高野一巳
6 永遠に幸福になれない地獄
突然、周りの風景が変わった。
明るい。陽光が降り注いでいる。
上を仰ぐと、青い空と白い雲が見える。
風にそよぐ木々も見える。
2度と見ることができないと思っていた、自分の生きていた世界の風景だ。
しかし、太陽の暖かさも、さわやかな風の感触もなかった。 近づいていくと、そこにいるのは自分だった。
手に何か持って、そわそわと落ち着かないようすだった。
向こうから女性が近づいてきた。
見知らぬ女性だったが、モトムの心がキュンと痛んだ。
モトムの好きなタイプだった。
もうひとりのモトムが女性に駆け寄った。 相手の女性は一瞬とまどったが、そのチケットを見て驚き、
「まあ、私の好きなもの、よく手に入ったわね」
チケットともう1人のモトムと見比べるようにして、いたずらっぽく笑った。 そのモトムは全く有頂天を絵に描いたようなものだった。 幸福の絶頂感を味わっているのが手にとるように伝わってくる。 こんな思いを味わってみたかった。モトムは心から思った。 しかし、そう思ったとたん、そのシーンがまるで砂で作られていたかのように 崩れ去っていった。 御馳走を前に据えられ、今まさに口にしようとしたとたんに奪われるようなものだった。 再び、違った風景がモトムの周りに立ちあがった。
そこは海岸だった。夕日が沈もうししている。とても美しい風景だった。 大きな石の上に腰かけて語らう男女の姿があった。
よく見ると自分ではないか。女性はさっきのシミズさんだった。 何のことはない。モトムのプロポーズの場面だった。
もちろん、見ているモトムには経験のないことだ。
しかし、そのモトムにとって、それは至福の瞬間なのだろう。
どんな苦労があったか知れない。
でも、ようやく幸福の花が開いた。
そんな心からの喜びがここで見ているモトムにも押し寄せてくるようだった。
だが、このシーンも、その香りを嗅ぐ寸前、さらさらの砂が手からこぼれ落ちるように、崩れ去った。 生きている限り、必ず道は用意されているんだ。 お前はそれを探すのをあきらめただけだ。自分で投げ出した。 神は乗り越えられない試練は与えない。 これは本当だ。学ぶ機会を与えてくれているんだ。 そこには必ず、成長して新しい道を開くチャンスがある。 今は苦しくても、生きてさえいればそれを乗り越えることができる。 神様は人間すべてにそれできる力を授けてくれているんだ。 生まれながらにその力を持っている。 なかなか乗り越えて幸福になれないのは、その力の使い方を知らないからだ。 試練はそれを学ぶチャンスなんだ。 これが苦しいからと逃げてばかりいては、せっかくの宝も持ち腐れになってしまうんだ。 この地獄では、生きてさえいれば実現できた幸福なシーンばかりが これでもかというほど、あらわれては、お前の手からすり抜けていく。 もう少し味わうがいい」 それから、モトムはただ為されるままに、あらわれたシーンに感情移入し、 この上もない幸福感をつかみかけたとたんに、目の前からかっさらわれるという ことが延々と繰り返された。 結婚式、初夜、子供の出産、家族の楽しいひととき、思わぬボーナスで出かけた家族旅行。 仕事で認められたこと。友人たちとの温かで愉快な交流、新しい仕事の成功、いろいろな遊び、楽しみ、 数えきれないほどの多くの幸福の瞬間があった。 どれもそんなに特別なことではなかった。それだけに十分ありうることだった。
だが、そのすべてに触れることも感じることもできない。
虚しさと哀しみがますますひろがり、モトムをどこまでもいたぶり続けた。 しかし、その嘆願もむなしく、また新しいシーンが始まった。
そこは病室のようだった。大勢の人がベッドを囲んでいた。
ベッドに寝ているのはすっかり年老いたモトムだった。
ベッドの表記を見ると、98歳の文字が見えた。 モトムはこれが自分が自殺しなければ迎えることができた臨終のシーンだとわかった。 そう思うだけで、モトムは何だか感動してもう涙が出てきた。
年老いたモトムがそばの女性に話しかけた。
それはあのシミズさんだった。
一生連れ添ってくれたんだ。
また目から涙があふれ出した。
年老いたモトムが弱よわしい声を振り絞るように言った。 2人の子宝に恵まれていた。
彼らもすでに結婚して子供もいた。
僕にも生きていれば孫が出来たんだ。 ベッドの年老いたモトムはもう力がなかったが、それでも満足そうに何度も何度もうなずいていた。
楽しい日々が走馬灯のように思い出されているのだろうか。
この男はこんなにも楽しい思い出をもって、死んでいくのか。
モトムはうらやましくてたまらない思いに駆られた。
それをもう2度と味わうことができないんだ。
そう思うとまたもや、深い哀しみ、虚しさに自分のすべてを押し流されてしまいそうだった。
モトムはすっかり打ちひしがれてしまった。 |