涙を堪えているキミを見て


どうしても言えなかった言葉があった

 

 

 

 



++++ 遠い約束 4




 

 

 

 

 

いつもより一時間近く遅れていった。
自分がいないことをいいことに、だらけてないかと思っていたが、意外に真面目にやっていた。
コートに入ってきた跡部に最初に気づいたのは、忍足だった。



「よぉ、跡部。重役出勤やん。何しててん?」
「…ヤボ用だ」
「ヤボ用ならもっと早く終わらせて来いよー!」


口を尖らせて言う向日に跡部は不機嫌に眉を寄せた。


「うるせぇよ。連絡なら樺地から聞いただろ。何か文句でもあんのかよ」
「ある! が来るって言ってただろー? 昨日さぁ」
? …ああ、例の女か」


どうでも良さそうに呟く跡部に忍足が肩を竦める。



「何や自分、「K」候補やのに興味ないん?」
「…別に。それより、何勝手に休憩に入ってんだよ」
「ええやん。休ませてぇな」
「今まで練習してたんだから、いいじゃんか。たまには慈愛の心でも見せてみそ」
「バーカ。何言ってんだ。んなもん却下だ却下。さっさと行け」


渋る二人を跡部は足蹴りに問答無用で練習に戻らせた。
ベンチに行き、いつものように腰掛ける。


 


「跡部」


呼ばれて振り返ったら、ジャージ姿のジローが立っていた。
珍しく、起きて練習に参加していたらしい。
額に汗が光っていた。


「なんだよ?」
「気になったから、待ってた」
「……言っとくが、オレにはそのケはないぜ」
「うん。俺もないよ」


「女の子の方が好きだし」と言って、ジローは跡部の隣に座る。
ジローは、ぼんやりと前を見据えたまま、言った。


「らしくない、と俺思うんだけど」
「…は?」
「跡部だってホントはそう思ってない?」


意図が判らず、跡部はジローを見た。
視線を動かして、ジローは真正面から跡部を見返した。
その真剣な眼差しに跡部は内心たじろぐ。



「中庭にさ。大きな木があるじゃん? そこからだと保健室、見えるんだ」
「……それが?」


なんだ、と言いかけて、跡部はハッと目を見張った。


「俺、あの時そこにいたんだ」
「……」
「だから知ってるよ」
「……」
「逃げるのは跡部らしくない」


黙って立ち上がった跡部に構わず、ジローは言った。


「泣いてたよ。逢いたいって」

 

跡部は振り返らずにコートから出て行った。

 

 

 

 

****

 

 

 

 

行かないで。そのままのキミでいいから。

―――お願いだから、傍にいて

 

 

あの時。
そう言ったら、キミはどうしただろう。
傍にいてくれただろうか。

 

 

(言っても無駄だっただろうな)

 

は意外に頑固な所があるから、決めたら絶対に動かない。
だから言わなかった。
何よりも誰よりも傍にいて欲しかったのに。

 

あの頃の自分にとって、は大切なものだった。
大切な存在だった。
は、ありのままの自分を受け入れてくれた初めての他人だった。


なのに。
突然、彼女はいなくなった。
必ず帰ってくるとは言ったけれど。
待つだけで探すなと言われた自分は、ただただ悲しくて、裏切られた気がした。

約束通り、は自分の傍に帰ってきたけれど。
まだ気づかない。
自分はここにいるのに。

 

「K」は自分―――跡部景吾なのに。

 



が氷帝に転校してきたと、知った時。
沸き起こった感情は、純粋な喜びと―――ひとつの不安だった。


「光」はを変えてしまっていないだろうか。
自分の中にいる、あの頃ののままだろうか。


次第に喜びは呑み込まれ、自分に残ったのは言い様のない不安だけ。
その不安は瞬く間に広がり、恐怖へと変化していく。

もしもが自分を見つけた時。
彼女の目に、媚びへつらい近寄ってくる他の女たちと同じ色を見つけてしまったら。
―――きっと、自分はを拒絶する。


彼女を拒絶するくらいなら、逢わない方がいい。
見つけられない方がいい。
逢わなければ、自分にとって「光」だったのままだから。
自分の「」を壊されたくないから、傷つきたくないから。
たとえそれが自分のエゴだと判っていても。

追い求めるから―――逃げていた。





『逃げるのは跡部らしくないよ』

 

不意にジローの言葉が甦った。
ジローの咎めるような目が、痛かった。
 

本当は、いつまでも隠れていられるとは思っていない。
だけど後もう少しだけ。
もう少しだけは―――。

 

「……っとに、らしくねぇ」


意外と臆病だった自分に驚き、苦笑が込み上げた。

 

 

 

****

 

 

 

転校してきて、はや一ヶ月が過ぎようとしている。
は今日もケイを探して、校舎内を歩いていた。
レギュラー陣の手伝いもあって、最初は途方もなかった道に漸く光が見えてきた。
残すところ後わずかな「K」候補たち。


でも。


「……あの時無くした一枚にいたら面倒だなぁ」

 

