薬品の匂いがする室内
乾いたシーツの感触
聞こえてくる小鳥のさえずり
それらは全部馴染んだもので
一瞬、あの頃に戻った気がしたのに
同じのようで、同じじゃない
光を取り戻したあたしの世界には
―――あなたが欠けている
―――何でこんなことになったんだ。
宍戸はそう思わずにはいられなかった。
担任から頼まれ、の鞄を持ってくるハメになったのは、まぁいいとしよう。
成り行きとはいえ、自分も助けたが気になっていたから。
跡部のところには次の休み時間にでも行こう、そう考えていた。
だが。
保健室のドアを開けた瞬間、宍戸は固まった。
ベットにいるはずのが床に座って、何故か泣いていたのだ。
状況が掴めず、混乱する宍戸を更なる不幸が襲った。
忍足と向日がやって来たのだ。
案の定、泣いているを見て、勘違いしたこのダブルスペアは騒ぎ出した。
「宍戸お前、早まったな……」
「お前、何泣かしてんだよ!!」
「なっ! 違ぇよ!! 妙な勘違いすんなっ」
責め立てる二人(忍足の野郎は絶対わざとだ。笑ってやがった)を納得させるのには、大変な重労働だった。
二人の誤解が解ける頃には、はもう泣いていなかった。
「……大丈夫かよ?」
「うん。ありがとう。それと……ごめんなさい」
ちらりと横目で忍足達を一瞥し、は謝った。
罪悪感を感じているのか、バツの悪そうな表情を浮かべている。
「別に気にしてねーよ。いつものことだ」
「……でも」
「それより、これ」
まだどこか納得のいかない顔つきのに宍戸は押し付けるように鞄を渡した。
「担任がお前ン家に連絡したら、早退させてくれって言ってきたんだとよ」
「……そう。でも、もう平気。授業に出るわ」
「えっ? 顔色悪いぜ。無理しない方がいいんじゃねーの?」
思わず声を上げた向日には振り返った。
「ありがとう。でも、休んでる場合じゃないの」
「? ……ああ。「K」だっけ?」
「そう。それに散らばった名簿も捜さないと…」
自分が階段から落ちた時、手には残りの名簿があった。
きっと散らばって、誰かが回収したはずだ。捨てられてなければ良いのだけど。
「ああ。それなら心配ないで。俺が集めといたし」
ほら、と忍足は名簿をに差し出した。
受け取ったが心の底から安堵しているのが目に見えてわかった。
宝物のように、大切に名簿を抱きしめている。
不意に向日が口を開いた。
「なぁ、「K」なら俺らにも心当たりあるけど」
「え?」
唐突な言葉にはきょとんと目を丸くした。
宍戸も怪訝な表情で向日を見た。
忍足は、相方の意図に気づく。
「せやったな。俺らンとこにも「K」おるわ」
「一般部員にも何人かいるんじゃねー? なぁ、これってもう確かめた後のやつ?」
名簿を指差し、向日はを覗き込んだ。
無邪気に尋ねてくる向日には、素直に首を振って答えた。
すると、向日は嬉しそうに笑った。
「なら、今日の放課後に来いよ! なっ?!」
「お、おい。向日?!」
「何だよ? 早い方がいいじゃん」
「まぁ待てや、岳人」
今にも手を取って連れて行きそうな勢いの向日を制し、忍足は言った。
「やっぱ今日は大人しく帰った方がええで?」
「だから、休んでる場合じゃないの」
「急いては事を仕損じるって言うやろ? 焦ってもアカンて」
「……」
黙ったの肩を忍足は、ぽんぽんと軽く叩いた。
「思い詰めた表情ばっかりしてると、運が逃げるで? せっかくの美貌が台無しや」
「………あなたの方が綺麗だと思うけど」
「そらおおきに。でも、俺に惚れたらアカンよ?」
「大丈夫。それはないと思う」
冗談だったのに真面目な顔で返され、流石に忍足も言葉に詰まった。
「侑士、振られてやんの〜」
「…激ダサだな」
腹を抱えて笑い出した向日より、宍戸が実に嬉しそうな顔をしてるのが、気に触る。
どうせ、さっきからかった事の腹癒せだろうが。
後できっちりイジメ返してやる、と忍足が思ったのはさておき。
小さく息をついて、が顔を上げた。
鞄を掴み、座っていた長椅子から立ち上がる。
「…判った。今日は帰ります」
宍戸と忍足、向日の三人は、を下駄箱まで見送ることにした。
背の高い三人に囲まれて歩きながら、はふと気が付く。
よくよく考えれば、彼らのことを知らない。
おそらく噂を耳にしている彼らは、自分のことを知っているようだが。
「ところで、あなた達の所ってどこ?」
というか、何者?
