地獄案内

高野一巳



10 終わりがない地獄

「死とは本来そういうものなのさ。特に自殺の場合はね」 あの男の声が聞こえた。

モトムはあれほど憎んでいた男の声でありながら、心の底からの安堵感を覚えた。 誰かがそばにいるということはこれほどまでに心強いことなのか。 自分の弱さを改めて思い知った。 すっかり姿をあらわしたその男は続けた。
「死ぬということはすべてを失うことなのだ。死後の世界に残るのは残留思念だけだ。 死後の世界で自分を支えてくれるのは、生きていた時の記憶だけだ。 それはそのままに霊界の樹木の枝のように張り巡らされたような宇宙の次元ネットワークの 中に組み込まれ永久に保存されるんだ。 それは、宇宙が生まれて以来の時間的空間的すべてのものがつながりあい、1つになって 存在している。 それはユングの言う普遍的無意識にもつながるもので、そこに組み込まれることで、 生きている人たちとも深層でつながることができる。 さらにアカシックレコードにもつながり、宇宙そのものと一体になる。 死んで土に戻るという表現があるが、そのように俺たちは宇宙から生まれて、やがて宇宙に 還っていく。そして、次の命の1部になっていくんだ。 だが、そこに組み込まれるのには条件が必要なのだ。

人間は本来生まれてくる時に、一生分のエネルギーを分けてもらってうまれてくる。 そのエネルギーを完全燃焼できたものだけが、そこに組み込まれるのだ。寿命を全うするということだ。 しかし、病気や自殺や殺人などで、自分の意思とは関係なく、半ばで命を落とす者もいる。 それは生きている世界のどこかに間違いが生じたために起こってしまうことで、それは人間の寿命とは別の 個人の寿命であることが多い。 それは、生き残った人たちへの課題を与える使命だったものもいる。 彼らの不完全燃焼のエネルギーは生き残った者たちにリレーされるのだ。残った者はしっかりそれを引き継いでいかなくてはならない。それが供養になる。

いずれにせよ。不完全燃焼で死んだ人は、完全燃焼で死んだ人とは別のところに集められ、 何らかの方法で完全燃焼できるまでそこにいることになる。、生きている人の努力などで完全燃焼にいたる場合も多い。 それがいわゆる供養ということだ、仏壇や墓を祀るだけでは不十分だ。祀らなくても、本当の供養ができればいいのだ。 だが、形にばかりとらわれてそれで安心して、本当の供養ができていないことが多いのは嘆かわしい。 不完全燃焼で死んだ者はその分、地獄で苦しまなければならない。

ところが自分で命を絶ったものや、人の命を故意に奪ったものはそれらとはまた別の次元の地獄に幽閉されるのだ。 彼らは自ら、世界との関係を断ち切ったから、自らの修行が必要になる。その死後の修行の場がこの地獄なのだ。 それは当然、自分の意思とは関係なく不完全燃焼で死んだ人間とは、その修行の厳しさも全く違う。 この地獄は非常に苦しい。命を粗末にした罰を与えられ続けるのだ。

これは気の遠くなるような長い間続くが、決して、痛め続け、苦しませることが目的ではない。 罰を与えることで、自分の間違いに気付き、悔いて改める気持ちになることだ。 地獄の沙汰はお金があっても関係ない。自分の過ちに気付き、悔いて改める気持ちになれたものだけが、 仏様や神様の慈悲を受けることができる。許されることができるのだ。 神も仏も両方ここにはおられる。いつでもどこでも見ておられるのだ。これはあの世もこの世も区別がない」

モトムは、その男の熱弁に圧倒されていた。そのすべてを理解できたかどうかわからない。 でも、心の奥底のどこかにストンを納得できるような、大切な何かを忘れていたのを思い出したような、そんな気持ちが広がった。

「ここが最後の地獄だ。つまり、ここからまた最初の地獄に送り込まれることになる」 男は、モトムがそんな心の余韻にひたる暇も与えず、こう言った。
「8つめの地獄だ。なぜ8かわかるか。8の数字を横にしてみろ。無限の記号∞になる。メビウスリングとも呼ばれるが、 まさにエンドレスだ。永遠に地獄めぐりは繰り返されていくのだ。出口はない。苦しみは永久に続いていく。 これまでおれが案内してきた地獄を今度はお前ひとりで巡ることになるのだ。ひたすら孤独にその限りない苦しみを 受け続けなくてはならないのだ。お前が心から悔いて改めることができるまで、救われることはない。 人間にとってはそれはほとんど永遠だ。そして慣れることはない。」

