日像菩薩の京都弘通

 日蓮聖人は人生の大半を関東地方で過ごされました。
 幕府は鎌倉にありましたが、それも京の都に比べると何かにつけて劣る状態であったと思われます。
 日蓮聖人は京都の人々に、法華経の教えを伝えることが大切であると考えておられたようです。

幼少の日像菩薩
 数あるお弟子方にではなく、出家前の少年にこの大役を委嘱されたのはどうしてだったのでしょうか?
 この少年が経一麿、後の日像上人その人だったのです。

 日像上人、七歳の時、日朗上人に連れられて身延の日蓮聖人の元に上がられ、日蓮聖人より経一麿の名を授かりました。
 七年後の弘安五年(1282)、日蓮聖人のご入滅に際し、日蓮聖人より京都への弘通を遺嘱されました。

 その後、名を「日像」と改め、行学に努められました。二十五歳になられた永仁元年(1293)、いよいよ京都への弘通の旅に出られました。
 日蓮聖人の歩まれた地を巡り、佐渡ヶ島から能登、越前、若狭を通られ、道すがら多数の人を教化されました。

京都での布教
 永仁二年(1294)の春、ついに京の都に入られ、都での布教活動が始まりました。
 京都で人の集まる所といいますと、大きな神社・仏閣の周辺であったと思われます。
 中でも北野天満宮は洛中随一のにぎわいであったことでしょう。
 このような人の多く集まるところで日像上人は道行く人に法を説かれました。

 当山、法華寺の門前の通りを「御前通り」と呼んでいますが、この名の由来は「北野天満宮の御前の通り」ということです。

 御前通りに面したこの法華寺の地で日像上人は辻説法をされました。
 言い伝えでは、京都での初めての説法をされたのはこの地であり、草刈り籠に腰掛けて法を説かれたとのことです。

 日像上人の門下に入られる僧俗は徐々に増え、その存在は目立ち始めたに違いありません。
 入信の多くは町衆と呼ばれる商工業に従事する人々でした。
 代表的な方に、酒屋の柳屋があります。この柳屋家は江戸時代に当山の檀家となられました。当時、他の寺から移るには「寺送り状」が必要で、この柳屋家の送り状も当山に現存しております。

大覚大僧正妙實上人との出会い
 正和二年(1313)、時に十七歳、真言宗の僧であり嵯峨大覚寺の門跡であった大覚大僧正妙實上人、当山の地で辻説法をする日像上人に出会われました。
 七日間聴聞された末、知覚・正覚・祐存などの伴の僧と共に日像上人の門に下られました。
 妙實上人が日像上人のお弟子になられたことは、歴史的にも重大な出来事であったといえましょう。

 その後も続く日像上人の布教活動の発展に対して、比叡山などの圧力がかからぬ訳がありません。
 日像上人は三度も洛外への追放処分を受けられました。しかし、かえって深草や鳥羽、久我、向日、松ヶ崎など洛外への布教も広がり、日像門下を広げることとなります。

 日像上人、五十三歳の年に、ついに朝廷より寺地を賜ることになり、ここに法華宗(日蓮宗)が公認されたのです。

 康永元年(1342)十月八日、日像上人は「譲り状」を後継者の妙實上人に授与されて、同月十三日に七十四歳の生涯を閉じられました。


[ 大覚大僧正妙實上人の活躍 ]に続く…