地獄案内

高野一巳



5 全く自由がない地獄

「どうだった?」

あの男の声とともに、壮絶な痛みとも熱さともわからない感覚が、まるで幻だったかのように消え失せた。
「もう、いやだ。あんな経験は2度としたくない」
「あいにくだったな。これが始まりだ。この地獄にあるのは、痛みや苦しみ、怒りや憎しみばかりだ。 生きている時なら、味わえる可能性のある、おいしいもの、女の子との天に昇るようないいことも、 深い安眠も、ここには皆無なのだ。死んでしまったら、もう2度と味わうことがかなわない。 生前にためこんだ感情がすべてなのだ。 地獄にくる連中は結局、マイナスの感情ばかり、心にため込んでいるってこった。 そんな連中の快楽なんぞ、目先の快楽や得などの悪魔の目くらましにすぎない。 一時的な薄っぺらいものさ。 一時に天にも昇る快楽が一転、奈落の底というようなことが多い。 目先のことしか見えていない。

食欲、性欲、睡眠欲、さまざまな欲望は苦しみも生むが、多くの快楽も与えてくれる。 しかし、死んでしまえば、2度と味わえない快楽だ。 生きていればこそ、味わえる快楽だ。 この地獄はお前自身が、こうであったらいいなとずっと心の中にあったものが 裏返ったものだから、おいしいものや絶世の美女とのセックスがお前の考えていた最高の快楽だったわけだ。

しかし、人間の本当の快楽、幸福は、そんなちゃちなものじゃない。 もっともっと素晴らしいものだ。お前がまだ知らなかっただけだ。 そして、天は誰にでも例外なく、それをつかむことのできる力を生まれつき授けてくれているのだ。 お前も生きてさえいれば、そんな幸福を実現する可能性が十分あったのだ。 自ら命を絶ったお前には、もう救いはない。自分で自分の道を断ち切ったのだ。 あきらめろ。すぐあきらめるのがお前は得意じゃなかったのか?」

モトムが言い返そうとしたとたん、周りのシーンが変わった。 気がつくと、鉄格子のはまった檻の中に閉じ込められていた。 あの男の姿が見えない。 まるで棺桶のように狭く身動きがとれない。 それだけでも息苦しくパニックになりそうなのに、 その上、手足には鎖につながれ、その先には大きな鉄球のようなものがあった。 体が思うように体動かない。
「これは何なんだ」
「さあ、しっかり働け」
あの男の声ではなかった。

見ると檻が広がり、同じ檻の中に恐ろしい形相の鬼がいた。 赤鬼だ。筋肉隆々のボディビルでもやっているような逆三角形の体型だ。 絵本で見たような虎皮のパンツをはいている。 ちじれた金髪の上に鋭い角が生え、口には牙を覗かせ、身をすくませる、 心の奥までえぐり取られ、奈落の底まで引きずり込まれるような恐ろしい目で睨みつけられた。 モトムはまるで、絶対零度の手で胆を鷲掴みにされたような感触を覚えた。 容赦がない。手足がモトムの意思に関わらず、動き出す。

重い石をかついで、坂を登って運ぶ苦役だ。 かつて外国の映画で見た地獄のようすに似ていた。 苦しい思いをして運び上げても、運び上げたとたん、石は元の位置に戻ってしまう。 まったく、無益な労働だ。働いても働いても、何も得るものがない。 しかし、だからといって、働かなければ、鞭を当てられる。

モトムは思った。 これは生前に働いていたところと瓜2つだ。 働けど働けど、安月給で、生活は全く楽にならない。 それなのに、さんざん罵倒され、成果を上げなければ、よけいに苦しい状態に追いこまれる。 まさにあいつらは鬼そのものだったに違いない。 僕は生きながらに地獄にいたのか。 それが、死んでからも延々と続けていかなくてはならない。疲れても休ませてもらえない。 もう死ぬこともできない。地獄には終わりというものがない。自由というものがない。 モトムの心を絶望が蝕み始めた。

それまで、真っ暗だった檻の外、鉄格子の向こうが急に明るくなった。 まるで、何かの映像がスクリーンに映し出されたようだった。 そのスクリーンに一人の男が映っていた。 よく見ると何とそれは、年をとったモトムのようだった。 それはこちらで苦しい思いをしているモトムとは裏腹に、うれしそうな笑みを浮かべ、 のんびりと何かを楽しんでいるようすだった。 壁の前に何か映像が浮かんでいる。妙に立体感のある映像だった。 そう、スクリーンの中のモトムは、眼鏡なしでもリアルな映画の3D映像を楽しんでいたのだ。 DVDではない。アイパッドのような端末があれば、ネットを通じて、映画や本などもいつでもどこででも楽しむことができるのだ。

