10   映画を愉しむ(2)
更新日時:
2005/02/18(金)
 
 前回「映画を愉しむ(1)」で忘れ物をした。ジャン=ポール・ラプノーの「シラノ・ド・ベルジュラック」である。シラノ役はジェラール・ドパルデューで、あの大作「シラノ」を最初から最後まで息をもつかぬ展開で一気にみさせた手腕には、感動より驚嘆というほかなかった。いつの間に2時間20分過ぎたのか、まだ20分もたっていないのでは‥と時間の経過を忘れるほどスクリーンに入りこんでしまう映画だった。
 
 面白い映画はすべて時間を忘れさせてくれる。次ぎの展開がどうのこうのと考えるヒマなどあたえてくれない。出てくる俳優‥主役、脇役の別なく‥のうまさ自然さに度肝を抜かれ、背景となる景色の美しさに陶然となり、大道具、小道具、衣裳の選択の巧みさに目を見張る。映画の途中で時々思うのは、見覚えのある脇役の出演した映画名、それと、あの時に比べたら格段にうまくなったという感慨である。
 
 じっさい、ある種のインパクトのあった脇役は記憶にとどまっているもので、まだ見ぬ次回作での成長ぶりやイメージチェンジぶりがたのしみでもある。かれらの多くは当方の期待通りに、あるいは期待以上に好演してくれるからシビれるのである。映画撮影の現場で、実践を通してかれらはさらにうまくなる。
ああ、こんなにもうまくなった、前作とはまったく別人のごとく演じている、私をスクリーンに釘付けにしている、面白い映画にはかならずそう思わせるものがあって、だから退屈しないのだ。
 
 最近作「ボン・ヴォヤージュ」をみた。シラノと同じジャン=ポール・ラプノーの作品である。シラノ同様、息もつかせない展開で時間のたつのを忘れた。そういう映画にありがちな無理と無駄、チグハグさは皆無、編集の巧みさは特筆もの、秀逸ということばはこの映画のためにあった。ひさしぶりに昂奮した。
 
 おそらくは10年に一度あるかないかの傑作で、出演者がそれぞれの仕所(しどころ)を完璧なまでに心得ていた。イザベル・アジャーニを劇場でみたのも「王妃マルゴ」以来のことであり、この映画での女優役を軽々とこなしていた。
もはやこの人はフランス映画界一の主演女優に成長した。その契機となったのが「王妃マルゴ」にほかならない。それまでのイメージを払拭してマルゴに挑み、それが大きな果実をもたらしたのだ。
 
 ジェラール・ドパルデューとは「カミーユ・クローデル」で共演しているが、ドパルデュー(ロダン役)もアジャーニも、あの映画に出たころ(1988年)を思えば数段うまくなった。なによりも演技が演技と感じられず自然である。役柄を自分のものにしているといった印象ではない、役柄というより、そういう登場人物がそこにいたという様子なのである。そういうハラ(心の在りよう)がかれらに存在するのである。
 
 「ボン・ヴォヤージュ」の愉しみはほかにもある。だれもいないパリ・オペラ座通りのなんともいいようのない風情、あれは単に閑散というものではなく、静謐そのものなのだ。それと列車からみる田園地帯の夕暮れのたえなる美しさ。フランスがドイツに占領されようとしているのが他人事のような静寂。
動きのはやい展開になくてはならない静。レストランでの昼食の場のハラハラする面白さ。もうこれ以上いうのはやめましょう、この映画をみるかもしれない人たちのために。
 
                              (未完)



次頁 目次 前頁