12   極楽は日が短い(二)
更新日時:
2004/12/31(金)
 
 同じ表題で「Essay」2001年10月9日に小文をしたためたので、今回はその続編とでも云うか‥。
 
 極楽のなかにいる者はそこが極楽であるとは知らぬ。そこが極楽だったとわかるのは、そこから別の場所へと移動したとき、つまりは状況が一変したときである。ちかくは、金に不自由せず快適な暮らしをしていた者が困窮をきわめたとき、とおくは、厄災に遭遇し辛酸を舐めたり、生き地獄を見て人は極楽を知るのである。そしてまた、個人差はあろうが、ある年代に達したとき、極楽は日が短いことを知る。
 
 極楽は日が短い。物理的時間といった観点からもそう明言できるが、心的時間からも言いきれるように思う。五十年の長きにわたって極楽にいた人が晩年にさしかかったころ、わずか二、三年の辛苦を味わったとする。二、三年にくらべれば五十年は長い、にもかかわらず、極楽滞在五十年は短いと思うのである。過ぎてみれば五十年は瞬時、それにひきかえ、艱難辛苦の数年はあまりに長いと感じる。心的時間とはそういうものである。
 
 そういう類の時間のことをついでにいうなら、初対面同士がおおむね相手を知るには小一時間もあれば十分である。この場合の「知る」は理解するということではない、相手の波長が自分の波長と合うか合わないかを知るという意味だ。波長が合う合わないは、相性が合う合わないと似て異なる。
波長が合わないからといっても、おたがいの人生を左右しはしまい。だが、相性が合わないとたがいの人生に大きな影響をおよぼす。ありていにいえば、日々の生活に齟齬をきたし、そのままそれを放置すると、その後の生き方に狂いが生じることもある。
 
 そういうと、私たちは相性が合うから安心と早合点する人もいるだろう。ところが、相性が合いすぎるのが災いの元凶ということもある。何いってるのかわかんない、という御仁は「My Memories」2004年2月の「相性のよさが不幸を招く(1)〜(3)」をお読みいただきたい。洩漏かつ尾籠のきわみかとも思うが実感である。
 
 波長の合う者同士がたまさか激論を交わすこともあるし、激論のすえにしばしお別れということもなくはないが、相性のぴったり合う者同士は議論にもならない。同じ主題からみちびかれる結論はおおよそ同じであるし、途中の寄り道的意見さえもが同じということもある。これを同道者という人もいる。
 
 波長が合えば、相手の考えがスムーズにつたわってくる。逆に合わなければ、相手のいいかげんさやウソがすぐわかり嫌気がさす。それが波長が合わないということであってみれば、波長はその人の嗜好にも影響をあたえる。いや、もしかしたら、嗜好が波長にはたらきかけるのかもしれぬが、ともあれ、波長の合う合わぬを軽視できないだろう。
 
 さて、極楽は日が短いという認識はすでに私たちが子供のころ感じていたことで、むろん今のようにはっきりとした認識の仕方ではなく、漠然とそう意識していたことは論より証拠、月曜から金曜までの放課後と土日(私が小学生のころは週休一日制でした)は短く、それ以外の時間のなんと長かったことか。
 
 老いとは時間にめざめることである。過ぎた時間と残りの時間のどちらが多いかを知ることである。八十歳をすぎてなお、心的時間のたっぷりあると思える人はしあわせこの上ない、金銭面で余裕があって、健康面でも特に心配がないからである。
 
 心的時間は物理的時間より優位を占める。ふつうに考えれば、物理的時間の残りすくなくなった八十すぎの老人が矍鑠(かくしゃく)とし、まだ三十年から四十年ほど生きそうないきおいで処世に取り組むのは、時間にめざめる回路が欠落しているとしか思えない。しかし当人からすれば回路の欠落どころか、心的時間の異様な長さが回路に割りふりされており、この世は寝ても極楽、起きても極楽なのである。
 
 そういう例外もないわけのものではない、が、森羅万象ことごとく陰陽でなりたち、つまりは、吐く息と吸う息、動脈と静脈、昼と夜、満月と新月、誕生と死、プラスとマイナス、男と女。そういった陰陽すべてを慈しみ、愛してゆくから、たがいに生かされ、生きてゆくから、だから極楽は日が短いのかもしれない。



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