14   永遠の語らい
更新日時:
2004/08/29(日)
 
 ポルトガルの名匠オリヴェイラの作品「永遠(とわ)の語らい」はリスボン・テージョ川からはじまる船旅の途上、母と幼い娘が歴史と文明を訪ねる話である。リスボン大学で歴史学の教鞭をとる母は娘をともない、パイロットの夫の待つボンベイ(ムンバイといわないところがいい)まで旅するのだが、時間も費用もかかる船旅を選んだ理由は、地中海やエーゲ海沿岸に栄えた古代文明の探訪にあった。
 
 今年95歳になったオリヴェイラ氏の作品は以前数本みた。「アブラハム渓谷」(93)、「階段通りの人々」(94)、「メフィストの誘い」(95)、「クレーブの奥方」(99)がそれで、地味さのなかに生きることの深さ、もどかしさを散布した内容の映画が多かった。ただ、中には人生のようにすっきりしない作品もあり、「アブラハム渓谷」と「メフィストの誘い」については再鑑賞したが、依然消化不良のままである。
 
 その点、今回の「永遠の語らい」は分かりやすい。遺跡はそこにあるし、栄枯盛衰のまにまに翻弄され、時に悦楽をむさぼった町もすがた・かたちを変えて存在する。存在するものを見ながら説明するから分かりやすいということと、その町なり遺跡なりを訪問したか、あるいは予備知識があるから分かりやすいのだが、反面それに慣れてしまうと、この映画は観光映画かと思ってしまう。
 
 往年の名女優三人が船長と夕食しながら会話をたのしみ、その会話のなかにそれぞれの個性と経験が表出するといった場面もあり、映画をみる者の彼女たちや会話の内容への好みをさぐるような趣向になっている。そういったところもこの映画の眼目であると思うが、それに気を取られているとオリヴェイラの罠にはまるだろう。
 
 スフィンクスとピラミッドの眺めのよい場所で母娘が休息しているところにポルトガル男優があらわれて、母娘をメナ・ハウス・オベロイ・ホテルへと案内するのであるが、ホテルのショッピング・アーケードで彼のいうことばが妙に引っかかって仕方なかった。彼はこういう、「夜になると太陽は死者を照らすために隠れる」。
 
 ヨーロッパ映画は米国映画とちがってみえすいた伏線を用意することはない。しかしながら、そういう場面でもないのになぜこういうセリフをいわせたのかずっと気になっていた。
エジプト神話であれ旧約聖書であれ、物語は英雄や救世主の来歴を語るだけではなく、殉教者をも語るのであってみれば、ゆめゆめ[新たな出会いをのせて、悠久の船旅が今はじまる]などという配給元のコピーを真に受けてはならない。なぜなら、コピー作家はこの映画の何たるやがまったく分かっていないからである。何でもいいから適当に書いておけばよいのならコピー作家は不要であろう。
 
 悠久なのは映画に登場する歴史遺産であるから、「悠久の歴史を訪ねる船旅」というなら正鵠を射ている。特にこの母娘は、最終目的地のボンベイ港に着けば夫であり父である男と会い、旅はそこで完結せざるをえず、旅の終わりは旅のはじまりですらないのである。
この映画の眼目のひとつは、観客席にいるあなたが母娘とともに船旅をする気分になることで、しかも、悠久の歴史遺産を巡る旅なのだ。母娘の旅が終わってもあなたの旅は終わらない。母娘の船旅は悠久ではないが、私たちの旅の終わりはない。
 
 映画を試写し、映画の結末が分かっているから、細部を観察しもせず[悠久の船旅が今はじまる]などというコピーを考えたということがはっきり見てとれるのだが、それでも、母役のポルトガル女優レオノール・シルヴェイラの端正な演技、船内のテーブルで人生を語るイタリア女優ステファニア・サンドレッリの思い入れ、ギリシャ女優で大ベテランのイレーネ・パパスの円熟味があって面白い。



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