怪訝に見上げてくるに忍足は自己紹介云々がまだだったことに気がついた。
「ああ。俺らテニス部員やねん。せやし、明日の放課後にでも部室に来てくれたらええよ。
俺は3年の忍足侑士。よろしくな、ちゃん」
「俺は向日岳人っ! ガックンって呼んでくれよ!」
何故か飛び跳ねている向日に曖昧に頷き返して、は宍戸を見上げた。
宍戸より先にが口を開いた。
「鞄、ありがとう。宍戸くん……で、合ってるよね」
「……おう。めんどくせーから、君付けはいいぜ」
「じゃあ、宍戸?」
「おう。ちゃんと寝ろよ、」
宍戸の気遣いには一瞬眼を瞬き、そして素直に頷いた。
「うん…そうする」
胸が、むず痒かった。
しばらくして、四人は下駄箱に到着した。
は三人に振り返って、丁寧に頭を下げた。
「三人とも、色々ありがとう」
「お礼なんかいいからさ。明日、絶対来いよな!」
「うん」
「待ってるで〜」
「じゃあな」
「うん。また明日」
バイバイと手を振って、は歩き出した。
ふと、は気づく。
この学校に来て「また明日」と言ったのも、言われたのも、これが初めてだった。
****
翌日。
は昨日と引き続いて数々の「初体験」をした。
廊下で逢った忍足と「おはよう」と挨拶された。
居眠りしていた宍戸に「ノートを見せてくれ」と頼まれた。
自販機の前にいた向日に「これ美味いんだぜ」とジュースを奢って貰った。
正直、はどうしたものかと戸惑った。
彼らはごく普通に、しかしどこか当然のように話し掛けてくる。
けれど、その戸惑いの中、彼らの言葉からケイと同じものをは感じた。
ケイと同じように、自分を、ちゃんと見て話し掛けてくれる。
だからかもしれない。
昨日今日に会ったばかりなのに、彼らを信じてしまうのは。
そう言えば、以前に道を尋ねた生徒も彼らと似ていた気がする。
確か鳳という名前だった。
背が高かったので同い年だと思っていたが、一学年下で、何の縁か彼もテニス部だと言っていた。
(……面白い人たち)
彼らを思い浮べると、ふっと口元が緩む。
あんなにも苦しかった胸の痛みが、焦りが、嘘のように薄れていく。
不安とせつなさに押し潰されそうだった自分が恥ずかしい。
(ケイに逢うために、今あたしはここにいるの)
くじけるわけにはいかない。
諦めたら最後。
今までの努力と我慢が無駄になってしまう。
(あたしは……諦めないよ)
絶対に見つけ出す。
それが、約束。
今の自分を動かす力。
(―――待っててね、ケイ)
決意を新たに、は彼らと約束したテニスコートへと向かった。
****
「……何これ」
莫大なテニスコートと整った数々の施設。
コートのフェンス脇にわらわらと群がっている女生徒たち。
練習の準備をする、多すぎる部員たち。
過剰なまでの人の数には、自分がどこにいるのか一瞬判らなくなった。
「あー、あの子だぁ」
呆然と立ち尽くすに声が掛かった。
聞き覚えのない声に振り返ったら、眠そうな目を擦って自分を見つめる男子生徒がいた。
(……だれ?)
