私の正論 ??  byきよ

もうすぐお盆だ。
「いつ帰ってくるの?」
田舎からのいつもの問い

「う〜ん キャンプに行くかもしれんし・・・」

このところ実家が遠のいている。
母も父もだんだんと年老いてきて、私の顔を見るのを心待ちにしていることは、よくわかるのだが・・・

昔はよく帰っていた。
沙羅がいない頃は。

だけど実家に帰ると悲しいことに、
沙羅を外につないでおかなければいけない。
田舎では「犬は外」が、当たり前のことなのだが、
私にしてみれば「せっかくのお休みに、沙羅とわざわざ離ればなれになって過ごすなんて・・・」となってしまう。

いつも沙羅は家で長い時間ずっと留守番をしているのだから、せめて休みの日くらいは、
「一緒に過ごしてやりたい。」と思ってしまう。

これはきっと沙羅が「そうしたい」のじゃなくて、私が「そうしたい」のだ。
できることなら毎日一緒にいたいほどである。



それに、結婚もせず一人でいると、年々里帰りがつらくなってくる。

ここにいれば、沙羅がいて、ゴエモンとみやちゃんがいて・・・
すごく居心地が良くて、満たされていて、まるで天国のようなのに、

田舎に帰って、世間の常識に囲まれると、なぜか、
自分が「常識に欠けた未完成の人間」になったような気分になるのだ。
差別用語になるかもしれないが五体満足でない障害者の事を「かたわ」
と昔呼んでいたが、まさに自分が「かたわ」にでもなった気がするのである。

晩ご飯の団らんの時に兄に
「いつまでも一人でいて、年取ったらどうするつもりなんや。犬が面倒見てくれるんか?」などとチクチクと責められながら、なんとか笑ってごまかす。

夜に寝るときなんかは特につらい。

隣の部屋には
帰省した妹ファミリー(妹夫婦と子供2人)が仲良く布団を並べて寝る。

その隣で、私は一人で眠るのだ。
たった一人の私の家族である沙羅は、外につながれている。

私は誰一人として自分の味方がいないことをひしひしと感じる。

今年のお正月にはそれが耐えきれなくなって、
さあこれから寝ようという時になって
「やっぱり帰る。帰って沙羅と一緒に寝る。」
と突然言いだし、家を飛び出してきてしまった。

「沙羅は所詮犬である。」

それはよくわかっている。

「犬がおまえに何をしてくれる?」

そういう意味では何もしてくれないかもしれないが、
沙羅は私にいろんなものをくれるのだ。

それは「笑顔」や「元気」であったり、「愛する気持ち」であったりする。
いつも私は沙羅に助けられているのだ。

私は沙羅を犬とはわかっているが、ときたま人間と同じように考えたりする。

去年兄のところに4人目の赤ちゃんが生まれて、
その赤ちゃんを見に行ったときのことだ。

目も見えるようになり、少しずつ人見知りも覚え始めた頃、人間の赤ちゃんは
知らない人にだっこされようとすると、その人と絶対に目を合わさない。
わざと目を反らすのだ。

これは動物の本能かもしれない。
犬とまったく一緒だ。

そう思った私は思わず思ったままを口にして、周りの人間に白い目で見られてしまった。

「犬と一緒やな!」

私にとっては、犬もネコも生き物全部が同じように平等で、同じようにこの地球で生きさせてもらっているものなのだ。
山に行ってもそれは同じである。
人間も動物であって、人間だけ偉いわけはない。

一度山へ行ったときに、山の麓にある野生の生き物を観察できる「生き物ふれあいセンター」というところをやむを得ず通らなければならなくなった時、
センターの人に「犬は困ります」といわれて、憤慨したことがある。

「人間様だけが楽しめるセンターなら、大きくわかるようにそう書いておいてください。“ここは人間様専用の施設です”と・・・」(口に出しては言いませんでしたよ)

そりゃあ沙羅は人間とは違うし、お金も稼いでこないし、臭いだって違うし、言葉もしゃべれないし、拾い食いだってするし(・・ )☆\(ーー#バキッ!!


なんだか、話がどんどん支離滅裂になってきたが、

とにかく私には「人間と動物の境目がない」のであろう。

                
               まる      


2002.8.2