インフォメーション
ウィーン西駅からIC特急に乗りザルツブルクへ。ホーム中央に観光案内所があり、宿はすでに予約ずみであったのですが、
市内地図など各種資料をもらいました。
 
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駅構内
駅から市内へ移動し、ゴルデナー・ヒルシュ(金の鹿)というホテルにチェック・インしたのは午後1時半ごろ。部屋に荷物を置いてまず最初にしたのは薬局探しでした。そのあたりの経緯に関しては「思い出すこと」の「アポテケ」に書きましたが、家内はこの日のドタバタ劇を予感していたかのような浮かない顔で写っています。
 
駅構内
ゲトライデガッセT
旧市街の目抜き通りゲトライデガッセ。
 
ゲトライデガッセT
ゲトライデガッセU
ゲトライデガッセでは各店趣向をこらした金具(鉄)の看板を軒先に出しています。
 
ゲトライデガッセU
犬
帽子屋
 
 
帽子屋
ミラベル庭園T
ここから見るお城の眺めがいいともっぱらの評判ですが、
メンヒスベルク(僧侶山)からの眺めはさらに良かった。
 
ミラベル庭園T
ミラベル庭園U
ザルツブルク市の肝煎りで、ミラベル宮の二階・大理石の間に結婚式場が設けられています。もともとは市民のために設けられたのですが、96年当時は米国や日本からのカップルがひきもきらず、ここで挙式していました。この写真の中央うしろの方にも式を挙げたばかりの花嫁がいますね、記念写真を撮っているのです。
 
ミラベル庭園U
ミラベル庭園V
ミラベル庭園V
ミラベル庭園W
ミラベル庭園W
ザルツブルクはヴァチカンから派遣された大司教が治める大司教領で、
ハプスブルク家から独立した自治権を持っていました。歴代の大司教は
自らの権勢をほしいままにふるって、栄華をきわめたのです。
市内を睥睨(へいげい)するかのようなホーエンザルツブルク城は
いわば大司教の権力の象徴、荘厳さより威圧感に満ちています。
 
城
城からの眺望
城からの眺望
眺望T
眺望T
眺望U
眺望U
ヴォルフガング湖T
船上から撮影したヴォルフガング湖。澄みきった青空が湖面に反映しています。
ザルツカンマーグートを愛した音楽家はシューベルト、ブラームス、レハール、
バルトークなどがいますが、シューベルト以外はみなザルツカンマーグートの
どこかの町に別荘を持っていました。貧乏音楽家であったシューベルトだけは別荘を
持つ身分ではなかった、そういうところに私は共感をおぼえるのです。
 
シューベルトは1825年にザルツカンマーグートを旅しますが、当時ウィーンからの
道のりは遠く、ずいぶんと時間がかかったことでしょう。しかし、彼はそこでおそらく霊的な何かを感じ、
後に名曲「ます」などを作曲する啓示を得たのではないでしょうか。
 
ヴォルフガング湖T
絶壁
この写真も船から撮影しました。明るく陽気な湖畔の町、そして人を拒絶するかのような険しい断崖、そのコントラストに
若いシューベルトは刺激をうけたのではないでしょうか。彼の創造力は絶壁の頂上から天空に向かって飛翔したに違いないのです。
 
絶壁
St・ヴォルフガングT
美しい湖畔の町に滞在することで幾多の名曲、名作が生まれました。名曲とはある種の戦慄のごときもの、
あるいは心を解放してくれるもの、そして心を癒してくれるもののことなのです。
癒しということでいうなら、ベートーヴェン、ブラームスの交響曲やコンチェルトよりもソナタ、あるいは舞曲(ハンガリー舞曲)、
それにもまして、レハールやヨハン・シュトラウスの音楽、とりわけオペレッタのなかの小品がどれほど私にとってやすらぎとなったことか。
 
レハールのオペレッタ「メリー・ウィドウ」から「ヴィリアの歌」、「唇は語らずとも」、オペレッタ「ほほえみの国」から「君はわが心のすべて」。
ヨハン・シュトラウスの「美しく青きドナウ」などで私は8年間も癒されつづけたのだった。
まだありました、ジーツィンスキーの名曲「ウィーン、わが夢のまち」‥これらの曲が流れてくると感動で胸がいっぱいになるのです。
 
St・ヴォルフガングT
St・ヴォルフガングU
ザンクト・ヴォルフガングはモーツァルトの名前ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトとして、
また「サウンド・オブ・ミュージック」の舞台になった町として、さらに、ザルツカンマーグート地方で
もっとも風光明媚な場所としてその名を知られています。
 
