どうか、どうか
あなたが忘れていませんように
―――願うのは、ただそれだけ
2002年5月。
名門と都内でも有名な氷帝学園―――のとある教室前。
授業の始まる数分前だが、やけに生徒が入り口に密集している。
それも一組の男女を取り囲むように。
ざわめくギャラリーを完全に無視し、女生徒が口を開いた。
「あなたが『加賀谷 聡』くん…ですか?」
「は、はいっ!!」
ぴしっと背筋を伸ばし、男子生徒―――加賀谷聡は大きく頷いた。
「とうとう自分の番になった!」と内心踊りだしたい衝動を堪える。
そんな彼をじっと見上げているのは、五日前に転校してきたという少女であった。
一見この無害そうな転校生には、実はある奇妙な噂があった。
その噂を聞いた加賀谷聡は、いつか自分のところに来るのではないかと淡い期待を寄せていたのだが…。
(ああ、こんなに早く来るなんて!!)
一種の感動を覚えて悦に入っている加賀谷聡をよそに、は淡々と言った。
「失礼します。少しだけ動かないで」
彼女が目を閉じて手を伸ばした先――それは、加賀谷聡の顔だった。
白くて細い指が、ぺたぺたと顔の造形をなぞっていく。
その様子を加賀谷聡をはじめ集まったギャラリーが息を呑んで見守った。
しばらくして、は手を離して目を開けた。
「……どう、でしょう?」
どきどきと胸の鼓動を抑え、加賀谷聡は聞いた。
一歩後ろに下がった彼女は複雑な表情を浮かべながら口を開いた。
「ごめんなさい。人違いだったわ」
そして、制止する加賀谷 聡を後に、颯爽と自分の教室へと帰って行く。
がっくりと項垂れる彼の肩をギャラリーの何人かが気の毒そうに、でもどこか楽しげに叩いていった。
****
転校生・が氷帝学園にやって来たのは、つい五日前のことだった。
保護欲を掻き立てる小柄で華奢な体つき。
癖のないさらりとした黒髪。
は、大きな眼が印象的で可憐な容貌をした少女だった。
この少女の訪れに、多くの生徒(主に男)が歓喜したのは言うまでもない。
しかし。
彼女がこんなにも注目を浴びるようになったのは、容貌のせいだけではなかった。
が自己紹介のときにこう言ったのが、そもそもの始まりである。
「このクラスに「K」のイニシャルをお持ちの男子の方、いらっしゃいますか?」
突然の問い掛けに戸惑いつつも、数人の男子生徒が手を上げた。
すると転校生は、彼らに近づいて、一人一人の顔を触り始めた。
クラス中にざわめきと衝撃が走ったが、誰よりも驚いたのは、突然顔を触られた男子生徒たちである。
『は、「K」のイニシャルを持った男子生徒を探している』
この噂は瞬く間に学園内に広がり、学年問わず「K」のイニシャルを持つ男子は、好奇心と共に
の来訪を待ちわびるようになった。
中には自ら名乗り出て、彼女と仲を深めようとした生徒もいたのだが、
「あたしの探してる人は、あなたじゃないわ」
触って確認するまでもなく、何故か冷たくあしらわれる結果となった。
****
「なぁ、宍戸」
「んだよ、忍足?」
忍足は目の前で行われている試合形式の練習を眺めながら、同じようにコートに視線を置いている宍戸
に訊ねた。
「お前のクラスに転校してきた子、ホンマの所どうなん?」
「は? どうって何がだよ?」
振り向いた宍戸は質問の意図が判らないのか。
怪訝な顔を向ける宍戸に、忍足は大げさに肩を竦めて見せる。
「どうって決まっとるやん。噂どおり美人かどうか聞いてんねん」
「……ああ、そーゆーことかよ」
「なぁ、どうなん〜? お前、席近いんやろ?」
安い好奇心を見せる忍足に半ば呆れた表情を向けて宍戸は答えた。
