東根城
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東根城跡に立つ、樹齢約1000年の大欅(04年6月)

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JR奥羽線「さくらんぼ東根駅」から東に約2km、旧市内に入ると東根小学校がある。校庭には巨大な欅が枝を広げている。まわりも整備され、小学校の塀が模擬城壁になっている。正平二年(1347)に三浦一族の小田島長義が築く。その後、幾多の戦乱を経て、大政奉還時には幕府の陣屋がこの地にあった。小高い場所にある小学校が本丸跡で、その近くには外堀の名残りの池もある。ここは市内でわかりにくい道順で、迷いに迷ってたどり着いた。1989年にも訊ねたことがあるが、その時の記憶をたよりに行ったのが間違い。当時のひなびた面影は無く、まったく別の東根城があるような感じである。それだけここも、観光化されたということなのか。大欅の前に立つと、生命の力強さが、大樹の持つ神秘がふつふつと心に響いてくる。これからも大事にしていきたい城址の一つである。

 

東根の大ケヤキ(現地説明板より)

この地は、正平二年(一三四七)、小田島長義が築いた東根城が(小田島城)の本丸跡にあたる。 その昔、「雄槻」「雌槻」と呼ばれた二本の大槻があったが、明治十八年雄槻が枯れてしまい、雌槻だけ現在に残っている。これが「東根の大ケヤキ」である。 山形県立林業試験場場長大津正英氏(農学博士)によれば樹齢一五○○年以上で、地上一.二mの幹周は十六mあり、さらに直径は五mである。主幹は、地上五.五mの高さで大きく二股に分かれ、西南側のものがやや直上して枝を分け、東側も大きく三枝に分けて大空をおおい、その高さは約二八mに達する。 平成元年五月、植物学の権威者である金沢市の里見信生氏が大相撲の番付表を模した「日本欅見立番付」を発表したが、「東根の大ケヤキ」は東の横綱に位置し、名実ともに日本一である。 東根市教育委員会 昭和三二年九月十一日 国指定特別天然記念物 昭和六一年 山形新聞社・山形放送主催「グリーン山形110景」選定 平成2年6月 読売新聞社と国際花と緑の博覧会協会主催「新・日本名木100選」選定

東根城(山形新聞社編「ふるさとの城」より)

東根城はいまの東根小学校のところにあった。築いた人は小田島長義。時は南北朝時代の正平二年というからおよそ六百二十年前になる。長義はもともとは三浦姓を名のり、鎌倉幕府の重臣として源頼朝に仕えていたが、その後北条氏との勢力争いに敗れ、荘園のあったこの地にのがれて居をかまえたといわれる。小田島姓も、また東根市内の小田島、新庄市内の小田島という地名も、当時乱川以北から最上一帯にかけて小田島庄といわれていたのに起因するという。 このため東根城も小田島城も正しいともいわれる。ところで城跡に近くいまは廃寺となったが普光寺の鐘というものがある。これは羽黒山の鐘につぎ県内で二番目に古いものとされているが、これは長義が鋳造したもので、平朝臣長義の名と天正十一年という年代が鋳こまれている。 しかし長義の居城は短かった。まもなく足利尊氏が小田島庄を清川の結城顕朝に換給したため長義は新庄小田島に城を築き頼朝の支配下にはいった。その後応永年間に天童城主里見頼直の四男坂本頼高が小田島城にはいり、東根氏の祖となった。その後天正九年まで百八十年間は頼在、頼厚、頼瞬(きよ)、頼宗、頼息、頼景と代々城主になった。その間いまの東根本町は城下町として着々整備され、八代目里見景佐のころに本町の基礎ができあがったものとされる。  東根小学校、中央公民館も現在は字本丸となっている。小学校正門前にいたる上り坂が大手坂で両側が堀となっていたことは現在の地形からも十分うかがえよう。本丸の北に小楯、西に西楯と堀をめぐらして南と東には日塔川、白水川を天然の濠とし、鬼門の守護神として若宮八幡神社と薬師如来を配してある。また一日、三日、六日、八日町には市がたち、いまでも町名としてのこっている。また本町通りが一丁ごとに曲がっているのは「一丁隠し」という作戦上のつくりで、現在の都市整備とはうらはらな存在になっている。 さて、最上義光は天正十二年に義弟にあたる天童頼澄を天童城に攻めた。その時東根城主は頼景に子がいなかったので、天童から頼澄の次男を城主に迎えていたためこれまた義光勢の攻撃を受け、さいごまで奮戦したがあえなく落城してしまった。そのご東根城の家老だった里見景佐が城主におさまったが景佐は義光と手をむすんで治世を行ったようだ。その後慶長五年関ヶ原の戦いがこの地にも及び徳川に恩顧をもつ義光と大阪方に組した会津城主上杉景勝が対立、上杉の臣、米沢の直江兼続が畑谷城、簗沢館、長谷堂上山と攻め、一方酒田城将志駄義秀、大浦城将下吉忠が六十里越から寒河江、谷地を攻めてきた。 さらに下の部将新関新五右衛門が長瀞を攻め東根に軍を進めてきた。このとき城主里見景佐は主力を率いて義光勢に参じていたため守勢は少なかったが、奇略を用いたり、また半田助左衛門という勇敢な家臣が敵将新五左衛門に一騎打ちをいどみ、いまの東根温泉街道の近くの鷺の森地内でわたりあうが、敵新五左衛門の馬が水田に足をとられたために助左衛門に仕止められてしまった。 これは鷺の森合戦として知られているが、その時の戦利品であるホラ貝がいまでも東根市荒宿の戸村家に保存されている。その後最上家が改易にになったあとは東根城は廃城となり、里見景佐は四国蜂須賀家に身柄を預けられた。その後寛文元年になると東根は幕府の直領となって城は陣屋にかえられさまざまな代官が移りかわった。しかしいまも本丸跡にある文部省指定の天然記念物の大ケヤキは樹齢千年というから東根城をめぐって去来したできごとのすべてをその年輪にきざみこんでいるのかもしれない。