地獄案内

高野一巳



6 永遠に幸福になれない地獄

突然、周りの風景が変わった。 明るい。陽光が降り注いでいる。 上を仰ぐと、青い空と白い雲が見える。 風にそよぐ木々も見える。 2度と見ることができないと思っていた、自分の生きていた世界の風景だ。 しかし、太陽の暖かさも、さわやかな風の感触もなかった。
「もしかして、霊となって現世に戻ったのか」
「残念ながらそうじゃない。これは未来の姿だ」 あの男の声だ。
「未来?」
「あそこでこそこそ隠れている男を見ろ」

近づいていくと、そこにいるのは自分だった。 手に何か持って、そわそわと落ち着かないようすだった。 向こうから女性が近づいてきた。 見知らぬ女性だったが、モトムの心がキュンと痛んだ。 モトムの好きなタイプだった。 もうひとりのモトムが女性に駆け寄った。
「やあ」
「あら、まだ帰っていなかったの?」
「うん、ちょっと忘れ物。あのう、シミズさん、こんなチケットが偶然手に入ったのだけれど、 よかったら一緒に行きませんか」

相手の女性は一瞬とまどったが、そのチケットを見て驚き、 「まあ、私の好きなもの、よく手に入ったわね」 チケットともう1人のモトムと見比べるようにして、いたずらっぽく笑った。
「行ってあげてもいいわよ」
「えっ、本当に!」

そのモトムは全く有頂天を絵に描いたようなものだった。 幸福の絶頂感を味わっているのが手にとるように伝わってくる。 こんな思いを味わってみたかった。モトムは心から思った。 しかし、そう思ったとたん、そのシーンがまるで砂で作られていたかのように 崩れ去っていった。 御馳走を前に据えられ、今まさに口にしようとしたとたんに奪われるようなものだった。

再び、違った風景がモトムの周りに立ちあがった。 そこは海岸だった。夕日が沈もうししている。とても美しい風景だった。
「あそこに見える2人をよく見てみろ」

大きな石の上に腰かけて語らう男女の姿があった。 よく見ると自分ではないか。女性はさっきのシミズさんだった。
「だからさあ、これからは僕がずっとそばで支えてあげようと思う」
「えっ、それってプロポーズなの?」
「うん、いちおうそのつもりなんだけど」
「いやよ」
「えっ」
「つもりじゃいやよ」
「えっ、ああ、ごめん。結婚してください。きっと幸せにするよ」
「絶対よ。約束よ」女性はいたずらっぽく笑った。なんとチャーミングな笑顔だ。 2人は満面の笑顔で抱き合った。

何のことはない。モトムのプロポーズの場面だった。 もちろん、見ているモトムには経験のないことだ。 しかし、そのモトムにとって、それは至福の瞬間なのだろう。 どんな苦労があったか知れない。 でも、ようやく幸福の花が開いた。 そんな心からの喜びがここで見ているモトムにも押し寄せてくるようだった。 だが、このシーンも、その香りを嗅ぐ寸前、さらさらの砂が手からこぼれ落ちるように、崩れ去った。

「これらはいずれもお前が生きていれば、実現できた場面だ。 お前が自らその道を絶ち切ったのだ」
「どれもこれもいいことばかりじゃないか。こんなことはありえない」
「いや、これは確かにいいところだけをピックアップしたハイライトだが、 すべて、お前が自殺しなければ歩んだであろう未来から編集したものだ。 決して、創作したものではない。 生きてさえいれば、これほど多くのいいことに出会うことが出来たということだ。 まだ2つのシーンしか見ていないがまだいっぱいあるぞ」
「僕に自殺以外の道があったというのか。僕はもう死ぬしか道がないと思ったんだ」
「人間には常に少なくとも2つの道がある。逃げる道と立ち向かう道だ。 お前は逃げる方の道を自ら選んだのだ。 目先の楽に流されたに違いない。死んだら、すべてがご破算になって、楽になると思ったのだろう。 確かに、逃げるが勝ちという場合もある。潔くあきらめた方がいい場合もある。 しかし、これらは今は無理だからと一旦退却して、次に立ち向かっていく備えをするためだ。 これは本当の逃げでも、負けでもない。

