探しても、探しても
いるはずのあなたはいない

 


こんなにも、近くにいるはずなのに
 

―――あなたに手が届かない

 

 

 

 

 

 


++++ 遠い約束 2




 

 

 

 

 

(まるで珍獣扱い)

 
は深い溜息をついた。

教室では何かと視線が煩いので廊下へ避難してきたのだが……、どうやら無駄だったらしい。
通りがかった生徒から、教室内の生徒からもしつこく無遠慮な視線が突き刺さって仕方がなかった。

自分に関する様々な噂を知っている。
殆どがデタラメで、流している人間達が面白がっているということも、だ。


無理もないかもしれない。
逸る衝動を抑え切れず、大勢の前で迂闊に行動を起こしてしまったのは自分自身なのだから。
それに遅かれ早かれ、こうなっただろう。
は長い間、人の判別を触れることで確認していた。
だから、捜し求めている「K」を見つけるには、この方法しかなかったのだ。



彼と出逢ったとき。
―――自分はまだ、目が見えなかったのだから。

 

 

大空を渡る小鳥を眺めながら、は今でも鮮明に蘇る過去に思いを馳せた。

 

 

 

****

 

 

 

友達の家に遊びに行く途中。
工場の爆発事故に巻き込まれ、両目の視力を失った。5歳の夏だった。
愛情深い両親と経済的にも裕福な家庭に生まれたは、名医と賞される医師たちの治療を受けることが出来た。


―――しかし、現実はそう甘くなかった。
の負った傷はそう易々と癒されるものではなかったのだ。

辛い手術に失敗という結果が繰り返される。
何度も何度も、何度も。
それは、幼いにとって目覚めることの出来ない悪夢のような日々だった。

 

彼と出逢ったのは、今から7年前。
叔父の勤める総合病院へと移って間もない頃だった。
は一向に光の見えない出口に迷い込み、疲れ、諦めかけていた。


そんな時に彼と出逢った。

名前は知らない。
名乗ることを彼が望んでいなかったからだ。
不思議に感じはしたが、自分にとって大した問題ではなかった。
名前よりも、彼の存在が大事だったから。
「K」というイニシャルだけで十分だった。

 
「K」―ケイは、入院している祖父を見舞った後で、自分の病室にやって来た。
必ず一輪の花を持って。
「雑草だけどな」と照れくさそうに言った声やケイとのたくさんの想い出は、今も鮮明に思い出せる。


もういやだと言った時には、自棄になるなと怒鳴られて。
手術が失敗に終わって泣いている時には、黙って傍にいて。
海に行きたいと呟いた時には、たくさんの貝殻を持って来てくれた。

 

ケイの素性は何も知らなかったけれど。
ケイの言葉が、不器用な優しさが、少しずつ、少しずつ、あたしを癒してくれた。

―――それから。
もう一度光を求める勇気も、ケイはあたしに取り戻させてくれた。

 

 

 

別れの日。
あたしとケイはある約束した。

 

『あたしは絶対に光を手に入れて帰ってくる。そしたら、逢いに行くよ』
『オレの名前も顔も知らないのに?』


泣いて別れるのが嫌だったから、必死で涙を堪えて言ったのに、ケイは意地悪だった。
ちょっと意地になって、あたしは言った。


『平気よ。イニシャルと氷帝っていう学校に通ってるの知ってるもん』
『それだけだぜ?』
『いいの。ヒントが少ない方が、探す楽しみが増えるでしょう?』
『……オレは待つだけかよ』


ケイの声は不満げだった。
いじけているみたいで、少し可笑しかった。


『うん。そう。信じて待っててくれるだけでいいの』
『……いつまで?』
『あたしが見つけ出すまで』
『……』
『約束するよ。絶対に帰ってくるから。……待ってて』


あたしは、ケイに待ってて欲しい。
それがただのエゴだと判っていたけど。
ぎゅっと重ねた手に力を込めたら、ケイはちゃんと握り返してくれた。
ケイの手はあたしより少し冷たくて、心地よかった。


『判った。オレはを忘れない。帰ってくるのを……ずっと待ってる』
『……ありがとう』


あたしは泣きそうになるのを誤魔化そうとして笑った。
ふと額に小さな温もりを感じた。
それがケイの唇だということに気づいたのは、随分後になってからだけど。


『約束だぜ』
『うん。絶対にまた逢おうね、ケイ』

 

互いに額を寄せて、ケイとあたしは、そう誓い合った。

 

 

 

 

****

 

 
 

 

遠い日に、ケイが触れた額をは指でなぞった。

あの唇の温もり。
少し冷たい掌。

成長していたって、それは変わらないと信じてる。

 

 

 

 

