地獄案内

高野一巳



7 もうやり直せない地獄

再び、新しいシーンが立ちあがった。 目の前にいるのは自分だった。 モトムはうんざりした。
「まだ、僕の未来を見せられるのか」
「そうさ、いやなことがしつこく繰り返されるのが地獄だよ。 でも、今回はさっきの地獄とは少し違う。お前が生きてさえいればという設定は同じだけれどね。 地獄の苦しみは、どんなにあがいても報われることはない。 しかし、生きている時の苦しみは、人間のやりかたしだいで、そこから学び、幸福への新しい道を 開いていくことができる。変わっていくことができるんだ。 地獄は永遠に変わることができない。生きていても、問題を解決できなかったらいつまでも同じ苦しみが立ちはだかる。 お前も過去のいじめを引きずっていたから、職場でも同じような目にあうんだ。でも、考えようによれば、いつでも解決に立ち向かえるチャンスが与えられているということだ。

人間は生きていれば必ず、いくつかの道が前にあって、そこから1つの道を選んで進んでいく。 間違った道に進むことも珍しいことではない。 でも、間違いに気付いて、それを受け入れ、悔いて、改めていこうと真剣に取り組めば、 やり直しはいくらでもきくんだ。

これはもしもの世界だ。可能性の世界だ。 人間には生まれつき、天から、どんな困難も乗り越えて新しい道を拓いていく力が授けられている。 お前にも、もちろんあった。 ただ、お前はその存在も使い方も知らなかったのだ。でも、学べば誰でもできる。 ここでは、もしも、お前がその力を使っていたら、どうなっていたかを見せてくれる」

目の前のモトムは深く悩んでいた。
「僕は何でこんなに不運なんだ。何で何もかもうまくいかないんだ」 口は動いていない。心の声が聞こえるようだ。

それは、モトムが常日頃ずっと思っていたことだった。 あっち向いてもこっち向いても、壁に突き当たり、もうどうすることもなく、自殺を選んだのだ。 それしか道はないと思った。 そして、どうやって死ぬかばかり考え、死に場所を探したのだった。

「人間の意識は非常に限られている。範囲も狭いし、1度に1つしか見えない」 あの男の声が言った。
「お前の心が、死ぬことに焦点を当てたために、それ以外の情報は、目の前にあっても 見えなくなった。お前が立ち向かう道ではなく、逃げる道を選んでいたからだ。他に道がないと思い込み、決め付けて、逃げることだけを考えたからだ。 もし、お前が立ち向かう道を選んでいたら、目に入るものも違っていたはずだ。 よく見ていろ」
「でも、どうしたら僕が立ち向かう道を選ぶようになれたんだ?運命じゃなかったのか」
「運命とは、内的外的な要因で自分の選択範囲が狭まることだが、それでも選択肢がある。 お前の運命は1つだけじゃなかったんだ。どれを選ぶかはお前しだいだったのだ。考え方であったり、何かのきっかけであったりする。

将棋に「岡目八目」というのがある。勝負に没頭している当事者に見えない手が第三者には見えたりする。 またひらめき、インスピレーションなども、とことん考え抜いた末に、全く関係ないことをすることで起こったりする。風呂やトイレや髭剃り、夢の中という例はよくある。禅にも似たような考え方がある。 ユーモアなども、自分を客観的に距離をもって見るところから生まれたりする。

これ以上無理だと思った時は逃げることも大事だ。一旦全く関係ないところに目を向けることだ。 これは「逃げる」でも意味合いが違う。「逃げることだけを考える」はまだその問題に意識を向けている。そうではなく、問題自体を一旦頭からはずして、別のものに心をゆだねてみる。休むんだ。心をほぐして柔らかくすることを考えてみることだ。 これは決して、逃げてごまかしたり、紛らわせたりして問題を避け、見ないようにすることではない。ここを混同しがちなのだ。明日のためにここは無理をしないで休もう。それでいいのだ。 いったん、その場から離れてみることもいかも知れない。他の道があるかも知れないと知るだけで、視野がひろがる。別の視点をもてば、同じものでも見え方が違ってくる。今まで見えなかったものが見えたりする。アハ体験がそのいい例だ。

道を開くには、やはり出会いが大事だ。外に働きかけることだ。まず自分の本当の心に素直になってみろ。 もっとよくなりたいという心の底にある根本的な願いに素直に耳を傾けることだ。そもそも死にたいと思うのも、その裏に生きたいという強い願望があるからだ。生きたいという強い思いがあるのに道が見えないから死にたいと思うのだ。 でも、見えていないだけで道はあるのだ。