苦役をマンツーマンで見張られ、片時もさぼることのできないモトムの前で、これ見よがしに スクリーンの中のモトムの優雅で穏やかな快適な暮らしぶりが次々に映し出される。

60歳くらいに見える彼の暮らしぶりは贅沢ではなかったが、生活に困ることなく、悠々自適だった。 十分豊かで、ゆとりがあった。夫婦で毎日のお茶の時間を楽しみ、ショッピングを楽しみ、 また、それぞれの楽しみに没頭するのだった。 好きなことばかりやっているように見える。 実際、彼は自分の得意な好きなことをやって、生活の糧を得ていた。 誰も彼が好きなことばかりするのをとがめるものはなく、家族も社会の人たちも むしろ、それをバックアップしてくれているのだった。 モトムは妻とつつましく暮らしていたが、たびたび旅行やお出かけを楽しんでいるようだった。 モトムは今では在宅で気ままに仕事をして生活していた。 ネットが発達しており、子供たち家族や友人たちともいつでも、そばにいるように話しができる。 食事も寝るのも何もかもが楽しそうでうれしそうだった。

苦役を強いられるモトムには、それは嫌みかあてこすりのように思えて、むしょうに腹が立ってくるのだった。 向こうが笑えば笑うほど、こちらは惨めな気持ちになっていく。泣きたい。くやしい。うらやましい。 モトムは、石をかついで坂を登りながら、吐き出すように嘆くのだった。 地獄とは何と過酷だ。身体的に過労死を何度でもしてしまうほどにくたくたぼろぼろにしたうえに まだ飽き足らず、心まで、これでもかというほど踏みつけ痛めつける。

「あのいかにも幸福そうなお前の姿は決して絵空事ではないぞ。 お前が生きていれば、やりかたしだいで到達することのできた1つの姿だ」
「生きてさえいれば、あんなにもいい思いをすることができたのに、か。 死んでしまったお前には2度とああなることはできない、ということだな」 モトムは吐き捨てるように言った。

あの男があらわれ、檻も鎖も、あのスクリーンも消えた今も、 モトムの心は責めさいなまれているようで、苦しくてしかたなかった。
「悔いろ、悔いろ、生きていれば、悔いても、、改めていくことができる。 死んでからではもう遅い。 何度でも言うぞ。 生きていれば、今は苦しくても、自分で進む道を選べるし、自分の意思で変えていくことも可能だ。 そして、苦しみから学ぶことで、新しい道が開けるばかりか、成長もできる。 成長するということは、壁にぶつかった時、どうしたらそれを打ち破れるかという知識や知恵や技術を 身につけていくということだ。 そうすることで、次に同じような壁にぶつかっても、ノンプロブレムでくぐり抜けられるようになる。 つまり、それだけ自由度が高まっていくということだ。 そうした、うまくいかなかったり、失敗したり、挫折して苦しいことから、逃げずに立ち向かって 戦うことを多く重ねて続けていくことで、まさに戦わずして勝つ状態に達することができる。

孔子は「七十にして、心の欲するところに従いて矩(のり)をこえず」と言った。 自分の欲するまま、やりたい放題自由にふるまっても、人間としての道や天地自然の理に反することを しないために、本当の幸福を自分の手元に置いておくことができるということだ。

これは決して聖人君子でなければ達することのできない境地ではないんだよ。 誰にでもその可能性がある。 そして、今の時代、昔より、多くの人がそれに手の届くところまできている。 もちろん、これは究極の目標だ。なかなか達することはできない。 しかし、全く不可能じゃない。それどころか、誰にでもその道は用意されている。 ただ、それを目指して、どれほど真摯に歩んでいくかどうかだ。それは自分自身が決めることなのだ。

うまくいかないのを、時代や世間や親や誰かやもののせいにする者が多いが、 時代がどうであれ、世間がどうあれ、社会がどうあれ、親がどうであれ、要は自分しだいなのだ。 全く同じ逆境にいても、そこから聖職者になるものもいれば、犯罪者になるものもいる。 これは素質でも遺伝でもない。考え方の問題なのだ。生まれつきの悪人なんていない。 赤ん坊はすべて例外なく、穢れがない。

お前にも、十分、スクリーンの中のあの憎らしいくらいに幸福なお前になれる可能性があったのだ。 お前も生きてさえいれば、どこまでも自由を追って実現していけた。本当に楽になっていけたんだ。 しかし、死んでしまっては、それもかなわない。それも、自分で命と未来の可能性を断ち切るとは、何と馬鹿なことよ。 まして、地獄に落ちれば、自由のかけらも許されないんだ」

モトムは耳を塞ぎたい気分だった。 「生きてさえいれば」、その言葉を聞くたび、モトムの心に槌を奮って杭(悔い?)が打ち込まれるようだった。 心に錨(怒り?)がくくりつけられたように、暗く冷たい絶望の深海に引きずり込まれていく。


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