23   つたわりますか(3)
更新日時:
2003/08/31(日)
 
 あれはだれだったでしょうか、美しいものと醜いものがまだ分かれていなかったときに‥といったのは(記憶が正しければ柳宗悦)。 あの言葉を読んで思ったものでした、美と醜は分かれているのではなく、人の心がそれらを分かつのだと。
 
 美しさを伝えようとして醜さを伝えることがあります。またその逆もあるでしょう。美醜はコインの裏表、いつも表だけ見る人にコインの裏は存在しないのです。表は美しいが裏は醜いだろうと疑念を抱く人が裏をみれば、裏は醜いのです。
人の心は広い、海よりも空よりも広いと思うことがあります。しかし人の心は狭い、針の穴より狭いと思うことがあります。美を美として伝えること、醜を醜として伝えることはやさしいようでやさしくはありません。
 
 相性の合わない人が美しいと思うものを、素直に美しいと同調するのは簡単でなく、相性の合う人が美しいとみなしているものを、醜いと否定するのはさらに簡単ではありますまい。
美は信用であるといった人もいます。芸術における美はたしかに信用という要素が意味をもつでしょう。その道の権威が美しいと認めなければ世に出ない美がたしかに存在し、私が、あなたが美しいと認めるものは個人的な美であって、それは決して世に出ることはないと考えられています。
 
 しかし、それでよいのかと思うことがあります。専門家や権威の審美眼が私たちのそれより優れているとだれが決定づけるのでしょうか。むしろ私たち大勢の審美眼のほうが数人の専門家より普遍性をもつのではないでしょうか。タリバンに破壊されたバーミヤンの石仏が千数百年の長きにわたって信仰と美の対象でありつづけたのは、だれよりもバーミヤン村で暮らしてきた人々の審美眼と、石仏を守らねばならぬという意識の継続の賜物ではなかったでしょうか。
 
 人は美しいものを、崇高なものを守ることによって誇りを保持し、その誇りゆえに美を子孫に伝えたいと願うのではないでしょうか。美はいつかは失われるのです。しかし、美を伝えてゆく担い手としての家族はのこります。ある人はこう思うことでしょう、美のなかでもっとも美しいのは家族を思う心、家族への愛であると‥。美を伝える心と家族愛は別々のものではない、実は同じものではないでしょうか。
 
 それにもかかわらず、家族への愛は無為に彷徨し、美は伝わりがたいのです。そもそも、美しいもの、崇高なものは時代を問わず伝わりにくいのです。いつの世も安直なもののほうが伝染しやすいのです。伝染しやすいものはすぐに飽きられ、長続きすることはありませんが。
 
                             (未完)



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