「左隣だよ。まぁ、ゴロゴロとその辺にいそうにねぇ顔だな」
「誰がですか?」
いつからいたのか、鳳が二人の会話に口を挟んだ。
突然の鳳の登場に内心驚きつつも、宍戸は言った。
「俺のクラスに転校して来たヤツ。噂でお前も知ってるだろ」
「ああ、誰かを探してるのは実は嘘で、逆セクハラしてるって噂の」
「それそれ。でも、実際マジで探してるみたいだぜ。大量の名前リストを頻繁にチェックしてるしよ」
「自分、えらい詳しいやん」
ニヤニヤと質の悪い笑みを口元に浮かべる忍足を宍戸は睨み返す。
「席が隣だから見えるんだよ」
「それだけか? 実は気になって見てるとかやないん?」
「なっ!」
「まあまあ。宍戸さん、落ち着いて」
立ち上がった宍戸を鳳が止める。
「忍足さんは本気で言ってるわけじゃありませんよ」
「……」
「とりあえず、座ってください。ね?」
有無を言わせない笑顔で窘められ、宍戸は渋々座りなおす。
宍戸が落ち着くのを見届けて、鳳は笑いをかみ殺している忍足に振り向いた。
「忍足さん、駄目じゃないですか」
「堪忍堪忍。つい、な」
「……ついって何だよ、ついって」
「宍戸さんはイチイチ反応しないでください」
再び突っかかりそうな宍戸をやんわりと制する。
「忍足さんも。あんまりからかわないで下さいね。宍戸さんは単純なんですから」
「………」
あくまで爽やかに、詫びれもなく言い放つ後輩に、宍戸はさっくりとトドメを喰らった気がした。
「実は俺、その転校生と話したことあるんですよね」
「オイオイ長太郎。珍しくナンパしたん?」
人知れず落ち込む宍戸をよそに、忍足と鳳は話題を戻した。
「違いますよ。道を聞かれたんです。それで、その時にちょっと」
「へぇ」
「でも大した話じゃないですよ」
****
不意に呼び止められた時、「またか」と内心うんざりした。
急いでたのもあるけど、女の子の声だったし、告白だと、そう思ったのだ。
今度はどう断ろうと考えながら、振り返った鳳は軽く目を見開いた。
そこには、予想外に可憐な容姿をした子が立っていた。
失礼だと頭で判っていても、つい彼女をじっと食い入るように見詰めた。
――こんな人、氷帝にいただろうか?
そう考えた時、ふと頭を過ぎったのは「噂の転校生」だった。
(所詮は噂だと思ってたけど……ホントに可愛いじゃないか)
きっと笑えば、もっと可愛い。
だけど。
―――彼女は、恐ろしく無表情だった。
どこか張り詰めたような…そんな少女の表情に最初に浮かんだ「告白」は瞬時に消えた。
だとしたら何の用だろう。自分のイニシャルには「K」はない。
不思議に思ってたら、日本人形みたいな彼女が口を開いた。
『2年生の棟は、ここで合ってます?』
心地の良い声だと、思った。
先輩なので、敬語を使うべきだろう。
『ええ。合ってますよ』
『よかった』
『だけど、ここは準備教室しかありませんよ?』
『……2年生の教室は何階ですか?』
『1階下です。この先の階段を使えば、すぐに教室のある階に出れますよ』
ほっとしてるのが判った。
ふと沸いた好奇心から、もう少し話してみたくなった。
『どこの教室に行くんですか? よかったら俺が案内しますけど』
大きな目が見開かれ、そして探るように見上げてきた。
彼女が警戒してることがすぐに判った。
そんなに怪しく見えるのだろうか?
まぁ、ここは普段はあまり生徒が行き来しない廊下だし。
温和に見える俺だけど、かなり背が高いから、小柄な人から見たら怖いのかもしれない。
『でも俺も用があるんで、逆方向だったら駄目ですけど』
笑って付け加えると、彼女の目が少しだけ和んだ。
どうやら、無害だと判ってくれたのかな?
