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糸東流とは

 開祖摩文仁賢和は、首里手の大家・糸洲安恒について糸洲派を学び、後に那覇手の大家・東恩納寛量に東恩納派を学んだ。
中学卒業後警察官になった後も、地方に隠れた首里手、那覇手以外の形・技法について模索し続け、松村派、新垣派などの各派を修め、空手以外には琉球古武道の棒術、釵術を学んだ。
それら全ての技術と精神を融合、融和させたものが糸東流空手道である。その技法上の特徴は、単に突き蹴りだけでなく、投げ、逆技といった技術をも含み、まさに総合武道の様相を呈する。
また、「守・破・離」(基本を忠実に・それを応用し・そこから独立する)という言葉に代表される様に、形という基本を 守りながら、それを応用し、組手と結び付けていくことによって作り上げられた分解組手などに、その奥義までをも修めることが出来るように体系づけられている。
また、精神教育に重点を置いた開祖摩文仁賢和は「君子の拳」を標榜し、円満な人格の形成・向上を目指した指導を行った。

糸東流開祖 摩文仁賢和

(1889年)
11月14日、沖縄県首里市で誕生。摩文仁家は旧琉球王国で大名であった大城賢雄の後裔にあたる。
(1903年)
14歳の時、首里市に住む空手の大家「糸州安恒先生」に正式に入門。首里手を学ぶ。
(1908年)
19歳の時、宮城長順の紹介で東恩納寛量先生に那覇手を学ぶ。東恩納先生は支那に行かれて、支那福建派の拳法を学んできた方で、今までの稽古とは非常に 異なっていた。(摩文仁賢和の言葉)中学卒業後兵役を経て警察官となり、在職中に琉球の古武道の棒術(新垣先生)釵術(多和田真人先生)添石流棒術(添石先生)などを習得。
(1915年)
26歳の時、糸州・東恩納両先生から空手の免許を授かる。
(1916年)
27歳の時、自宅で道場を開設。近所在住の入門者、数名あり。1年を経たずに50名に達する。
(1918年)
長男「賢栄」誕生。同年、自宅に「唐手研究会」設立。
(1921年)
32歳の時、久邇宮・華頂宮両殿下が初めて来沖。その折、県学務課長の命で、師範学校において両殿下に空手演武を披露する。
(1924年)
35歳の時、巡査を退職。同年、沖縄県立水産学校・巡査教習所の空手指導教授として就任。(嘱託)
(1925年)
36歳の時、秩父宮殿下来沖。御前に於いて空手演武を披露。同年、友人吉田安昌から「各流派合同で道場を設け、総合的研究を含めて教える」ことの提案があり、「資金も提供する」ということで、10月、沖縄で初めての空手道場「唐手研究会」が「沖縄空手研究倶楽部」に改組設立。指導は許田重発、宮城長順、本部朝勇、花城長茂、大城朝恕 知花朝信、中国拳法の呉賢貴も参加。主任教授に摩文仁賢和、宮城長順が就任。
(1926年)
37歳の時、高松宮殿下の御前で空手演武の光栄を得た。同年夏、大日本武徳会沖縄県支部武道講習会の時、空手道講師を嘱託された。
(1927年)
38歳の時、柔道有段者の発表会に招かれて、講道館館長「嘉納治五郎先生」と「永岡秀一範士」が来沖。宮城長順と共に摩文仁賢和が、空手演武と解説を講じる。その時、演武を観戦した嘉納氏は「攻防自在」と賛辞し、空手を全国に広めるよう奨励された。
(1928年)
宮城長順、上阪。本土に第一歩を印し、立命館大学をはじめ、関西方面を中心に空手の普及に精進した。
(1929年)
41歳の時の4月、各学校の空手師範を退職して、沖縄より大阪に居を移し、西成区鶴見橋通りに道場を開設し空手の普及に手をつける。
(1931年)
摩文仁賢和、自らの空手に「摩文仁流」を名乗る。(糸東流の前称で私的な呼称)
(1934年)
3月5日、「攻防自在護身術空手拳法」を発行。10月25日、「空手拳法十八の研究」を発行。摩文仁賢和、自前の空手道場「養秀館」を大阪にて開設。直弟子の育成に当たる。これを契機に糸州、東恩納両師の頭文字をとって「糸東流」を名乗り、開祖となる。
(1938年)
摩文仁賢和、中曽根源和氏と共著で、「攻防拳法空手道入門」を出版。
(1939年)
3月、大日本武徳会本部へ「糸東流」登録。7月、摩文仁賢和、大日本武徳会より「空手術錬士」の称号を授与される。以来、糸東流拳法空手道として一派をなし、「大日本空手道会」を設立して空手道の師範育成にあたる。
(1952年)
5月23日、摩文仁賢和糸東流開祖満63歳で生涯を閉じる。翌年、宮城長順、さらに船越義珍、相次いで没す。