うまくできなかったら、うまくできるようになりたいと誰しもが願うはずだ。 その思いに素直になれば、そうなる道を探索しようという欲求が生じる。他にも道があるはずだと思ってみる。 すると、外に広く、目も耳も心も自然に開く。 そして、いろんな人の話や本などに触れることだ。彼らが師となってくれる。 それらが語ってくれるものに素直に耳を傾ける。 すると、行き詰ったところを打開して新しい道を拓いていくにはどうしたらいいか、 おぼろげながらにも見えてきたりする。 漫画やゲームの中にさえ、そのヒントを見つけることができる。 自然界や動物や赤ん坊が教えてくれることもある。こんな見方もあったのかと気づかされる。 小さい子供を見ろ、ほとんどがとても素直で、好奇心が旺盛だ。それが人間の本来の姿なんだ。誰でもいつでも素直になれる素質があるんだ。誰にでも常にチャンスがあるんだ」

「いやだ。いやだ。こんな苦しい状況から早く抜け出したい。 どうししたら、幸運を呼べるようになるんだ。どうしたら、うまく事を運べるようになるんだ。 望んだようになっていくことができるんだ。どうしたら、幸福な人生にしていけるんだ」 目の前のモトムの声だ。
「僕だって、ずっとこう思ってきたんだ。でも、いくら探してもなかったんだ」
「お前はすぐに効果が出るものや、楽にできて成果が出るような虫のいいことを考えたのではないのかな。 あるいは、自分の頭の中だけでぐるぐる考えたのかも知れない。 実は、天より生まれつき授けられた、どんな困難からも乗り越えて新しい道を拓き、幸運を招き、本当の幸福を 呼びよせる力とは、考える力のことだよ。 でも、考えるには、多くの材料がいる。材料が乏しければ、いくら考えても、乏しい結果しかうまない。 また、苦しい思い、いやな思い、つらい気持ちにばかり意識がいくあまり、そこから逃げること、 つまり、誤魔化したり、まぎらわせたり、避けたり、ただ遠ざかろうということばかり考えたのかも知れない。 だから、問題が何か、足りなかったものは何か、何が間違っていたのかなどを考えず、 したがって、その解決策を探すこともない。

これではいつまでたっても問題は解決しないで、いつもいつも同じような状況でつまづき続けることになる。 いつまでもうまくいかないのは当然のことだ。 本当に問題に取り組んで考えようとしていないのだから。 自分がきちんと問題と向き合わないために、いつまでもうまくいかないのに、 自分は何をやっても駄目なんだとか、どうせ自分には運がないんだ。と思ったり、果ては、自分がうまくいかないのは 時代や社会や親のせいにして、それらを憎んだり、攻撃したりすることもある。 何をやってもうまくいかない。あっちむいてもこっち向いても、壁にぶつかるばかり、これではいやになるのも 当然だが、すべて、自分が問題に向き合わなかったために招いたことだ。 誰も自分の苦しさをわかってくれない。誰も助けてくれないと思うかも知れない。 それだって、自分から何もしようとせず、誰かが助けてくれることを待っていたり、 理解してもらうことをただ受身で待っていたりしたからじゃあないのかな。

自分で何とかしようと頑張っていれば、必ずそれを応援する人や手を貸してくれる人がいるものだ。 自分のことを理解してもらいたいのなら、自分からアピールしたり、助けを求めていくことも大事だ。 そういうこともせず、ただ楽な道ばかり探すことに考える力を使っていたんじゃないかな」

モトムは何も言い返せなかった。 そんなことはない、という思いとそうだったのかも知れないという思いがモトムの心の中でひしめきあった。

「とにかく、人間はもともと不完全なものだ。 考えるにも材料が不足していることの方が多い。 自分の力で何とかできるなんてのは思い上がりだ。 まずは、何とかここから抜け出したいという自分の切実な思いに素直になって、 自分を救ってくれる言葉や考え方を探しにいくことがいいかもしれない。彼のように」

目の前のモトムは、悩んだ末に、どうしても答えが出て来ないので、 ネットや本屋を巡り、さまよって、答えを探しはじめたのだった。 まさにわらにもすがるような一生懸命な思いがモトムにも伝わった。

ある本屋に立ち寄った時、レンタルDVDの紹介POPが目にはいった。 その本屋は大きく、レンタルDVDのコーナーも併設していたのだった。 モトムは、映画が好きだった。 自由のない地獄の時、地獄のモトムが苦役にあえいでいる前で、 スクリーンの中のモトムは存分にネット配信の映画を楽しんでいた。 あれは、まさにモトムの夢の1つだったのだ。 実家にいた時は、DVDでも借りようものなら、 遊んでないで勉強しろと言われ、家を出てからはお金も暇もない。

モトムの目の端でとらえ、注意を引いたそのキャッチコピーは 「あきらめずに立ち向かう勇気」だった。 紹介していたのは、2010年のリメイク版の「ベストキッド」だ。 ジャッキー・チェンの映画が好きだったこともあって、興味をもった。 もしも、モトムが答えを探そうとしないで、逃げることしか考えていなかったら、目に入っても関心を持たなかったかも知れない。

