけられていたにもかかわらず、二千人ものユダヤ人が、わざわざそのために建てられた家で丸ごと火あぶりにされた。ユダヤ人の財産は何の説明もないまま差し押さえられ、町の有力者に分配され、担保や借用書は債務者に返却された。ある年代記作者は、その時の模様を次のように書いている。
 
 「金曜日にユダヤ人が捕らえられ、土曜日には火あぶりにされた。その数は二千人と見積もられた。
だが、洗礼を受ける気になった者は命を助けられた。親の意志に反して、多数の幼い子供が火の中から取り出され、洗礼がほどこされた。ユダヤ人からの借金はすべて帳消しにされ、担保や借用証文はすべて債務者の手にもどった。ユダヤ人が持っていた現金は市参事が没収し、手工業組合のあいだで配当率に応じて分配された。」(1362年『ストラスブールのドイツ人年代記』)
 
 かかる状況を別の年代記作者は憤りにみちた様子でこう記している。「何がユダヤ人を破滅に追いやったか知りたいですか。それはキリスト教徒の強欲だったのです!」
 
 16世紀、異端審問と腐敗の極に達したカトリックに対し、ローマ教皇権を公然と否定し、独自の改革論を提唱し、新しい宗教運動を展開したドイツ人マルティン・ルターなる男がいる。彼は一連の公開論争に果敢に挑戦したが、ライプツィヒでの論争で正式な破門に追い込まれた(1521年)。ルターは論争の準備に余念がなく、そのための草稿づくりに没頭する。「キリスト者の自由」、「ドイツ国民のキリスト教貴族に与える公開状」などの論文はその時書かれたもので、当時のドイツ政界はルター断罪派と容認派のふたつに割れていた。
 
 政界や貴族の中にはルターの改革論を政治的に利用する者もあらわれ、一部の急進派や貧農たちが自由と真の信仰の実現を求めて蜂起、各地で略奪行為を繰り返し、ドイツ国内は暴動と内政不安の嵐に巻き込まれる。1524〜5年には、牧師を住民が自由に選択する権利、教会税の軽減、農奴制の廃止を要求して各所で蜂起した。世にいう農民戦争である。ルターはこれら暴動の種をまいたのだ。
 
 その後の宗教改革はルターと訣別するかのごとく進展する。1521年にはルターに通行安全証を与えた皇帝カール五世(神聖ローマ皇帝カール五世&スペイン王としてはカール一世)も、1529年には宗教改革の自由を取り消すにいたった。それに対して、改革派の諸侯と神聖ローマ帝国諸都市がシュパイアーの第二次国会で公式に抗議したのである。この抗議(プロテスト)がのちに新教徒に「プロテスタント」の名称を与えることとなったのである。
 
                           (未完)



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