24   つたわりますか(2)
更新日時:
2003/08/30(土)
 
 パソコンをはじめてだいぶ時間が経つのに、いまだに不思議なことがあります。お互い名前も顔も知らないのに、よくもまあ長い間メールや掲示板を通じて交流がつづくものだと思います。それは特異な才能、あるいは秀でた能力と申し上げても過言ではありません。
 
 人はどこかでふとしたときに淋しいと感じるから、見知らぬ人にメールを送りたくなることもあるでしょう、いや、その前に友人にメールを送って返事を待つこともあるでしょう、暇つぶしか癒されたいかの理由は別として。そうしたときのお手軽グッズが携帯電話のメールであることは多くの人の認めるところです。
 
 携帯メールの効用については周知のことなので割愛いたしますが、携帯を媒介として見ず知らずの人たちがメールの交換をしあう状況は、携帯によってひとりひとりが出会い系サイトを開業しているかのようです。本物の出会い系サイトとの違いは、安全であるか否かでしょう。
もっとも、この安全という言葉もいいかげんといえばいいかげんで、私たちはいつ、どこで、どのように犯罪に巻き込まれるか知れたものではありません。だれが近未来を確実に予測できるというのでしょう。
 
 近年、世代間の格差を頻繁に感じるようになりました。ときには同世代にもある種の隔たりを見出すようになりました。そうした隔世感にはアナログとデジタルの相剋が一役買っているのかもしれません。
 
 さて、今年の関西地方は阪神タイガースの優勝ムードでいつになく盛り上がっています。私はタイガース・ファンではありませんが、たまさかタイガース戦の実況中継をテレビでみることがあります。
球場のなかのタイガース・ファンは、応援を通して一体化しているかにみえ、各地で行われるゲームに彼らが仕事を休んでも足を運ぶのは、野球の勝ち負けよりも一体化に魅了されているからではないかとも思えるのです。彼らのほとんどが携帯を自由に操る若い世代です。
 
 しかしさすがに、応援で歓呼の声をあげているときにメールのやり取りをする人は少ないでしょう。
肉声を張り上げて贔屓チームに声援を送るほうが、メールを送るより実在感があるからです。
声援があまりにも大きすぎるので、しばしばやかましいと感じることもありますが、肉声と肉声がはげしくぶつかりあう状況は一体感の極致かもしれません。
 
 ふだん、日常で、仕事場や家庭、学校で、自分の思いの丈を言いたくても言えない人もいるでしょう、言いたいことをいってはいても、まだ言い足りない人もいるでしょう、そういう人の多くが球場で声の嗄れるまで叫べるのです。ああいう状況では、メールを百万回送っても相手にうまく伝わらないし、一体感など得られようはずもありません。
肉声とメールを比較するのもどうかとは思いますが、肉筆同様、肉声の伝えられるものはメールのそれより遙かに大きく深いのではありますまいか。
 
                            (未完)



次頁 目次 前頁