(それでもこれは……予想外だわ)

 

ふぅと溜息をこぼし、は手元の名簿表を見つめた。

ケイから同い年という事も教えてもらっていたのだが、は念のために全校生徒を調べるつもりでいた。
故に、転校初日に全校生徒の名簿をコピーさせてもらい、その中から苗字名前関係なく「K」のイニシャルを持った人間を
リストアップしたまでは良かったのだが。
――A4サイズのリストは、ざっと数えただけでも10枚以上はあったのだ。


(どうしてこんなに生徒がいるのよ)



多少の人数は覚悟していたけれど、ここまでいるとは想定外だ。
現実的な数字を睨みながら、は幼い頃の自分を恨んだ。

もう少し、ヒントをもらえばよかった。
そう、せめてイニシャルだけでも完璧に訊いておけば、まだ楽だったかもしれない。


(早く…早く逢いたいのに)


は、ぎゅっと唇をかんだ。

 

 


辛い薬や可能性の低い手術を我慢したのも。
どんな結果になっても、決して諦めなかったのも。
はやく普通に生活できるように努力したのも。


すべては、約束を果たすために。
すべては、ケイに逢うために。

それだけのために生きてきた。



―――だけど。

 

(あなたはあたしを―――まだ覚えている?)

 

不意にそんな不安が過ぎるのも確かで。

 

見ツケ出シテモ、アタシヲ忘レテイタラ?

オ前ナンカ知ラナイト言ワレタラ?

 
想像したくない不吉な結末が、脳裏に次々と浮かんでくる。


が自ら作り出した不安のループに迷い込みかけた瞬間、持っていた名簿の一枚が風に誘われるように舞い上がった。



「あっ!」


手を伸ばしたをあざ笑うかのように、すり抜ける。
名簿用紙は、ひらひらと木の葉のように落ちていった。


「………」


伸ばした手をそのままに唖然としていたは、はっと我に返った。
呆けている場合ではない。あの名簿は、まだ未確認なのに。
また風に流されてしまったら、それこそ目も当てられない。

は弾かれるように走り出した。縺れる足を叱咤して、急いで階段を下りる。

 

 

それは一瞬の出来事だった。

 

 

ぐにゃりと目の前が歪んだ。
咄嗟に手すりを掴もうとしたが、先に世界が逆転した。
自分が階段から足を踏み外したているのだと、気づいた時には、もう床が迫っていた。
すぅっと全身の血が引き、意識が遠のきかける、その直前。

 

 

―――誰かの手が見えた気がした。

 

 

 

****

 

 

 

 

 

「……何か騒がしくねー? あっち」


周囲のざわめきに気が付き、向日が言った。
つられて顔を上げば、廊下の奥に人だかりを見つけた。位置的に踊り場だった気がする。


「何かあったのかな?」
「さあな。それより、お前さっさと英和辞書返せ」


見るからにキラキラと好奇心で目を輝かせる向日に跡部は尊大に言った。


数日前に向日に(渋々)貸した辞書が案の定、返って来ないので取りに来たのだ。
わざわざ回収に出向くハメになった跡部の機嫌が良いはずもない。
むしろ激悪だ。
なまじ顔立ちが整っているせいか、跡部の怒った顔は迫力があって、心臓によろしくない。
騒ぎも気になるが、向日はこれ以上跡部の眉間の皺を増やす方が恐ろしかった。
教室に戻り、向日は借りていた辞書を渡した。


「もう二度とオマエには貸さねぇ」
「えー!そりゃないぜ!!今度は絶対にちゃんと返すからさぁ!」
「オマエの絶対には聞き飽きた」


向日とて、何も好き好んで気難しい跡部に借りているわけではない。
跡部が隣のクラスではなく他のレギュラー陣のクラスが近ければ、是非とも彼らから借りる。
しかし、何の因果か、相棒の忍足をはじめ他のレギュラー陣は中庭を挟んだ別の棟に教室がある。
なので緊急時には跡部にしか借りることができないのだ。

うっかり者の向日とって、その緊急時は頻度が高い。
跡部に否と言われれば、大変困るのだ。


「頼むよ、跡部!!」
「嫌だね」
「チームメイトだろ!仲間だろ!!」
「違うな。お前らはオレ様の下僕だ」
「げ、下僕?! ……樺地だけじゃなくて俺らもかよ!!」


人でなし! 跡部の鬼畜! とわめく向日に対し、跡部のこめかみに青筋が浮かんだ。



「おーい、何遊んでんねん? 自分ら」


暴言を吐く向日に天誅を下してから跡部は、視線を動かした。
拳骨を落とされ痛みにうずくまる相方を苦笑しながら、忍足がやって来た。
片手に十数枚の紙の束を持っている。