そのモトムは、「ベストキッド」を見た。 その中で、主人公のドレにカンフーを教えていたジャッキー扮するハンという男が 過去に自分のせいで、家族を亡くしたことでずっと自分を責めている場面があった。 そこをドレに救われた時、ハンは、 「人生のどん底にある時、そこから這い上がるか、這い上がらないかは自分しだい」 ということをドレから教わったと言った。 クライマックスでドレが窮地に陥った時も、その言葉が鍵となる。 「勝ち負けは関係ない。全力でぶつかれ」ハンは言った。 「集中しろ」 心を静めて、まるで鏡のように映る水面のようなおだやかな平常心をもてば、 自分も相手も自在に動かすことができることを教えるところもあった。
「おだやかなのと、何もしないのとは全く違う」とも言った。

モトムはそれを見て、少し力が湧き、問題から逃げてばかりいては駄目だということ。 逆境から這い上がるのも、いつまでも苦しむのもどちらを選ぶかは自分しだいだということ。 立ち向かう勇気、どんなに苦しくても、くじけず、あきらめずに立ち向かうことの大切さがわかったが、 依然として、どうしていいかわからなかった。

集中しろ。 今の自分を追い詰め、苦しめているのは何かを考えてみた。 まず、頭に浮かぶのは、自分に対する自信のなさだった。 何をやってもうまくいかない。どうしていいかわからない。 トラウマになっている過去のいじめ、家族との確執、 過去や周囲に原因を求め、それのせいにして責めてみても何も解決しない。 変わってくれるわけもない。 そこからいつも出てくる答えは、自分はどうせ駄目なんだということだった。

集中しろ。 今の自分を追い詰め、苦しめているのは何かを考えろ。目前にあるものを考えろ。 今、自分ができないこと、うまくいかないこと。つらいこと。苦しいこと。いやなこと。 過去の原因や犯人さがしよりも、今現在、具体的に自分の手足にからんでいるものを考えろ。 何ができないのか。どうしたいのか。どうなりたいのか。

集中しろ。 たくさんの問題や悩みがあった。モトムは書き出してみた。 今もっとも目前の問題と向き合うこと。 1つを選んで集中する。今一番優先すべき問題に 集中しろ。今一番抜け出したいのは劣悪な労働環境だ。 それに対して、今の自分のできることは何なのか。 そのモトムはその答えを求めて、再び外に飛び出した。

再び、訪れた本屋で 「ひとりで悩まないで」というタイトルが目についた。 開いてみると、「あなたが行き詰ったら、誰かに相談しなさい。 ひとりの力ではすぐ限界になっても、誰かの力を借りれば、 あなたの力は何倍にもなる。あなたは決してひとりじゃない」と書かれていた。 友達でも親でも、先生でも、信頼できる人がいれば、話しなさい。話すだけでも気持ちが楽になるという。 でも、モトムにはそんな人がいなかった。 そんな人のために、全国のあらゆるジャンルの相談できるところを収録している本だった。 宗教も救いになることも書いてあったが、心が弱っているところに付け込む悪徳なものもあることを 注意しなければならないともあった。 その中に、劣悪な労働環境の相談というのがあった。
「勝ち負けは関係ない。全力でぶつかれ」
「頭をからっぽにして集中しろ」ハンの言葉が頭に響く。

どうなるかわからない。やらないで後悔するよりも、やって後悔する方がずっといいという言葉を思い出した。 駄目でもともと、自殺して死ぬ覚悟があるのなら、当たって砕けろ! そのモトムはそんな気持ちになっていた。 彼は強い決意を胸に電話したのだった。 まさに背水の陣という悲痛なほど一生懸命な思いが見ているモトムにも伝わった。 シーンはそこでフェイドアウトした。

モトムは、希望の光に満ちはじめた場面が、絶望の黒に塗りつぶされたように感じた。
「これをきっかけに、あのモトムは1つの転機を得て、新しい道に踏み出していくんだ」 あの男の声だ。
「お前だって、これからどんなものに出会って、やり直すきっかけをつかむかわからないんだぞ。 生きてさえいればの話だがな。生きているということは、可能性があるということだ。 何が起こるか、生きてみないとわからない。だから面白いんだ。 いいことばかりではない。最初はいやなこと、悪いことばかりにぶつかることも多い。 しかし、そんなうまくいかないこと、わからないこと、できないことを うまくいくようにしていく、わかるようにしていく、できるようにしていくところに喜びを見いだせるようになる。 その力が「考える」力だ。これを正しく使えるようになると、これがまた楽しくなる。

困難に出会うと燃えてくる人もいるんだ。できるようになっていく喜びに目覚めた人だ。 それは特別な人だけがなれるのではなくて、うまくいかなくてもあきらめずにぶつかっていき、 成長できた者が手にできる特権なのだ。お前もその気になれば、手にできたんだよ。 もちろん、生きてさえいればだ」

「生きてさえいれば」

その男は、モトムの心に突き刺さる言葉をこれでもかとしつこく連発し、楽しんでいるようだ。 モトムは自殺したことを心から後悔した。しかし、もう遅い。深い絶望が黒く濃い霧のように モトムの心を覆っていった。


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