St・ヴォルフガングU
ヴォルフガング湖U
ザンクト・ヴォルフガングは、山と湖の美しいザルツカンマーグート地方でもひときわ風光明媚な小さな町。
ザンクト・ギルゲン(ザルツブルクから車で50分)からは船で30分ほど。私たちが訪れた10月初旬は気候的にも最適でした。
秋のオーストリアは凛として、すがすがしい空気にあふれています。
 
ヴォルフガング湖U
ヴォルフガング湖V
上の風景写真(ヴォルフガング湖U)はここから撮影しました。
 
ヴォルフガング湖V
民家(B&B)
民家(B&B)
民家(B&B)U
民家(B&B)U
散策
散策
旅籠
旅籠
白馬亭T
チェコ生まれのベナツキー(1884〜1957)が1930年に作曲した「白馬亭にて」は、ドイツ語圏では最も上演回数の多い
オペレッタのひとつ。写真の「WEISSEN RUSSL」は白い馬の意。ベナツキーは余程この宿屋が気にいったのでしょうか、
ここを舞台に喜歌劇の作曲まで手がけてしまったのでした。
 
白馬亭T
白馬亭U
「白馬亭にて」のストーリーはだれにでも分かる他愛のないラブ・コメディ。
白馬亭の女主人ヨゼファ(ソプラノ)‥若くて美しい未亡人‥を前々から慕う給仕長レオポルド(テノール)なのですが、
いかんせん宿屋の女主人はほかに意中の男・弁護士ジードラー(テノール)がいます。
ところがこの弁護士、ベルリンから旅行で来た工場主ギーゼケ(バリトン)の娘オッティリーに一目惚れ。
恋の鞘当てやらオーストリア皇帝(当時の皇帝フランツ・ヨーゼフでしょうな)の来訪やらで白馬亭は大忙し。
 
結局、ヨゼファはジードラーの心が自分にないことを知り、いったん解雇したレオポルドが彼女にお別れをいいにきたとき、
彼を給仕長としては解雇するが、夫として再雇用すると書面に記します。  女は強い!
 
白馬亭U
白馬亭の窓
路地から手の届きそうなところに白馬亭の窓があり、しばし眺めていました、どの窓からどんな顔が出てくるか、
ひそかに期待しながら。
待つこと5分、若い女の顔がひょこんと出てきた。下にいる私をみてにっこりほほえんでくれたのはよかったのですが、
ザンクト・ヴォルフガングの町を散策した後、白馬亭でコーヒーブレークしたおり、また彼女に会ってしまったのです。
「ご注文は何になさいますか」、そう言っていました。
 
白馬亭の窓
子供の頃から窓が好きでした。窓にも様々な窓があり、そこからどんな人、どんな顔が飛び出してくるのか、
それを思うとワクワクしたものです。
明るい顔もあれば暗い顔もありました、お母さんに叱られたのか、半ベソをかいた顔もありました。
窓からみえる顔はそれぞれに個性豊かで、つい見てしまうのです。
 
憂鬱そうな横顔をみた時、自分のことのように気になったこともありました。
ある日、小学校の近くに引っ越してきた一家があり、登校時に塀のない平屋のその家の窓をふと見ると、
同い年くらいの男の子が顔を出して、ニコニコ笑っていました。
 
始業時間も近いのに、この子はまだ登校の準備もしていない、この子は病気なのだ、
病気だからただ笑っているだけなのだ、笑うのがこの子の唯一の感情表現なのかもしれない。
 
その時ひどく胸が痛くなったのですが、その痛みはいまなお心にのこっています。
男の子の母親はいつも陽気で、時々足の悪いその子をともなって散歩していました。
あんな風に母親が明るくふるまっているから、その子もそうですが、小学生だった私もどこかで癒され、
救われたのではないでしょうか。
 
上の写真は、紅葉したツタが窓に「遊ぼうよ」とさそっているかのようです。
彼女の立場であったなら、私はこの窓のように扉を閉ざしていたかもしれません。
彼女が世間に対して心を閉ざさなかった象徴があの開け放たれた窓だった、私はいまでもそう思っています。
 
窓
ザンクト・ギルゲン
ザンクト・ギルゲン
モーツァルト母姉
ザンクト・ギルゲンはモーツァルトの母アンナ・マリアの生まれた町(人口は三千人ほど)。写真の石版のある家は彼女の実家です。
モーツァルトの姉ナンネルも結婚後この家に住んでいたこともあったようです。マリアは22歳のモーツァルトの演奏旅行に付き添って
パリまで旅したのですが、パリ滞在中客死したのです。
 
モーツァルト母姉