風に飛ばされた一枚の名簿を追ったからこそ、忍足たちと出会ったのだが。
もしも、その一枚のリストの中に「K」の名前があったのなら、もう一度最初からになる。
そんな事態は丁重にお断りしたい。

 

「……深く考えるのは止めよう。怖くなっちゃう」
「何が怖いの?」


突然背後に現れた人の気配には小さく悲鳴を上げた。
はやる胸を押さえて、振り返るとジローだった。


「驚かせないで、ジロちゃん」
「うん。ごめんね?」


しゅんと項垂れるジローの頭に犬の耳が見えるのは気のせいだろうか。


「いいよ。それよりどうかしたの?」
、頑張ってるから。ご褒美あげようと思って」
「ご褒美?」


目を丸くして見上げるにジローは「うん」と頷いた。
そして、小さなメモを手渡す。


「ここに書いてる所に行けばいいから」
「地図が書いてあるの?」
「うーんと、ちょっと違う。でも見れば判るよ」
「…? ありがとう」


怪訝な表情を浮かべつつ、とりあえず礼を口にするに、ジローは笑った。


「俺、らしくないのキライなんだ」
「…うん?」
「時間あげたのに駄目だったから、俺ちょっと怒ってるんだ」
「ジロちゃん?」
「思いっきり殴っても良いと思う。じゃあね〜」


言い終わるなり、ジローはさっさと踵を返した。
残されたは、ただ不思議そうにその背中を見送った。

 


ジローのくれたメモに記されていたのは、場所を示す地図でもなく記号でもなかった。

 

 

 


  昼休みに3-1。

  宍戸と忍足の後をつけていけばいいから。
  でも一緒に行っちゃ駄目だよ。

  それで右目下に黒子のある男を捕まえて。


 

     P.S

       敵は逃げ足が速いから、ふぁいと

 

                          ジロー

 


 


「……何をさせたいんだろう。ジロちゃんてば」


やっぱりテニス部は変わった人たちの集まりだ、と思う。
ジローの意図は判らないが、とりあえず素直にメモに従うことにした。



昼休み。
連れ立ってどこかに向かう忍足と宍戸の後をこっそりついて行く。
何だか張り込みの刑事みたいだ。
しばらくして、は自分が訪れたことのない棟にいることに気づいた。


(そう言えば、ガックンが離れた棟にいるって言ってたっけ?)


だとすれば、二人は向日の所に行くのだろうか。
次第に生徒たちの声が増え、教室が連なっている廊下に出た。
二人の目的地は、ジローのメモ通り、3-1の教室だった。
忍足が戸口にいた女生徒を捕まえて何か伝えている。
女生徒が教室に入り、しばらくして、一人の男子生徒が姿を現した。

 

(わ。すごい)

均整の取れた長身に、すらりと伸びた手足。
切れ長な双眸は、深い青色。
すっと通った鼻梁に大人びた精悍な顔立ちをしている。
妙に顔立ちの整ったレギュラー陣の中でも、一番だろう。

 

(―――あ)

 

 

隠れて観察していたは、その男子生徒の右目下に黒子を見つけた。
ジローが捕まえろと言ったのは、どうやらこの人物のようだ。

 

(ええっと、逃げ足が速いんだっけ?)

 

自慢じゃないが、運動は大のニガテである。
見るからにスポーツが得意そうな男子生徒をまともに追いかけて、捕まえられる自信などない。
どうしたものかと悩んでいると、不意に影が落ちた。
顔を上げると、何故か樺地が立っていた。


「樺地くん。どうしたの?」


訊けば、樺地は黙って忍足達を見た。


「オッシー達に用があって来たの?」
「……」
「違うの? じゃあ、もう一人の人?」
「…ウス」
「あたしもなの。そうだ、樺地くん。背中貸して?」
「……?」
「あの人の近くまで見つからないように行きたいの。お願い」
「……」


ちょっと考えてるのか、間を置いてから樺地は頷いた。
は礼を言って、歩き出した樺地の後ろに隠れて歩いた。

 

 

 

「お、樺地」


忍足の言葉に跡部と宍戸も視線を動かした。
樺地は、跡部の前に立ち止まって、一枚のメモ用紙を差し出した。


「何だ?」
「……芥川先輩から、です」
「ジローが跡部に手紙やて?」
「意味深だな」


早く開けろと促され、跡部は怪訝にメモを開いた。

 

 

  




     
     ゲームオーバーだよ、跡部。

 

                       

                      ジロー

   
 


 

「何やねん、コレ」
「…それはオレの台詞だ」
「跡部お前、ジローと何かゲームでもしてんのかよ?」
「してねぇよ」


不機嫌そうに眉を寄せ、跡部は樺地を見上げた。


「他に何か言ってやがったか?」 


樺地は無言で首を振った。


「ったく、何なんだよ。ジローの野郎は……」


呟いて、跡部はハッと目を見張った。


(―――まさか……)


跡部がその意味に気づいたのと、ほぼ同時だった。

 

 

「ごめんなさいっ」

 

謝罪の言葉が聞こえ、続いて樺地の後ろからが飛び出してきた。

 


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