二祖 乾性院日進上人による当山再建

 当山第二祖 乾性院日進上人が誕生されたのは、秀吉が亡くなる数年前、1595年のことです。

 徳川の時代となり、世の中は徐々に平和に向かっていました。僧侶も行学に励むことができたと思われます。

 漢詩や和歌、国文学などで宗門外にも名を響かせ、宗門に向けては信行重視の教風を宣揚された深草の元政上人(1623~68)の活躍も、時代的な背景があればこそといえましょう。

乾性院日進上人について
 二祖乾性院日進上人は、天台や奈良仏教、儒教にも精通した学僧でした。建仁寺の経蔵に入って大蔵経を閲覧したということからも、その向学の姿勢が感じられます。

 水が流れるような説法で「日像菩薩の再来」と騒がれたといいます。
 その名は、江戸の「お万さま(徳川家康公のご側室 養珠院殿)」にも聞こえ、招かれて江戸の諸寺で法を説くこともありました。
 
 晩年は太田備中守に請われ、浜松にて過ごされたとのことです。
 明暦三年(1657)十一月三日に示寂されました。

法華堂再建
 この日進上人は、北野にある日像菩薩と大覚大僧正の出会いの旧跡が荒廃したままであることを嘆かれ、「法華堂」再建を決意されました。

 河内屋清兵衛という方の土地寄進などを受けて、寛永年中(1624~43)には「妙喜山 法華寺」が建立されたのです。

 本堂内の御本尊は、「お万さま」が大本山 池上 本門寺に寄進されていた日遠上人ご開眼の仏像をいただくことになりました。
 池上 本門寺の客末の寺として、高槻の乾性寺、大阪今宮の法花寺(明治初期に廃寺)を末寺とする本山(中本寺)として、日像菩薩・大覚大僧正の旧跡が再び法華の精舎の姿を成したのです。

 江戸時代の境内図には、鐘楼堂、七面堂、鬼子母神堂、番神堂、山門、拝殿などが示されていますが、現在は本堂・妙見堂・客殿・庫裡が現存しています。