2003.8.29

ひとり


休みの日に24時間テレビを見ていた。
毎年、この番組を一生懸命見ることはあんまりないのだけれど、
偶然ビデオに録画された「ふたり」というドラマが始まったのである。
結婚して間もなく、ご主人がバイクの事故で下半身不随に
なってしまい、夫婦でその傷害を乗り越えていく・・・
という内容のドラマだった。


その前から、お盆に里帰りして兄家族を見ては、
「家族っていいな。」と思い、
そしてまたドラマを見て「夫婦っていいな。」と思う。

そして、私の頭の中は「家族」とか「夫婦」とか「結婚」
とかがぐるぐると回るようになってしまった。


「家族がいれば幸せ」
「結婚すれば幸せになれる」

そんな風に短絡的に考えるのはどうかしているが、
毎日が「なんとなく物足りない」と感じている
私だったので、ついついそんなことを思ってしまったのだ。

普段から、「運命的な出会い」というようなものを
信じているところがあって

その時が来たら出会えるさ。
そんな人がもし必要な時が来たら、きっと出会えるだろうし、
それまでは一人で楽しめばいい。

と、どことなく信じていたのであるが、

テレビの
「あなたを一番愛している人は誰ですか?」という質問に、
すぐに答えられない自分が、なんだか悲しかった。

「“大事なこと”は、いつも人と人の間から
生まれて来るのではないだろうか?」と、
考え始めていた今日この頃である。

もしかしたら、私が「出会い」を避けているのでは
ないだろうか?

とても気ままで、人と約束することが嫌いで、
いつも自分のペースで生きている。
慣れない人と話すのが苦手で、
「人のいない状況」に安らぎを感じてしまう。


そんな自分を変えなければ、いつまでたっても
「出会い」は訪れないのではないだろうか?

そうだ!

休みの日に、家にいること自体、
誰かと出会えるチャンスを逃しているのだ。

出かけよう。

とりあえず、どこかへ出かけよう。


と、思い立って、沙羅と車で出かけた。

とても暑かったので、やはり川へ行くことにした。


去年にも行った川だ。

平日なのに、思ったより人がたくさんいた。


ああ・・・ いやだな・・・

と、思わず考える自分をぐっと堪えて
にっこりと笑顔で挨拶して通り過ぎる。

子供もいっぱい水着になって泳いでいたので、
迷惑にならないように、やはり少し離れたところへ行って
沙羅を川に入れてやる。

隣には、アベックが一組いて、
沙羅が泳いでボールを取ってくるのを感心して見ていた。

時々、沙羅がボールを流してしまうと、
ちゃんとその男の方の人がボールを拾って
沙羅に返してくれた。

「あっ  すみませ〜んっ」

と、笑顔で答える私。 

でも、沙羅にボールを投げてやるのもすぐに飽きるし、
沙羅も疲れてくるのか、それとも私が楽しんでいないのが
わかるのか、あんまり気乗りしないようだ。


なんか つまんな〜い


その時、川沿いの道を一人の男の人が通りかかって、
沙羅がその人の持っているコンビニの袋に興味を示した。

「あっ  ごめんなさい。」

「いえ いえ 今日は暑いから犬も泳いでるの?」

「あっ はい」

沙羅がその男の人に飛び付いて、服を濡らしてしまったので
「すみません。 人が大好きなもので・・・」

と、謝ると、

「あはは ボクも泳ごうかなあ・・・」と返してきた。


「お父さんか誰かと一緒なの?」

と聞くので、「いえ 一人です。」
とキッパリと答えながら、心の中ではいろんな思いが
あれやこれやと交叉する。

「もしかして、これってナンパなん?」
「いやいや こんなオバサンに誰がナンパする」
「近くで見たら“なんや歳食ってる”って思ってるんちゃうかな。」
「こんなお尻のはみ出たオバサン(その時私は水着の上にTシャツという姿だった)
誰がナンパなんかするかいな。」
「なんでええ歳こいてナンパされに来なあかんの」

と・・・

やはりそれが態度に出るのだろうか、

その人はすぐに
「ばいばーい!」と沙羅に言って
帰って行ってしまった。


ああ

なんだか 虚しい。


さて、沙羅帰ろうか?