生きている限り、必ず道は用意されているんだ。 お前はそれを探すのをあきらめただけだ。自分で投げ出した。 神は乗り越えられない試練は与えない。 これは本当だ。学ぶ機会を与えてくれているんだ。 そこには必ず、成長して新しい道を開くチャンスがある。 今は苦しくても、生きてさえいればそれを乗り越えることができる。 神様は人間すべてにそれできる力を授けてくれているんだ。 生まれながらにその力を持っている。 なかなか乗り越えて幸福になれないのは、その力の使い方を知らないからだ。 試練はそれを学ぶチャンスなんだ。 これが苦しいからと逃げてばかりいては、せっかくの宝も持ち腐れになってしまうんだ。 この地獄では、生きてさえいれば実現できた幸福なシーンばかりが これでもかというほど、あらわれては、お前の手からすり抜けていく。 もう少し味わうがいい」

それから、モトムはただ為されるままに、あらわれたシーンに感情移入し、 この上もない幸福感をつかみかけたとたんに、目の前からかっさらわれるという ことが延々と繰り返された。 結婚式、初夜、子供の出産、家族の楽しいひととき、思わぬボーナスで出かけた家族旅行。 仕事で認められたこと。友人たちとの温かで愉快な交流、新しい仕事の成功、いろいろな遊び、楽しみ、 数えきれないほどの多くの幸福の瞬間があった。

どれもそんなに特別なことではなかった。それだけに十分ありうることだった。 だが、そのすべてに触れることも感じることもできない。 虚しさと哀しみがますますひろがり、モトムをどこまでもいたぶり続けた。
「もうやめてくれ。頼むからやめてくれ」

しかし、その嘆願もむなしく、また新しいシーンが始まった。 そこは病室のようだった。大勢の人がベッドを囲んでいた。 ベッドに寝ているのはすっかり年老いたモトムだった。 ベッドの表記を見ると、98歳の文字が見えた。
「僕の寿命は本当はこんなにもあったのか」

モトムはこれが自分が自殺しなければ迎えることができた臨終のシーンだとわかった。
「こんなにもたくさんの人が見送ってくれるのか」

そう思うだけで、モトムは何だか感動してもう涙が出てきた。 年老いたモトムがそばの女性に話しかけた。 それはあのシミズさんだった。 一生連れ添ってくれたんだ。 また目から涙があふれ出した。 年老いたモトムが弱よわしい声を振り絞るように言った。
「ジュンコ、今まで本当にありがとう。お前のおかげで本当に幸せな一生を送ることができた。 本当にありがとう」 それだけのことを力を振り絞り、振り絞り言った。
「私の方こそ本当にありがとう。たくさん喧嘩したけれど、あなたとの結婚を後悔したことはなかったわ」
「タモツ、メイ、おかあさんをよろしく頼む」

2人の子宝に恵まれていた。 彼らもすでに結婚して子供もいた。 僕にも生きていれば孫が出来たんだ。
「大丈夫だよ。とうさん。安心しなよ」
「そうよ。みんなついているのよ。安心して。今までありがとう。」
「あなた、みんなを見守ってあげてくださいね」

ベッドの年老いたモトムはもう力がなかったが、それでも満足そうに何度も何度もうなずいていた。 楽しい日々が走馬灯のように思い出されているのだろうか。 この男はこんなにも楽しい思い出をもって、死んでいくのか。 モトムはうらやましくてたまらない思いに駆られた。 それをもう2度と味わうことができないんだ。 そう思うとまたもや、深い哀しみ、虚しさに自分のすべてを押し流されてしまいそうだった。 モトムはすっかり打ちひしがれてしまった。
「2度とこんな世界に戻れないと思うと悲しいだろう。苦しいだろう。 でも、お前がそれを選んだのだから、しかたない。自業自得ってものだ。 これらのシーンは、お前が自殺しなければ味わうことができた未来のお前のシーンなのだよ」


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