17   魂が心を読む(壱)
更新日時:
2004/05/17(月)
 
 数年前から成人病だけでなく痴呆症に対しても関心をいだくようになった。母方の伯母の痴呆が進んでとうとう特養老人ホーム入りを余儀なくされ、あんなにしっかりしていた伯母でさえボケがくるのなら、ふだんから怠慢な暮らしをしている私なんかにはもっと早くボケがおとずれるはずだと思ったからだ。
 
 大正初期生まれの上品で料理の得意な伯母だった。十人兄妹の長女だったが、祖父方の大伯父との約束で山陰の名家・吉川家(毛利家の親族)に養女に出された。二女は鳥取市内の旧家に嫁いで姑と小姑と同居し、人にいえない苦労のしどおしだったから、うらやましいとは毛ほども伯母は思わなかったらしいが、小学校終了時まで親元にいて何不自由ない生活をおくってきた三女がうらやましくて仕方なかったという。三女とは私の母のことである。
 
 しっかり者の伯母が不名誉な病にかかったのは、お盆に墓参りをした折、石段を踏み外して腰を骨折したことに端を発する。伯母が入院したときいてすぐさま見舞にいった頃は痴呆のかけらも示していなかったが、退院後も満足に歩けなくなったせいで頭の老化が急激に進行したのである。
骨のもろくなった年代に周知のこととして、【骨折→中長期の入院または自宅療養→からだを動かさない→ボケがはじまる】という図式がある。
 
 この図式から逃れるには骨折しないこと、つまり予防が肝心で、予防にまさる治療はない。とはいっても、いずれ読者諸氏にもそういう時期がやってくることはたしかで、予防していても不慮の事故はおこるのである。
痴呆という呼称は、それでなくても精神的負担に押しつぶされそうになっている家族にとって不名誉であるばかりか、そういわれるだけで心が痛むこともないわけではない。痴呆が別の呼び方に変わる日もそう遠いことではないだろう。
 
 伯母の場合は徘徊もほとんどなかったし、自分の夫や兄妹、甥や姪を間違えることもなかった。ただ甥の配偶者を、それも、特定の者への見分けができなかった。甥たちとは血のつながりはある、しかし、その配偶者とは血縁関係がないから見誤ったのではないかといえば、それがそうではなく、ありていにいうと、伯母のことを芯から思っていた人のことは分かっていたのである。
 
 これをいうといささか手前味噌という感がしないでもないのだが、私のつれあいのことはまったく間違わなかった。が、弟の配偶者のことはいつも間違えていた。いや、間違えたのではない、彼女が帰ったあと、いつも「あの人だれ?」といっていた。伯父が「○○だよ」といっても、キョトンとしていた。
 
 記憶だけが人を導いたり、人を左右するのではない、私はそう思った。心、といっても、ふだんは表面にあらわれない、自分でもほとんど自覚することも認識することもない心、あえていうなら魂とでもいえばよいのだろうか、それが人を導き、左右することもある、私はそう感じた。
 
 表向きだけ親しそうに、あるいは優しそうにしても、それはたかだか知れている、そんなことくらい魂は先刻ご存知で、そのときそういう認識がなくても、記憶がぼやけたとき、あらかじめ刻印されたそれが発動するのである。意識が相手の心を読めなくても、無意識が心を読むのだ。
 
                        (未完)



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