と言って、その川をあとにしたものの、
なんだかそのまま帰る気にならず、
家とは反対の方向に向かって車を走らせた。


ずっとずっと昔に、バイクで通ったことのある山道だ。


その時は確か、私は実家に帰る途中で、
やはり、私の帰る場所は兄や家族のところにしかなく、
なんとなく、今とたいして変わらない心境だったような気がする

あれからもう何年も経っているのに、
全然自分は変わっていない。
兄にはもう家庭があって、家族がいるし、
私の父も母もいつかは逝ってしまうだろう。
そうなったら、私は・・・・

そんなことを思いながら車を走らせ、

山道の中に、朽ち果てた公園を見つける。
そこでしばらく沙羅と遊んだ。
桜並木があった。
春に来たら、きっと綺麗だろうな。
「来年また来ようね。」
「さあ 行こうか。」

思えば、こうやって、気ままな旅ができるのも
一人でいるからなのかもしれない。

そんな思いもまたよぎる。


山道を抜けて里にでた。
田舎ののんびりした風景の中に、
のんびりとして見える畑仕事の人が
ぽつりぽつりと見える。

もしも

もしも

私が、今、ここで

車を停めて、

あの人達の中の誰かに
声を掛けたとしたら・・・

何かが変わるかもしれない。

ひょっとしたら、

そこに新しい出会いが、待っているかも知れない


でも 何を どう話しかければいいのかも
わからないし、
せいぜい道を聞くくらいが関の山で、
きっとそれ以上の発展はないだろう。


そんなことを思いながら通り過ぎる


今も そして 今までもずっと・・・


でも考えてみれば、

現在、私の身近に残っている「大事な人」はみんな
長い長い時間をかけて、
ひとつひとつ積み重ねて行って、
つながってきた人達ばかりなのだ。


だから、
もしも今、
即席で誰かと出会うことができたとしても
その人が「大事な人」になるまでには、また
長い 長い 時間がかかるのだ。

だから、本当は、
会った瞬間に「この人は運命の人だ!」と
思うことはありえないのかも知れない。

縁の無い人とは、出会わなかったり、すぐに切れたりするだろうし、
自分から縁を絶ち切ってしまう場合もあるだろう。


そういえば、
若い頃(20才くらい)、
偶然出会った人に道案内をしてもらったり、
困ったときに助けてもらったりしたことが何度かあって、
その人達はみんな
「縁は大切にしなあかんから・・・」と言っていた。
その頃は、その意味がよくわからず、
ただその人達の親切に甘えるばかりであったのだが、
ようやく今になって、その意味がわかるように
なってきた。
あの人達はもしかしたら、
今の私のような心境だったのかもしれない

「縁」は大事なのかあ・・・


大事なことはみんな、
「人と人の間から生まれてくる」ものなのかも
しれないし、
ほんの短い旅だったけれど、この旅を終えて日常に帰ったら、
私のまわりにある「縁」をもう一度見直さないと
いけないなあ・・・


などと、
田舎のきれいな青空と田園風景と
その先に続く山々を眺めながら
しみじみと思うのであった。


その時、

コタママさんからメールが入った。
「今日は仕事?」


聞けばコタママさんも今日はお休みであったらしく、
私が一人で勝手に「ひとりぼっち」になって
いたのだと教えてくれた。


さっそく、
「一緒に晩ごはん食べようよ!」
と、誘ってみる。


コタママさんは機嫌良くつき合ってくれて、
私はまた、


淋しいときに話を聞いてくれる「女友達」が
いれば、結婚しなくてもそれでいいのかなあ・・・


と、


思い始めるのであった。



おわり