肩にテニスバックが掛けられているから、テニス部員の一人であろうが。
男子生徒はゆっくりと近づいて、いきなりの腕を掴んだ。
は、即座に手を振り解こうとしたが、意外にしっかりと掴まれていて無理だった。
「……なに?」
「こっち」
ぐいっと手を引かれ、建物の間に連れ込まれた。
咄嗟に身の危険を覚えたが、すぐに杞憂に終わる。
手を引くテニス部員は、眠そうに欠伸をするだけだった。
建物の合間の細道を歩きながら、は尋ねた。
「……あなた、だれ?」
「俺? 俺は芥川慈郎。ジローでいいよ〜」
「……ジローくん?」
言ってみて、何となくこの少年には「くん」が合わない気がした。
ちょっと考えて、は言った。
「…ジローちゃん。うん。こっちの方が合う。…いいかな?」
「うん。いいよ」
にっこりと笑ったジローには、「ああそうか」と納得した。
(……この人もだ)
ケイや宍戸達と同じ。
自分を色眼鏡を通して見ていない。
そう思ったら、もう彼に対して警戒心は起こらなかった。
「どこに行くの?」
「部室だよ。あそこにいたら、きっと危ないから」
「危ない?」
「ファンの子たちに見つかるから、危ない」
「……ふぅん?」
よく判らなかったが、部室に行くのなら好都合だ。
探すまでもなく宍戸達に会える。
やがて、部室とは思えない大きさの建物が見えた。
ジローは「ここ」と言って、ドアを開けてを招き入れた。
「あっ! じゃん!!」
「おー、よう来たなぁ」
「お久しぶりです、先輩」
「遅かったな」
入るなり、見知った顔達が迎えてくれた。
向日が飛ぶようにやって来る。
の後ろにジローがいるのに気づき、向日が首を捻った。
「あれ? ジローじゃんか。一緒に来たのか?」
「うん。連れてきてくれたの」
テニスバックを床に下ろし、ジローはソファーに寝転がった。
「危ないと思ったから」
「危ない? 何がですか?」
「コートの近くで立ってた。だから危ないって思った」
「せやな。あの子らに見つかると…ちょお危ないな」
「うん。だから、保護しといたんだ〜」
「やるじゃん、ジロー!」
「ほらよ」
宍戸から褒美の飴を嬉しそうに貰うジローを眺めながら「なぜ部室にこんな豪華なソファーがあるのだろうか」と
は的外れなことを思っていた。
ちょっと困った表情を浮かべて、忍足が言った。
「折角来てもろたんやけど、実はまだウチの「K」どもが来てへんねん」
「……そうなんだ」
ふっと表情の曇ったを励まそうと向日が声を上げた。
「だけど、一般部員ならいるしさ。そっちから当たっていこうぜ!」
「そうだな。じゃあ呼んでくる。オイ、。名簿貸せ」
は、未確認の名簿を宍戸に渡した。
ぱらぱらと名簿を捲った後、宍戸は鳳を連れて出て行った。
が思っていたよりも、テニス部には未確認の「K」がいた。
宍戸と鳳に正レギュラーの部室に連れてこられ、かちんこちんに固まる「K」候補をは順に確かめていった。
しかし、やはり彼女の探し求めている「K」はいなかった。
最後の一人が部室を出て行った後、重い空気が漂った。
「協力してくれて、ありがとう」
沈黙を破ったのは、だった。
レギュラー陣は、じっと黙ってを見つめた。
ちょっと苦笑を浮かべるには、落胆の陰はない。
大切に名簿を抱きしめていた、あの不安で儚く見えたではなかった。
「大分候補が減ったから見つかるのも時間の問題だよ」
「何や今日は……えらいスッキリした顔しとるな、ちゃん」
「そう? …忍足くんの言う通り焦るのを止めたから、かな」
名簿に視線を落とし、は続けた。
「ケイは確かにここにいるから、焦る必要なんてないって。焦らなくても、必ず逢える…。
そう信じようって思うようにしたの」
言って、はゆっくりと微笑んだ。
その穏やかな表情には不自然さはない。心の底からの、笑顔。
つられるようにレギュラー陣の顔にも笑みが浮かぶ。
残りの二人を待つ間、はレギュラー陣に「K」との思い出と探す経緯を話した。
「諦めんなよ! 俺も手伝うからさっ」
「もちろん俺も協力するで」
「微力ながら俺も」
