その日の温度は、この夏、最高記録だった















++++ 体感温度 4





















「暑ぅ…、マジで蒸し風呂やん……」



あまりの暑さに忍足は、独りごちた。
鳴き止まないセミの鳴き声も、癇に障って仕様がない。 
太陽に照り付けられたアスファルトの地面は、鉄板のようだ。
数分前まで、クーラーの効いた快適な部屋で過ごしていたのに。


ひんやりとした空調と外に赴かねばならなくなった理由を思い出して顔を顰める。
忍足は手に持っているコンビニ袋を見下ろした。


(何でこんな日に醤油が切れんねん)



昼食を準備している最中だった。
味付けの決め手となる醤油がないことに気が付いたのだ。

この春から一人暮らしを始めたため、他に買って来てもらえる相手がいない。
味気ない料理を食べたくないし、何より休日に買っておかなければ、
練習で遅くなった平日の夜に買いに走らなければならなくなる。―――そっちの方が面倒だ。

仕方なく忍足はギラギラと太陽が輝く炎天下に出ることになったのだ。




(それにしても殺人的な暑さやな、東京は。……まぁ実家よりマシやけど)



照りつける太陽を仰ぎ睨んで。
帰ったら絶対にシャワー浴びて、デザートに冷やしたスイカ食べようと考えてる時だった。
見通しの悪く狭い路地の間に何かが蹲っているのが見えた。



その小さな塊は、ぴくりとも動かない。
何となく立ち止まって、正体を確かめようと目を凝らした。
よく見れば見るほど、信じられないものに見える。




「……」




忍足は、念のため眼鏡を外してレンズを磨いてみる。
眼鏡を掛けなおして見ても、それはやっぱり小さな子供だった。




「おーい。どないしたんや?」


 
とりあえず、声を掛けてみるが、返答なし。
死体だったら嫌やな、と考えながらも忍足は子供に近づいた。
近づくにつれ、蹲っている子供が小学低学年ぐらいの少年だと判る。
ふと小さく荒い息遣いが聞こえた。



怪訝に思って覗き込むと苦しそうに息を吐いていた。
傍に膝をついて、今にもこちらに倒れてきそうな少年を支える。
ぐったりと目を閉じている少年の顔色は悪く、ひどく発汗していた。
首筋に手を当てて熱を測るが、特に体温の上昇はない。
脈拍は速く弱い状態だ。



(……熱中症…やな)


親が医者であったからではなく、
炎天下での部活で部員の何人かが同じ症状で倒れていたから、すぐに判った。




「オイ。俺の声、聞こえとるか?」

 

頬を軽く叩いて、意識を確認する。
すると少年は薄っすらと目を開け、頷いた。
どうやら意識はあるらしい。忍足はやれやれと安堵した。

一見した所、まだ軽めの熱中症であるが、病院へ連れて行くのが一番である。
すぐさま携帯を取り出した忍足の腕を少年が掴んだ。



薄っすらと開いた目は、強い光を宿していて。



―――『イヤだ』



そう、忍足に訴えてきた。ただ、じっと縋るような目で。




「病院、イヤやなんか?」
「……」
「……しゃーないな」



こくりと頷いた少年に、忍足は軽く溜息を吐いた。
ちょっと見回すが、辺りに冷房の効いているような手ごろな店はない。
日差しの当たらない奥へと移動させ、ひんやりとしたコンクリートの上に楽な体勢に横たえた。


