21   幸福の在処(ありか)
更新日時:
2004/01/06(火)
 
 人は欲深い。欲望のなかでも年齢、世代をこえて追求してやまないのが「生きがい」と「幸せ」である。
 
 自分はそんなことはない、すでに人の親だし、親なら自分のことより子供の幸せを第一にねがう。なるほどもっともな話である。子の幸せが叶うことであなたが幸せなら、畢竟あなたは自らの幸せを子に託しているにすぎず、子が幸せになることがすなわち幸せなのである。
それを幸せの追求といわずして何というべきか。あなたたちが考えていることなら私たちも考えている。私たちの欲望は事と次第にもよるが際限がない。だから適当なところでお茶をにごすのが賢明というものであるのだが、こればっかしはお茶をにごせないという人が後を絶たない。
 
 幸せは与える、あるいは与えられるものと思っているのではなかろうか。与えるということばをあてがうと言い換えてもよいが。しかしながら、与えることで幸福感にひたれるのはほんの束の間、いや、そもそも与えられたもので人は幸福感を味わえるものであろうか、味わえたとしても持続するものだろうか。私は何十年も前からそこが分からない。
 
 近年それがさらに不明瞭というか雲霧化してきて、というのも、昭和20〜30年代とちがって、現代は生まれたときからたいていのものは家にあり、つまりあてがわれており、はじめはなかったものでも、成長過程で概ね入手できる環境がそなわっている。人の与えうるものは時流の変化によってたちまち古くさいものにされてしまい、人はつねに、そして永遠に買いつづけねばならない。
 
 消費社会は昨今だけでなく16世紀の英国にも存在したし、17世紀にいたっては相当数の企業が生活必需品とは考えにくい消費品(タバコ、ビール、ワイン・ビネガー、酒など)を供給した。
生活必需品かどうかはともかく、野菜を例にとると、レタスはキャベツ・レタス、ハンバー・レタス、ローマ・レタス、サヴォイ・レタス、ピンク・レタス、赤レタスなどから選ぶことができたし、玉ねぎがほしければ、ストラスブール種、赤スペイン種、白スペイン種、フランス種、イギリス種のなかから選べた。
靴下はピンからキリまで、品質のよいブランドもの、そうでないもの、多種多様の選択肢があった。
 
 19世紀には消費品であるモノはモノ以上の存在と化す。バルザックやボードリヤールは、消費社会にあふれる商品は「人々が他人と自分を区別する記号」として機能すると看破していた。人々はモノを消費しながら実は差異化の秩序を構築しているのであり、それが豊かさへの志向にほかならないこと、モノにはそうした魔力のひそんでいることを把握していたのである。
 
 欲望は人をかりたて、量と差異を追う。それこそが都会に住む現代人のいのちのかたち、幸福のありかにちがいあるまい。
 
 多くの辛酸をなめた人、あるいはそういう人々をみてきた人は、「不幸が理解を生む」という。なるほど不幸を経験することにより幸せの意味が分かるというものである。だが私は、不幸をへてなお幸せの何たるかを知らぬ多くの人を知っている。同一の体験をしたもの同士が不幸のありかとその意味を理解しあうことはあっても、だからといって幸せの何かを理解し、分かち合うだろうか。
 
 不幸な者が不幸なままでは幸せとはいえず、幸せな者もまた幸せなままでは幸福とはいえない。幸せは一箇所にとどまることを知らず、昨日の幸せは必ずしもきようの幸せとはならず、いま幸せな者も新たな、あるいは次なる幸せをもとめてあくことがないからである。
 
 対象がモノでも人でも、つねに不足感をかこつ類の人は不満のたねがつきない。この種の人々は自分に非があってもそれを認めようとせず、容易に謝らない。謝らないことがさらに不満を助長するのであるが、本人は不満だから謝らないのだ。不満はしかし連鎖する。
不満人は感謝の気持を持つことで幸せが招来するということを知らない。どんなちいさな幸せにも感謝する人は幸せなのである。世界を手に入れても、月も火星も手に入れねばとつねに不満を持ち、感謝の心を失っている人は不幸としかいいようがない。そういう人は全宇宙を得てもなお幸福感を味わえまい。
 
 断言できる話ではない、そんなことは遠から分かっている、が、感謝することほど私たちを幸せな気分にさせるものはない、私はそう思っている。水道も電気も来なくなったとき、それらが回復したら感謝、ボロボロの毛布があたらしくなったら感謝、重い病から快復したら感謝、いまこうして生きている、生かされていることに感謝することが幸せにほかならないと思っている。



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