13   七難八苦
更新日時:
2004/12/12(日)
 
 私の母が生前、好きなことばがあった。戦国の武将・山中鹿之助の「われに七難八苦をあたえたまえ」である。一つの難儀、一つの苦しみだけでも避けて通りたいのが人情というものであるのに、七つの難儀に八つの苦しみとは何事かと普通なら思うことだろう、私もそう思った。いや、そうではあるまい、そもそもこのことばの意味するところを理解していなかった。
 
 母のいいたかったのはおそらく、よしんば人からあたえられた難儀や苦しみでも、それは天からあたえたものとして立ち向かえということであったように思われる。苦難に立ち向かい、乗りきれるかどか私たちはためされている、苦難に立ち向かって、乗り越えてこそ喜びがある、そうもいっていた。
 
 母の生き方に較べれば、私はなんと意気地のない生き方をしてきたかと恥じ入るほかなく、両親や祖父母が経験した苦労の万分の一ほどの苦労をしたのかと自問せざるをえない。閻魔がエンマ帳をつけているなら、私にはずいぶんと辛い点をつけているだろう。
 
 母が亡くなって六年たった。母とのつきあいは五十年におよぶ。私と私のつれあいが今後二十二年この世に足跡をのこさねば追いつけない時間である。父とのつきあいは十九年であったから、五十年は長かったようにも思うが、なに、過ぎてみればアッというまだ。
父は住友銀行鳥取支店(父は大正九年、鳥取市で生まれた)に勤務し、野球部で捕手をしていたが、何を思ったか見習士官を志望、陸軍将校となって兵役につき、戦争真っ只中の中国大陸前線に赴いた。
 
 大陸で何があったか、戦争中のことゆえ幾多の艱難辛苦を凌いできたことは間違いない。父は何も語ってくれなかったから知りようもなく、脇腹に受けた銃弾の傷痕、太腿に負った銃創の手術跡を見て想像をはりめぐらすしかなかった。いま思っても、よく生きていたなと思う。
 
 幾度となく死線をかいくぐってきた父ではあるが、こと子供のことになると意外なほど心配性で、扁桃腺の弱かった私が高熱で一晩うなされていたとき、夜中にふと目を覚ますと、そこにやさしい父の顔があった。子供の看病は母ではなく父で、氷水で冷やしたタオルを何度となくしぼっては替え、替えてはしぼり、朝まで寝ずの看病をして仕事にいった父を私は何度か見た。
 
 このホームページの「英国・コッツウォルズ」の「Lower Slaughter1」で、『道の向こうからいまにも幼なじみや、祖父、父が笑顔で歩いてきそうな感じさえしたのです』と記したのはそういう父のことなのだ。
 
 人がどれほど出世したとしても、同世代との競争に打ち克ったとしても、世間から多大の評価を受けたとしても、人は自分の父母を越えることはできない。父母が経験した七難八苦は、君が経験したそれより何倍もの苦難の道なのである。
 
 山中鹿之助といえども例外ではない。もしかしたら、鹿之助は豪気に開き直って、「われに七難八苦をあたえたまえ」といったのかもしれず、ひるがえって母は、真の喜びは七難八苦を経た者だけが知るとわかっていてそういったのかもしれないのだ。時代がちがう、人はそういうだろう。戦国時代と大正・昭和では比較にならないと。時代のちがいもたしかにある、だが、時代の相違を凌駕して、いまもなお生きつづけている何かがあるのだ。
 
 経験から人が得るものは年齢によって異なる。この世には、その年齢に達しなければ会得できないものがたしかに存在する。母はそういう年齢に達していて、子はいまだその年齢になく、それは永遠に埋まることのない年齢差なのである。(未完)



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