高野一巳
9 一切何もない地獄
「では次の地獄に案内しよう」 そう言った瞬間、その男も何もかもすべてが消えうせた。 モトムの目の前には、真の黒、真の闇と言おうか、 絶望的なほどに底のない、見通しのない黒がびっしりモトムのまわりを埋めて尽くしていた。すさまじい恐怖感が沸き起こる。 それはまるで、モトムの肌に張り付き、自由を奪うように、冷たく硬い氷にでも 封じ込められたようにも感じる一方で、広大な宇宙の真っ只中にポツンと 何ものにも支えられることなく、つながることなく、永遠に取り残されたような 底知れないわびしさ、寂しさが心にからみつき押しつぶし、凍てつかせる。 モトムは、その男の名前を呼ぼうとしたが、名前が思い浮かばなかった。 しかたなく「おーい」と思いっきり大声で呼んだ。つもりだった。 しかし声が出ない。あるいは出ているのに永遠の淵に吸い込まれてしまうのか。 モトムはまるで深海の底から、何とか浮かびあがろうとするかのように、 手足をばたつかせ、懸命にもがいた。 だが、何にもつかめない、何かにすがろうともがいても、 ただ空を切るばかりで、心を突き切るような虚しさが広がるばかりだった。 何の抵抗さえ、感じない。 モトムは何1つ感じないのを感じた。 ただ、モトムの意識がこの1点に、たった1つのくらげのように漂っている、そんな感じだった。 動きを感じるものも、目にも耳にも鼻にも口にも肌にもこわいくらいに感じるものがない。 モトムはまるで、自分の頭脳だけが、ホルマリン付けにされた標本のように、 深海のくらげのように、どうしようもない虚無の海底に浮かんでいるような気分になった。 光も暖かさも絶望的に皆無だった。 限りない暗さと冷たさだけがあった。 モトムはこれまでに経験のない想像を絶する深い恐ろしさと不安が 狂ったようにカオスとなって、心の底から湧きあがり、モトムを呑み込んでいった。 限りない孤独感がモトムをがんじがらめにし、心を切り刻むようだ。 それは、道具を使わない心の拷問のように、モトムの意識を極限をはるかに超えるほどにじわじわと痛めつけた。 モトムは悲痛な声なき声を叫びを上げ続けたが、そのすべては虚空にまるでブラックホールのように 吸い込まれていくばかりだった。 その闇は底知れない絶望感となって執拗にモトムにまとわりつき、モトムの心のすべてをまるで、獲物が蜘蛛に糸を巻きつけられるように からめとるのだった。自分という存在そのものが吸い取られ、完全に否定され尽くされていくようだった。 |