モトムは心の底からの恐怖を感じた。またあの苦しみがいつ果てるともなく繰り返されるのか。終わりがない。 そう思うと心がすでに打ちひしがれたような気分になる。
「だが、ここには1つだけ救いがある。見るがいい」

モトムが男の促す方向を見ると無数の黒から白までのグラデーションに並んだ丸が、真黒な背景に浮かび上がっていた。 ぐるりを、穴がグラデーションを描きながら、取り囲んでいる。
「ここまでの地獄で改心した度合いでそのどの穴をくぐれるかが決まるのだ。 白が多くなるほど、次の地獄が若干ゆるくなる。しかし、油断すれば、また黒が濃い穴に戻されることもある」

しかし、モトムは希望のかけらも浮かばなかった。絶望の淵に立たされたような気分だった。 今回はお試しにすぎない。これから本格的に始まるのだと思うとそれだけで、もう耐えがたい苦しみが圧し掛かってきた。
「僕はどうせ、あの真黒い穴なのだろう」 モトムは疲れ果てた声で言った。
「お前はあの白い穴に進め」
「えっ」 モトムは自分の耳を疑った。
「通常、俺たちはあの真っ白い穴が現れることはない。 あれが用意されたということは、お前に生き返るチャンスが与えられたということなのだ」
「えっ」 モトムは自分の耳が信じられなかった。
「お前は自殺じゃなかった。 自殺の意志をもっていたが、あの瞬間、あの雲からもれる御光のような情景に気を とられて、自殺の意志の替わりに神を思う心があった。 そして、足をすべらせた。 神様は、それでお前に猶予を与えたんだ。 そして俺が案内役を命じられた。 お前が悔いて、心を改めなかったら、今度はひとりでこの8つの地獄を延々と繰り返すことになったはずだ。 過去に俺がお前をいじめて苦しめた経験も何度でも実際の痛み、苦しみがリアルにリピートされる。 こうしてお前と語れる俺はそこにはもういない。 でも、お前は俺の話しを聞き、気付いてくれた。おかげで俺も一段階上に上がれる。 お前には感謝しなくてはな。 あの光の輪をくぐったら、お前は生き返れるんだ。さあ、行くがいい」

モトムはその男のやさしい顔をはじめて見た気がした。とたんに心に熱いものがこみあげた。
「僕も君には感謝している。いろいろ話せてよかった。もう僕は君を許せるかも知れない。一緒に行こう」
「俺は駄目だ。俺は何も気付けず、悔いることも改めることもなく、あちこちでいじめや乱暴や 犯罪を繰り返し、とうとう殺人を犯してしまった。 そして、警察に追われる途中で交通事故で死んでしまったのだ。 いじめで、自殺に追い込んだこともあった。生前は自殺といじめの関連性が明らかでないと、おれは罪を免れたが、 ここでは殺人と同等に扱われる。 おれには猶予の余地はないんだ。永劫にこの地獄で苦しみながら、修行しなければならない。 俺はお前と話す中でいまごろ間違いに気付き、心から悔いて反省した。 しかし、死んでからではもう人生をやり直すことも改めることもできないんだ。 生きてさえいれば、道はある。。可能性があるんだ。 生きているから希望もある。今が苦しくても、幸福になれる日もくる。 死んでしまえば、何もかなくなる。楽になんかならないんだ。 永遠の苦しみがあるだけだ、まさにそれが地獄だ」

男はモトムの目をまっすぐ見た。何と慈しみに満ちた目だ。
「極楽や地獄は本当は死後の世界にあるのではない。 生きている「この世」にそれは存在するんだ。 人間は地獄と極楽の間を揺れ動いている。 生きている間に地獄と極楽の間のどこまでいけるか。 その結果がそのまま、死後に引き継がれ、 足りない修行を科せられるんだ。 生きている間に幸福になれたら、そのまま死後も幸福でいられる。それが極楽だ。 不幸のまま死んだら不幸が永遠に続く。これが地獄だ。 生きていてこそ、不幸であっても幸福になっていくことができるんだよ。 さあ、行くがいい。モトム。そして寿命が尽きるまで命を大切にして生き切れ。 そして幸福になってくれ。 俺のことを思ってくれるなら、俺の分まで生きて、俺の分まで幸福になってくれ。 そうすれば、俺も地獄での苦しみが少し軽くなる。供養になるんだ。 モトム、さあ行くがいい。そして生きるんだ」

モトムはその男に押し出されるように、光の輪をくぐり抜けた。 モトムは振り向いて彼を見た。
「ありがとう、むらき、さぶろう」 モトムはその男の名を思い出した。 光の輪が閉じられる瞬間、彼の目にモトムは涙を見たような気がした。


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