16   列車に乗った男
更新日時:
2004/06/29(火)
 
 2004年上半期の外国映画は春過ぎから豊作となった。それ以前にこれはと思ったのは「ラブ・アクチュアリー」と「女王ファナ」で、「真珠の耳飾りの少女」は見るべきものがなく期待外れであった。
 
 6月に入って、「列車に乗った男」、「パピヨンの贈りもの」、「ヴェロニカ・ゲリン」、「白いカラス」と立て続けにみた。前三作は終了まで座席にいる値打ちはあったが、「白いカラス」は途中で席を立ってもよいくらいの、評にかからずの内容だった。駄作の理由をいうのは野暮というより時間の浪費なので省略するとして、特筆すべきは「列車に乗った男」である。
 
 パトリス・ルコント(監督)とジャン・ロシュフォールの組み合わせは「髪結いの亭主」ですでに実証ずみ。不要なセリフを削ぎ落とし、表情の微妙な変化と、俳優自らがつくる「間」によって味わいのある作品に仕上げる手法は映画の醍醐味そのもの、最初から最後まで画面に惹きつけられた。
 
 日本で上映されるアメリカ映画のほとんどは映画のなかに伏線をバラバラまき散らし、大詰で起こりうる場面の種明かしをしているから興もさめ、途中で帰りたくなるのである。ほとんど常に饒舌と喧噪とが大手を振ってのし歩く。あれはいったい何のつもりであろうか、お国柄なのか、お人柄なのか知らぬが、そういう類の映画は感興をぶちこわすというのがわかっていないようである。
 
 途中で席を立ちたくないので原則としてアメリカ映画はみにいかない。配給会社の喧伝する、いわゆる話題作は特にみない。話題作という場合の「話題」は配給会社のやらせであり、つまるところ、配給元自らが勝手に話題作といっているだけのことなのだ。
自称「話題作」では飽きたらず、芸能人などを試写会に招いてコメントをとる。むろん、ロクなコメントはない。そもそも、聞くに値するコメントをいうような芸能人は端(はな)から招待などしない。
 
 米国には渋くて深みのある俳優は少ない。では、そういう俳優はどこにいるかというと欧羅巴にいる。
フランスや英国、アイルランド、ポルトガル、ポーランドやチェコにいて、日本での知名度は概して低い。知名度の低さは興行収入に直結する。それゆえ大手配給元は彼らの出演映画の上映を忌避する。
それらは、ちいさな映画館とか会館のみの上映となる。メディアはやすやすと配給元の尻馬に乗って宣伝しないので、さらに知名度は上がらない。事はその繰り返しである。
 
   閑話休題
 
 「列車に乗った男」の主人公はふたりの男、ジャン・ロシュフォールとジョニー・アリディである。
その比類なき存在感は見る者を圧倒せずにはおかない。
放浪者ジョニー・アリディは、ふとしたことから定年を迎えた元教師ジャン・ロシュフォールの古い屋敷に同居する。元教師は自分の人生になかった冒険を夢みている。放浪者は目的があって町に来た。
 
 ほどよい調べのお喋りと生まれつきの寡黙が、ときには屈折した笑いを、ときには緊張を生み、人生の深淵を共有しているかのような独特の雰囲気と呼吸が、彼らのかぎられた会話とかすかな表情の変化、「間」を通してスクリーンにただよってくる。そして、私たちもその「間」と呼吸を享有するのである。
 
 世に名作、名優といわれるものには必ずこれが存在する。すなわち、スクリーンに繰り広げられるシーンを見ながら、俳優の呼吸に自分の呼吸を知らず知らず合わせるのだ。そしてまた、俳優のつくる「間」が私たちの「間」となるのである。
名作とはそういうものなのだ。ひたひたと打ち寄せてくる感動の波をだれが押しもどせよう。感動の静かな波は呼吸が合うことによって私たちをおおいつくすのである。駄作とは、私たちと俳優の呼吸が合わない作品のことだ。そういう意味において、大手配給元によって上映される映画のほとんどはその名を冠されるべきであろう。
 
 ところで、これをいうのはつや消しであるが、「列車に乗った」というのは実は反語で、名優たちがいつもそうであるように、彼らの乗る列車はすでに発ち、列車に乗れないことがその映画を名作たらしめるのである。私の乗るはずの列車もすでに発ってしまったのだ。そうして私たちは思索し、心の風景を探しはじめるである。



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