20   引っ越しは疲れます
更新日時:
2004/02/06(金)
 
 二十代半ばから三十代後半まではしょっちゅう引っ越しした。特別引っ越しが趣味であったわけでもないのに、生活の拠点が変わるか、それまでの住まいが手狭にになるかして、引っ越しするつもりなどなくても引っ越しせざるをえなかったのである。
 
 引っ越しは正直好きではなかった。ため込んだ本が多すぎて、本を段ボールに詰めるだけでもうイヤになった。長時間にわたる段ボール詰めはどういう姿勢をとっても背中と腰が痛くなる。すこしずつやればいいじゃないかと楽をすると、引っ越しの間際までさぼって作業しないから、明日が当日ということになって大騒ぎしたこともある。
 
 様々な引っ越し屋の跋扈する昨今、本の一万冊やそこら、引っ越し屋が段ボール詰めも全部やってくれるではないかという御仁もいる。それはそうかもしれないが、その手の引っ越し屋はそれなりの料金がかかるというもので、引っ越しを安くあげたい者としては、自分でできることは自分でしたい。
 
 引っ越しは準備も手間だが、終わった後も手間である。できるだけ煩雑を避けたい者として、転居先の作業をすみやかに仕上げようと取りかかるのであるが、これがなかなか面倒、すみやかに終わるはずがない。誤解を承知でいうが、私は片づけの時間より休憩の時間のほうが多いという定評がある。
そんな定評だれが定めたかというと自分で定めました。作業が30分ならコーヒーブレーク1時間、あえていうとそれが私の流儀である。怠慢といえば怠慢、これだから引っ越しはいつまでたってもキリがなく、ようようキリがつくのは引っ越し後一ヶ月もすぎてからなのだ。
 
 引っ越しが苦手なのはほかにもわけがある。せっかく前の住まいに慣れ、人が訪ねてきてもふだんの顔で相対するようになったのに、住まいが変わるとよそ行きの顔をしなければと思ってしまうのだ。
引っ越ししても簡単な転居通知くらいしか出さない私とちがい、つれあいは知人友人を転居先に招きたがった。いまはもう私もつれあいも相当な年輩になってしまったので、人が訪ねてきたからといってよそ行きの顔をしなくなったし、引っ越し自体もこの十数年ご無沙汰、招くこともご無沙汰である。
 
 私は引っ越ししても人を招くのは避けたいと思ってきた。引っ越し先の物件は幸か不幸か常に新築であったが、新築であろうが中古であろうが、引っ越しは私にとって疲労以外の何ものでもなく、引越祝いなどという心境にはとうてい達しないのである。
自宅でふんぞり返っているのは性に合わず、かといって、ふだんの顔で昔話や現況報告をするというのも御免蒙りたい。できれば自宅以外の場所で、ふだんの顔をして会話をたのしみたいと思うのだ。そのときの話題は趣味に関することにかぎる、仕事の話しかしない人は退屈きわまりない。
 
 パソコンをはじめた頃、学生時代の友人にメール友だちになってもらおうかと思い申し出た。その人は当時未婚で、家に帰れば時間をもてあましているはずだった。
ところがその人のメールの内容は、仕事の話ばかりでいっこうにおもしろくない。私がその人の同僚とか同種の業務に携わっているのなら興味もわくが、500キロ離れて仕事の話だけではキャッチボールのしようがない。
 
 こちらから申し出たことゆえ、何回かメールのやり取りはあったが、とうとう私は返事を出さなくなった。そのうちその人は都内の某所に引っ越し、後かたづけに忙殺されたのかメールも来なくなった。
そうこうしていたある日、一通のハガキが舞い込んだ。その人からの転居通知で、それには転居先の住所の横に添え書きがしてあった。「仕事も疲れますが、引っ越しはもっと疲れます」。



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