上着のボタンを緩め、さっき醤油と一緒に買ったスポーツドリンクを差し出す。


「ゆっくりでええから飲み」
「……え?」


蓋の開いたスポーツドリンクを見るなり、少年の表情が躊躇った色を浮かべた。
その反応に思わず眉間に皺が寄る。


「アホ。こないな状況で遠慮してどないすんねん」
「でも…」
「ええから、はよ飲み」


やや呆れた溜息をつき、まだ戸惑っている少年に問答無用でドリンクを飲ませた。






スポーツドリンクで体内から冷やし、日陰のコンクリートで体外から温度を下げていく。
次第に少年の呼吸も整い始めた。



「ちょお待ち。急に起き上がると目ぇ回すで」


起き上がろうとする少年の肩を押さえ、再び横たえる。
時計の秒針に視線を落とし、脈拍を測る忍足を少年はじっと見つめた。


「助けてくれて、ありがとう。あと、ソレごめんなさい」


空になったペットボトルを一瞥し、少年が言った。
ちらりと視線を動かせば、少年はバツの悪そうな表情を浮かべていた。


「さっきも言うたやろ。気にせんでええって」
「でも、せっかく買って来たんでしょう? ボク、弁償します」


意外にしっかりとした口調で話す少年に忍足は、ちょっと目を丸くした。


「非常時やってんからええって。つぅか弁償される方が困るわ」


少年はまだ納得のいかない表情を浮かべている。
埒があかないので、忍足は話題を変えることにした。


「それより、自分の家どこやねん? 近くなんか?」
「……どうして、そんなコト訊くんですか?」


瞬時に警戒心を剥き出しにした少年に忍足は苦笑した。


「そんなん送ってったるからに決まっとるやん」
「……」
「イヤや言うたら病院連れてくで?」
「どうして……」


怪訝な表情を浮かべ、少年は忍足を見上げた。


「どうしてそこまでしてくれるんですか?」
「へ?」
「だって、貴方にとって何の得にもならないじゃないですか…」


視線をそらして呟く姿に、自然と眉間の皺が寄る。
しっかりしている、だけでは片付けられない言葉をこぼす少年。
悲しいと、そう感じてしまうのは自分の勝手で、
きっとこの少年は同情や同調など他人に望んでいないと直感で思った。

―――けれど。
俯きながらも自分の返答を待つ少年を見ると、形容し難い感情が込み上げてくるのも事実だ。



少年の頭に軽く手を乗せて、言った。


「そんなん決まっとるやろ」
「……?」
「また自分にぶっ倒れられたら俺のペットボトル代がムダになるからや」


軽口を混ぜた返答に、少年は目を見張った後、可笑しそうに口元を緩めた。
不意に胸の靄が晴れたのは、その顔が年相応な、無邪気な笑顔だったからだろう。









方向は、偶然にも忍足のマンションと同じだった。
日差しから極力避けるために、少年を日陰に歩かせる。


途中にある公園の前で少年が立ち止まった。


「ここまででいいです」
「近くなんか?」
「はい」
「せやったら、はよ帰りーや」
「色々ありがとうございました」
「ええって。それよか具合悪ぅなったら今度は病院行くんやで」
「はい」


素直に頷いた少年の頭をぽんぽん、と軽く叩く。
「さようなら」と笑って告げた少年の小さな後姿を見送って、忍足も踵を返した。





纏わりつく熱風も五月蝿いセミの声も変わらないが、足取りは軽かった―――途中までは。




「げ」



忍足がその事実に気がついたとき、すでに自宅マンションの近くだった。
持っていたビニール袋の中に、あるはずの醤油がない。
恐らく、ペットボトルを取り出した弾みで落としたのだろう。


「ウソやろ……」


唸りたい衝動を押さえつつも、忍足は急いで来た道を引き換えした。





  



少年と別れた公園の前に差し掛かった時。
木陰のベンチに座っている小さな背中がを、ふと投げた視線が捕えた。




「あのボウズ……はよ帰れ言うたのに」



思わず立ち止まり、忍足は溜息をついた。


園内に歩を進めかけた、その時、少年が立ち上がった。
そして、反対側の入り口へと歩き出す。
少年の向かう方向に視線を移すと―――ひとりの少女がいた。



(ん?)



立ち止まって、少年が来るのを待っている少女の容貌に、既知感が起こった。
遠目だが、確かにどこかで見たことがある。

―――彼女を知っている。




記憶の引き出しを開け放ち、探す。
がさり、とビニール袋が夏風に揺れて音を立てた瞬間、見つけた。

辿り着いた少年に言葉を掛けている彼女は、自分が良く利用しているコンビニの店員だった。
さっきもレジに立っていて、精算したのも彼女だ。



ああ、そうか、と。
あの少年と姉弟だったのか、と。
それで終わるはずだった。



終わるはずだったのに。









二人の姿が完全に視界から消えるまで。


耳障りだったセミの鳴き声も、
纏わり付いて蒸せる温度も、



少年に向けられた彼女の笑顔が、焼き付いて―――何も感じなかった。











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