その後の京都

 日像上人、大覚大僧正の活躍によって、南北朝時代から室町時代にかけて、京都の日蓮宗はめざましい発展をみたのです。

 しかし、室町時代後期には、一向一揆や下剋上などといった不安定な世の中になりました。京都の治安は町衆自身が守るしかないといった状況となったようです。
 そのような中でもお題目を柱にした町衆の結束は固く、京都を守り抜くことができたのです。

天文法難
 最も困難な時期を乗り越えるのに必要であった町衆の力も、安定の兆しが窺えるや、施政者にとっての脅威となったに違いありません。

 天文五年(1536)、比叡山を代表とする勢力によって、洛中の日蓮宗寺院のほとんどが焼かれてしまいました。
 この「天文法難」と呼ばれる事件によるダメージは想像を絶するものであったと思われます。

 仁和寺街道と御前通りの交差する位置にある当山(法華堂)は、洛中への西からの交通の要所であったと思われます。おそらく戦場となったことでしょう。

 天文法難の二年前に織田信長が誕生しています。信長が成長するのと同じ頃、いくつもの日蓮宗寺院が町衆の力によって再建されました。信長や秀吉の京都での宿舎が日蓮宗寺院であったことからも、町衆の法華信仰に傾けた活力の大きさを感じることができます。

 秀吉は洛中の寺院を移転させ、寺町を作らせるなどしました。そのため、日像上人の旧跡を由緒とする寺院の多くはその地を離れなければならなくなりました。

 幸か不幸か、当山(法華堂)の再建は乾性院日進上人の登場を待たなければなりませんでした。


[ 二祖 乾性院日進上人による当山再建 ]に続く…