糸東流二代目宗家 摩文仁賢栄

(1889年)
糸東流空手道流祖・摩文仁賢和の長男として沖縄県首里市にうまれる。幼少より常に父のそばにあって修行に励む。
(1945年)
終戦後、賢和と共に空手道の修行、指導に当たる。
(1952年)
糸東流二代目を継ぐ。
(1962年)
空手道の指導のためにメキシコへ出向く。以後、ロサンゼルス等、世界各国へ指導に行く。
(1969年)
全日本空手道連盟設立とともに中央資格審議員世界空手道連盟審査員を務める。
(1972年)
全日本空手道連盟一級資格審査員となる。
(1984年)
日本武道協議会より武道功労賞受賞。
(1993年)
世界糸東流空手道連盟を設立、総裁に就任。現在も精力的に世界各国を訪問し、糸東流の普及に邁進する。
(2015年)
12月19日、摩文仁賢栄糸東流2代目宗家 満97歳で生涯を閉じる。

その技は、父・賢和を超えたとも言われる。著書に「空手道」(愛隆堂・1968年)、「テクニック空手」(愛隆堂・1979年)、「武道空手への招待」(三交社)、その他に英語、仏語の技術書など多数。

形の三大要素

空手の形は、三つの重大な要素がある。

1・技法の変化
これらの技法を修得することは、形の練習に際して最も大事なことである。

2・気息の吞吐
武術においては、すべて虚実ということを大事にする。我が実をもって敵の虚をつく、即ち我が充実した力をもって敵の空虚をつくことが大事である。よって、空手においては気息の吞吐に5種類の方があることになっている。
① 長呑長吐
  スーと長く吸い込んでハーと長く吐き出す。
② 長呑短吐
  スーと長く吸い込んでハッと短く吐き出す。
③ 短呑長吐
  スッと短く吸い込んでハーと長く吐き出す。
④ 短呑短吐
  スッと短く吸い込んでハッと短く吐き出す。
⑤ 波形吞吐
  ①から④の結合形で①と②、
  ①と③、①と④、②と③、
  ②と④、③と④等の結合になる。
気息の吞吐は、すべて以上の五種十形の中に包含される。形を練習している間の気息吞吐法は、それぞれの動きに応じて前述の五種十形中のいずれかの形になる。形の練習においては、技法と気息との相関関係を十分注意して研究すべきである。

3・重心の移動
重心の安定がなければ、たちまち破綻をきたす。いかに巧妙な技法、軽快な転身も重心の安定を伴わなければものの役に立たない。 ※腰を中心に移動(勿論、例外を除き、上半身垂直)

受けの五原則

1・落花   
落花とは、落花に対して大地は体をかわしたり避けたりしないで、花の落ちてくるそのままの位置でこれを受け止める。これにちなんで、敵の攻撃に対する受けの態度が丁度この大地の態度に似ているという意味で名づけられている。 敵の攻撃をそのままの位置にて、がっちり受け止める受け方。

2・流水   
敵の攻撃に対して、逆らわず、敵の力をその方向に流れさせる受け方。

3・屈伸   
敵の攻撃に対して我が体勢の屈伸を活用する受け方。

4・転位   
敵の攻撃に対して、その攻撃目標の位置を転じて防御の目的を全うする意味。

5・反撃   
敵の攻撃に対して、体を引くのではなく、攻撃と同時に反撃する。

武道の四要素

空手道に限らず、武道を修練する上で重要な四つの要素があり、一眼,二足,三胆,四力と言われます。 以下、簡単に説明しましょう。

眼とは着眼のことで、目付けといいます。相手の動きを見るのはもちろん、屋外であれば地形地物天候等を一瞬の内に 察知し、自分の有利な位置に立つことです。相手に対して、どこを見たらよいでしょうか?まず相手の眼の動きによって 心の動きを察知します。しかし、眼にばかり心をとられると他の動きが判りません。一応は相手の眼に着眼しますが、 相手動静が全部判るよう全体を包むように見ることです。基本や形の場合は正面、または進行方向の自分の眼の高さを 見ます。特別の場合を除き下を見るのは着眼点もはずれ、姿勢も崩れるので絶対いけません。

足とは運足のことです。攻撃防御ともに運足が速く軽く、しかも重心が安定しなければなりません。必要以上に 高く跳んだり、重く体をひきずっては体が動きません。地面には付かず離れすぎず軽快な足捌きが必要です。

胆とは胆力のことで、どのような場合にも、驚いたりあわてずに何事も冷静に判断して処理する精神です。

力とは「ちから」のことで、筋力とか持続力とか瞬発力等があり、いずれも大事な要素ですから、日常鍛錬するよう 心掛けることです。初心者は、無駄な所に力が入りすぎ、かえって技を邪魔することがあるので、力の使い方を よく研究しましょう。