偶然にも方向は同じだった。
何を話そうかと考えながら、彼女の歩調に合わせてゆっくり歩く。
窓の外を見つめながら、不意に彼女が呟いた。
『この学校は……とても広いんですね』
『最初の内は迷うと思いますけど、設備も整ってますし、慣れれば快適ですよ』
『……探しものをするには不向きだわ』
『探し者、ですか?』
彼女は答えなかった。
グランドに視線はあるのに、心はどこか遠くにあるようだった。
今度も沈黙を破ったのは、彼女だった。
『あれは何ですか?』
立ち止まって、グランドの一角を指す。
細い指が指した方向には、見慣れた建物があった。
『テニスコートです。他にも部室やトレーニングルームもありますよ』
『随分大きいんですね』
『部員が200人いますからね』
『……多すぎない?』
ちょっと眉を寄せて言う彼女が可笑しかった。
知らないから、そう思うんだろうけど。
『氷帝のテニス部は全国でも有名なんですよ』
『へぇ…。強いんですね』
『はい。全国レベルです。だから学校側がより強い選手を育てるために施設も
そのための指導にも力を入れてるんですよ。それで、200人の部員で校内で戦って、
正レギュラーの座を勝ち取った選手だけが、試合にでれるんです』
『競争率が激しそう』
『激しいですよ、実際。そうだ! 今度見学に来てくださいね。歓迎します』
『え?』
振り向いた彼女に合わせて、長い髪がふわりと揺れた。
『あなたテニス部?』
『はい。2年の鳳長太郎です。これでも正レギュラーなんですよ、先輩』
悪戯っぽく笑って言ったら、彼女の顔に花が咲く。
はにかむように、そっと目を細めて、穏やかな笑顔を向けてくれた。
『覚えておくね。あたしは、。色々ありがとう、鳳君』
そう言い残して、先輩は階段を下りて行く。
――春の陽のような人だと、そんな風に思った。
****
「やるやん、長太郎。ものすご好印象与えたやろ」
「だと思いますよ」
鳳は、よく知る人間にしか判らない策士な笑みを浮かべて頷いた。
「俺の予想からみて……その子、見学に来るんとちゃうか?」
「俺もそう思ってます。だけど、まだ来てくれないんですよね。人探しに忙しいのかな?」
「そういや、テニス部に「K」のイニシャルのヤツっていたっけ?」
漸く復活した宍戸が言った。
宍戸の言葉に忍足と鳳は、首をひねった。
「正レギュラーやったら……樺地の「K」と…」
「跡部景吾の「K」だよね〜」
唐突に割り込んできた声に宍戸はギョッと眼を見張り、そして振り返った。
ベンチでごろりと横になっているジローに、宍戸は溜息交じりで言った。
「ジロー、てめぇ覚醒してたのかよ」
「うん。さっき」
むくりと起き上がって気持ち良さそうに伸びをするジローの頭を軽く叩いて、忍足は続けた。
「跡部と樺地か。ちょお面白そうやな」
「できれば、部活中に来て確かめて欲しいですね」
「もしその子が来たら、絶対起こしてよ〜」
まるで何かの企画を楽しむかのような三人に、宍戸は不機嫌に呟く。
「……跡部の機嫌が悪くならないといいけどな」
「平気やろ。跡部やって自分に「K」つくんぐらい気づいとるやろうし。その内くると思っとるんやないか?」
「跡部さんなら十中八九気づいてるでしょう」
「俺もそー思う」
「……まぁ、厄介な事にならねぇならいいけどよ」
「おい! そこの馬鹿共!! いつまで休憩してんだ!!!」
噂をすればなんとやら。
跡部の怒声がコート内に響いた。
「さっさとコートに入りやがれ!!!」
「げ」
「やば」
「あ、ホントだ」
「…ふぁ、ねむ…」
凄まじい形相で睨む跡部を見て、彼らは急いでコートに戻った。
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