地獄案内

高野一巳



11 新たな旅立ち

モトムは目覚めた。素朴だが、清潔そうな天井が目にはいった。
「あっ、気がつきましたか」 女性の顔が覗きこんだ。
「気分はどうですか」
「だ、大丈夫です」

モトムは自分の体のすみずみに意識をやりながら言った。 ただ、動かしにくいが、痛みも違和感もない。 しかし、シーツの肌触りや、消毒液の匂いや、重力さえも感じた。 僕は本当に生き返ったのか。
「先生を呼んできますから、待っていてください」
「あ、あの、僕どうしたんですか」
「上流の方で川に落ちて流されたようですね。覚えていませんか」

崖から落ちたのを思い出した。 モトムは飛び込むつもりだったが、あの男は足をすべらせたと言った。 自分が地獄にいた時のことを思い出した。 あれは夢だったのか。いや夢ではない。むしろ、今こうしていることの方が夢のように思う。
「僕は死にかけたのですか」
「ええ、少し水を飲んでいて蘇生措置が必要でしたが、もう大丈夫ですよ。 拾った命、大切にしてくださいよ」 そう言いながら、看護師らしい女性は先生を呼びに言った。

しかし、モトムは自分が生き返ったことがまだ信じられなかった。 ここはまだ、地獄なのではないか。

白髪のやさしい笑顔の医師が、いろいろ調べてくれた。
「もう大丈夫だ。水もあまり飲んでなかったし、怪我もしていない。奇跡的だ。あなたは幸運だな。 体力が回復するまで、ゆっくりここで休んでいなさい」

川に流されているのを登山に来た人が見つけて、登山ガイドの人が助けてくれたそうだ。 モトムは助けてくれた人に心からお礼を言った。 看護士が、おにぎりとお茶をもってきてくれた。 ただ、白いごはんを握っただけのものだったが、こんなおいしいものがあるのかとモトムは思った。 何の変哲もない麦茶だったが、乾いた心身に沁み渡り、本当に生き返ったことを実感した。 モトムの目から涙がとどまることなく、大量にあふれ出した。 自分は生きているんだと実感したとたん、大きな喜びが心に湧きあがり、あふれだした。 モトムは自分が生きていることがこんなにもうれしいものだとは思わなかった。 息をしている。心臓が動いている。そんな当たり前のことがむしょうにうれしかった。 自分をつねってみた。痛い。痛いことがこんなにうれしいなんて。 何よりも、こんな喜び、うれしさを感じている自分がまたうれしかった。

そんなモトムを見ていて老医師は言った。
「それだけ食欲があればもう大丈夫だ。 君は運がいい。助かった命を粗末にするなよ」
「ありがとうございました」 モトムは心から頭を下げた。
「生きているとつらいことが多いものだよ。」老医師が言う。登山の準備もしていないモトムを見て、察したのだろう。
「お釈迦様は生きていることそのものが苦しみと言った。 その意味がわかるかい。 人間はもともとが不完全なんだよ。 生きていくためには食べなくてはならない。空気も水も必要だ。 寝なくてはならない。 生きていくために必要なものが欠けているから、補っていかなくちゃならない。 欠けたままだと苦しいからね。 それを補うために動きまわると、傷ついたり、疲れたりして、メンテナンスや休養が必要だ。 人間はうまくいかないことの方が多い。 よく知らなかったり、わからなかったり、できなかったりする。 どこかが間違っていたり、道を誤ったり、何かが足りなかったりするからだ。 失敗もよくする。間違いも多い。 それは人間がもともと不完全だからだ。だから、そこに苦しみが常にある。 でも、その苦しみを乗り越えて満たされたところには、喜び、幸福が待っている。 苦しみがあるからこそ、幸福があるんだ」

モトムはさっきのおにぎりのおいしさを思い出した。 老医師は続ける。
「生きることそのものが苦しみだけど、それを乗り越えることそのものが生きていくということだ。 生きていくことそのものが、幸福への道なんだよ。 生きてさえいれば、次がある。明日がくる。可能性がある。 生き抜いていくことにひたむきになっていれば、誰かが生きていくのに役立ってあげれば、 必ず、誰かが力になってくれる。君はひとりじゃあないんだ。 自分ひとりでどうしようもなくなったら、助けを求めていいんだ。 誰かがどこかで見ている。誰かがその声を聞いて応えてくれる。 あきらめてはいけない。生きている限り、必ず道はあるんだ」 頭が真っ白のその先生は笑顔をたやさず、やさしい口調でそう言ってくれた。

診療所の人たちはみんなにこやかで穏やかな顔をして、親切にしてくれる。 心あたたかな人たちだ。心の底から安心できる。 まるで、仏様のような人たちだ。 ここがやはり死後の世界だったとしても、極楽にちがいない。 モトムはていねいにお礼を言って、診療所の扉を開けた。

澄んだ青空が真っ先に目に飛び込んだ。 ゆったり浮かぶ白い雲、さざめく木々の葉っぱや草花、 楽しそうにたわむれる鳥たち、どれも眩しいほど輝いていた。 さわやかな風が吹きわたり、とても気持ちいい。

よし、とモトムは思った。 両親と弟の待つ家に帰ろう。 そして、心から謝り、ありがとうと言おう。 それから、自分が幸福になれる場所を探しにいこう。きっとどこかにある。 何があってももう負けない。あきらめない。そんな思いが心に湧きあがった。 モトムはまばゆいばかりの光あふれる世界に向かって、一歩を踏み出した。

       (END)


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