「不意打ちは痛いで、跡部」
「痛い方がいいんだよ」
「……鬼」


懲りずに呟いた向日を面倒なので黙殺し、跡部は忍足に言った。


「何の用だよ?」
「ちょお練習メニューのことで提案があんねん。でも、宍戸が言い出したことやし、本人から直接聞いた方がええやろ」
「何で宍戸も連れてこねぇんだよ。二度手間じゃねぇか」
「いや。さっきまで宍戸も一緒やったんやけど…」


言葉を濁す忍足に跡部は怪訝な顔をした。
忍足は、ちょっと迷ってから、口を開いた。


「あそこの踊り場付近、ちょっと騒がしかったやろ?」
「やっぱ何かあったのか?!なになに??」


急に元気になって立ち上がった向日に再度、跡部は拳固を下ろして黙らせる。


「俺と宍戸が丁度通りがかった時に女の子が階段から落ちてきてん。咄嗟に宍戸が受け止めたから、
怪我せぇへんかったとは思うねんけど、一応診てもろたほうがええやろ? それに気ぃも失ってたし……」
「そのまま宍戸が保健室に連れて行った、って訳か」
「せや。彼女送り届けたら、宍戸もこっち来るやろ」
「その前に休み時間が終わるだろ」
「そうなったらまた来るわ」
「……やっぱり二度手間じゃねぇか」


にべもなく言い捨てる跡部に忍足は肩を竦めた。


「そう言うたらオシマイやん」
「事実だろうが」
「まぁそやけど。ああ、せやせや。さっきの話な。実はおいしいオマケがあったんや」
「おいしいオマケ?」


怪訝に眉を寄せる跡部に持っていた紙の束を見せた。
A4の用紙には、男子生徒の名簿がびっしりと記されている。
にっと口の端を吊り上げ、忍足は言った。


「その落ちてきた女の子が『 』やってん」

 

 

 

****

 

 

 

見渡す限りどこまでも続いている白い空間には立っていた。
少し離れた場所に、小さな男の子と女の子が遊んでいた。


(ああ。これは夢ね)


覚えのある夢に、は薄く笑った。

 

楽しそうに笑う女の子は、幼い頃の自分。
自分と手を繋いでいる男の子は、ケイ。

後ろを向いていて顔が見えない。
でも、どんなに願ったとしても、ケイはこちらを向いてくれない。
近づいて触れようとした次の瞬間には、遠く離れた場所に立っている。


(だって、知らないもの)



ケイの顔など知らないから。
夢で逢うことも出来ない。

ケイの名前を知らないから。
呼ぶことも出来ない。

 

ただ、楽しそうに笑う幼い自分を見つめるだけの夢。

 

(夢の中でも遠いよ…ケイ)


喉に熱いものが込み上げる。堪えるようには目を伏せた。

 
 

『……』

 

不意に声が聞こえた。
自分を呼んでいる、そう直感で判った。
しかし、誰なのか判らない。

 



 

今度ははっきりと聞こえた。
誰だか判らないが、耳に残る、その声。




(だれ?)

 

周囲を見回しても、自分たち以外に誰もいなかった。
幻聴だったのだろうか。
最近あまり睡眠をとっていないから疲れているのかもしれない。
現に貧血を起こし、階段から落ちてしまったのだ。


そういえば、自分は今、どこで寝ているのだろう。
不思議に思った瞬間、ふわりと身体が浮いた。
意識が現実に戻ろうとしているのだと判った。

 

『           』




その時、もう一度あの声が聞こえた。
今度は何を言ってるのかは聞き取れない。


―――だけど。




『……じゃあな』


浮上する意識の片隅で、は額に温もりを感じた。

 

 

 

 

「―――ケイっ?!!!」




は、飛び上がるように起き上がった。
とたん眩んだ目を押さえる。
どうにか眩暈をやり過ごし、は急いでベッドを降りた。


「ケイ……っ!」


仕切りのカーテンを引いて、必死で周囲を見回した。
しかし、人の気配どころか誰の影も形もなかった。
保険医もいない。
足元に伸びる影はひとつだけ。

 

だけど、判る。ケイはここにいた。


『ちゃんと覚えてる』

『ちゃんと待ってる』


額に感じた温もりが、そう語ってくれているようで。
確かな温もりが嬉しくて、嬉しくて。

なのに、切なさからくる痛みを感じるのは何故だろう。
どうしてこんなにも悲しくなるのは―――何故だろう。

―――最後に聞こえた言葉は、何を意味するのだろう。

 

出し抜けに込み上げてきた嗚咽を。
流れ出した涙を。

―――止められなかった。

 


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