「まぁ、困ったら言えよ」
「うん。ありがとう」
彼らの反応、言葉にホッと表情が緩んでいくのが判った。
「意外に近くにいると思うよ」
不意にぽつりと聞こえた声は小さく、言葉はハッキリ聞こえなかったがジローのものだった。
「ジローちゃん、何か言った?」
「う〜ん……ダイジョウブだよって言った」
「? うん。ありがとう」
はちょっと不思議そうに首を傾げたが、すぐに笑って言った。
部室内が穏やかな雰囲気に包まれていた、その時。
がちゃりと扉を開け、樺地が入ってきた。
「あっ!! やっと来たなー、「K」候補!!」
「……?」
遅いっ!と咎める向日に樺地は時計を見た。
「その遅いとちゃうねん。ええから、ちょおこっち来いや」
「……ウス」
忍足に手招かれ、樺地はの前に立つ。
本当に中学生なのだろうか…と樺地の姿を見ては真剣に思った。
自分より数倍大きいスケールの樺地を見上げ、呆然としているに鳳が苦笑した。
「2年の「樺地崇弘」です、先輩。樺地、ちょっと屈んでくれないか?」
特に異論がないらしく(あっても口にしなさそうだが)、樺地は素直に屈んだ。
「ありがとう。すぐ済むから」
はそう告げ、樺地の顔に手を伸ばして触れた。
何となく予想はしていたが、やはり違う。
首を振ったをレギュラー陣たちも予想していたのか、やっぱりと妙に納得してた。
「これで、後は跡部だけかぁ」
「アトベ?」
「せや。跡部景吾。ウチの大将やねん」
「すげぇ我侭で気分屋だから、確かめる時は気をつけろよ」
「どうかしたんですか? 先輩」
思案顔で俯くを鳳が覗き込んだ。
「うん。どこかで聞いた事のある名前だな、って」
「名簿にあったんじゃねーか?」
「ううん。誰かから聞いた気が……ああ、あの時だ」
思い立ち、は顔を上げる。
「転校して間なしなだったかな。女の子に呼び止められたの」
「…ひょっとして跡部ファンの子とちゃう?」
「ファン? そうなのかな。とりあえず、そのアトベケイゴって人はあたしが探してる人じゃないから、
近づくなって言われた」
はのんびりと「忘れてたな」と付け加えた。
「……ファンの連中だな」
「素早いですね」
「それから何かされなかったか?」
「うん。別に」
もしかすると、跡部の確認がにとって一番危ない事になるかもしれない。
跡部の番になった時は、ヤツを拉致して人知れず終わらせることにしよう。
レギュラーの全員が全員(ジロー抜き)、瞬時にそう考えた。
そして、目を合わせて頷き合った。
壁に掛けられた時計を見た後、鳳が言った。
「……そう言えば、その跡部さん。遅くないですか?」
「せやな。いつもより遅いな。……って、何やねん、コレ?」
すっと無言で一枚のメモを差し出した樺地を忍足は見た。
とりあえず、受け取って読んでみる。
遅れる。先に練習始めておけ。サボったら殺す。
跡部
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「「「「「………」」」」」
実に簡潔に用件だけを、しかしきっちり命令調で脅迫も付け加えた文面に、レギュラー陣は言葉を失った。
跡部らしいといえば、それで終わりなのだが。
間違ってもコイツはの捜し求める「K」じゃない。
というか、ぶっちゃけそうあって欲しくない、と切に思う。
(跡部だったら、絶対可哀想だって)
(修復不可能なぐらい「K」像が崩れるだろーな)
(ショックで寝込むかも)
(大切な思い出の君が「超オレ様」に変貌しとったら辛いわ)
押し黙るレギュラー陣には怪訝に首を傾げる。
「なに? アトベくん来ないの?」
「みたいや。堪忍な、ちゃん」
「ううん。じゃあまた今度にする」
そう言っては部室を出て行った。
窓越しに見送っているレギュラー陣には、何時の間にか目を開けていたジローに気づかなかった。
「………逃げてる」
ジローの呟いた言葉は、誰の耳にも届かなかった。
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