谷地城
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本丸土塁上に建つ三社宮(12年11月)

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最上川西岸、河北町谷地字内楯が城址。現在、遺構はほぼ消滅したが、元禄年間に鬼門跡の本丸土塁上に築かれた三社宮があり、辛うじて当時を偲ぶことができる。社前には庭石と伝承のある鎌倉石が残り、銀杏の巨木が良い目印になっている。天正12年、城主白鳥十郎は最上義光に呼び出され、山形城で謀殺される。慶長5年関ヶ原の戦いで上杉氏に占領されたが、上杉家臣下吉忠は降参している。血なまぐさい戦いが繰り広げられている。元和2年、白鳥家旧家臣により、近くの東海寺に白鳥十郎の巨大な供養塔が建てられた。今回は供養塔を訪れることができなかった。

ここは昔、谷地城があったところ。(三社宮社前の看板より)

関ヶ原の戦いが始まろうとしている時、直江兼続の左翼軍は、谷地城を攻撃し、占領した。下治右衛門吉忠を主将に、熊木長左衛門・藤田丹波に率いられた約二千の一隊があった。しかし、関ヶ原の戦いで東軍の勝利が伝えられると、長谷堂の直江兼続らは撤退を始めるが、その動きは谷地城には届かず、下治右衛門らは谷地城に立て籠り、取り囲んだ最上軍に抗戦し続けた。二の丸まで攻めてきた最上軍を押し返し、磨臼の穴から鉄砲を撃った。鉄砲玉が無くなっても七日間は城を持ちこたえることができた、などと当時の記録には書かれている。時は慶長五年(1600)十月。ここ谷地城でも、もうひとつの関ヶ原の戦い、谷地城の合戦があったのである。     天地人県推進協議会・河北郷土史研究会

三社宮(谷地城本丸隅)(現地説明板より)

 この地は、旧谷地城の北東、即ち鬼門に当たる所から、城内への災難除けとして、熊野三社権現が祀られてきた。 一段高い所は、本丸の土塁跡であり、当時は高さ3〜4メートル幅14〜15メートルあったと推定され、その外周には水堀が施され堀幅も平均30メートル最大で50メートルと計測されている。 「谷地城の覚」によると、本丸の概要は、南北240メートル、東西120メートルあって、その中に約20アールの屋形屋敷が建っていた。 城主、白鳥十郎長久が村山市白鳥から谷地郷に進出したのは永禄年間(1558〜1569)頃と考えられ、城郭と谷地町の基礎をつくった。 天正12年(1584)六月七日、十郎公以下主だった家臣は、山形城内で最上義光に謀殺され、谷地城は、直ちに攻め込まれる。三日間に及ぶ攻防戦も虚しく遂に落城し、入城以来僅か20数年で幕を閉じている。 その後、元和八年(1622)までの38年間は、山形・最上家の支城として存続するが、慶長5年(1600)の10月の「出羽の戦い」に際しては、2500名にのぼる上杉・庄内勢が籠城戦を引き起こしている。 庭前の大銀杏は、往時からのものであり、慶応2年(1866)4月の谷地大火で、三日間くすぶったと伝えられる。地際より芽吹いたものが現在に至っているが、近年まで「乳いちょう」とも呼ばれ、母乳の出を願って多くの参詣があった。 根元の「鎌倉石」は、屋形で愛好された庭石といわれる。   河北町