地獄案内

高野一巳



4 2度と喜びを味わえない地獄

次に連れてこられたところは繁華街のようだった。 まるで現実世界のような臨場感がある。 賑やかだし、明るい。人通りも多く、笑い声さえ聞こえる。 生き返ってもどってきたような錯覚を覚える。
「ここはどこだ」
「ここには喜びがいっぱいあるぞ。存分に楽しめ」

店にはうまそうなものがいっぱい並んでいる。 モトムは猛烈に腹が空いてきた。
「これを食べることができるのか」
「やってみろよ」
「どうすればいいんだ」
「本能のままに手でつかんで食べればいいんだ。ここにはお金は通用しない。 地獄の沙汰も金次第というのは、金ですべてが手に入ると思っている人間の愚かしさを揶揄した言葉だ」
「揶揄?難しい言葉を使うな」
「これでも大卒だぞ。おやじが裏で手をまわしてもらったおかげでな。さんざん遊ばせてもらったがな。 揶揄とは笑いものにするという意味だ。地獄でも金さえあれば何とかできると思っている人間を嘲笑っているのさ。 金なんて、人間が勝手に自分たちの都合で作った決めごとにすぎない。ここでは何の効力もない。 金持ちであろうが、貧乏人であろうが、権力者であろうが、死んだら同じ一人の裸だ。同じ苦しみが与えられるんだ」

モトムは男の言葉を最後まで聞けなかった。 すさまじいほどの食欲が湧きあがってきたのだった。 思わず手を伸ばしていた。血のしたたるような分厚いステーキがテーブルの上にあった。 モトムは獣のようにそれをつかみとろうとした。 おいしそうに見えて、うまそうなにおいをしていたように思ったのに、掴んだとたんグシャリを崩れ、 黒ずんだ泥のようになって手からこぼれていった。
「げっ、腐っていたのか」

横にあった鳥のまるやきにつかむと、ぼろぼろを皮が崩れて、ウジ虫のような虫がいっぱい飛び出してきた。 モトムは声をあげて飛びのいた。
「僕はウジ虫が大嫌いだ」

しかし、手にとろうとしたすべてのものが、汚いどろどろのものになったり、蜘蛛やゴキブリや蛇や モトムの嫌なものに覆われるのだった。 だが、ますます食欲は底なしのように強くなっていく。 拒絶されればされるほど、高まっていくようだ。 喉がかわいて飲もうとしても、飲み物が生き物のように逃げていく。またあるものは液体のように見えて固体だったりする。 ようやく飲めたと思ったら、喉を焼き尽くすようなものだったり。

モトムは男に引きずられるように、どうしようもない空腹や喉のかわきに苦しむめられながら、その場所を離れた。

そこはまだ繁華街のようだったが、女性が多く目につく。 よく見ると、どの女もモトムの好きなタイプだった。 モトムの猛烈な食欲はまだ余韻を引きながらも、今度は猛烈な性欲がこみあげてきた。 下半身というか、ずばり性器がどうしようもなく、うずうずしてくる。 そんなモトムの心を察知したのか、美しい女たちが、あふれんばかりのセクシーを匂いたたせながら、 群がってきた。どの女もやりたがっている。 こんなにもてるなんて夢みたいだ。ひときわ目についた女の子がいた。 100%モトムの理想の女性だった。 生きている間にかなわなかったことが起こるなんて、地獄も捨てたものではないと喜んだ。

その女性が部屋に入るのももどかしく、全裸になってモトムを誘う。 その乳房、その腰つき、その尻、その脚、その唇、モトムはたまらなかった。 モトムの性器は、もうすでに準備万端、痛いほどに熱く凝り固まっていた。 地獄でこんな思いをするなんて思いも寄らなかった。

しかし、抱きつき、そのやわ肌に触れたとたん、モトムは思わず、手や体を引き離した。 痛いほどに冷たかった。まさに身を切るような痛みが触れた場所に起こる。 それとは裏腹にモトムの性欲は萎えてしまうどころか、ますます高まってくる。 その魅力的な笑顔、ボディが目の前にある。もうどうしようもなくたまらない。 にも、かかわらず触れることができない。

モトムはあの痛みを心から恐れながらも体は、彼女を求めて抱きついていく。 とたんにモトムは絶叫する。 全身が100万ボルトの電撃を受けたか、100万本の鞭を受けたかと思うほどの それこそ、身が引きちぎられるような痛みがモトムを襲った。

あれほど痛いのに、奮いつきたくなる衝動は高まるばかり。 モトムは射精を果たしてしまえば、ここから逃れられるかも知れないと思いつつ、 自慰にかかるが、自分の手の感触が全くない。

今度は女性がモトムの体を触りに迫ってきた。 触れると激痛が起こることを予想して逃げだしたくなるが、 彼女のその笑顔、仕草は、どうしようもないほど魅惑的だった。 モトムはされるままに身をゆだねる。 果たして、空前絶後の激痛を通り越して触れられたところが爆発し、無数のガラスの破片になって、体中に突き刺さるような 猛烈な痛みが、モトムの体を切り刻んだ。

モトムは耐えきれず、必死にもがくが、女の体が、まるで劇薬の粘液のようにモトムの体にからみついてくる。 熱湯を浴びせかけられた以上の痛みから逃れられない。 だが、モトムの性欲はますます高まるばかりだ。 女の指が、モトムの性器を弄ぶ。そっとやさしく包み込むような仕草なのに、 乱暴に引きちぎられるような猛烈な痛みがモトムを責めさいなむ。

女の手に誘われて、モトムの男根が女の体の中に潜り込む。 だが、まるで溶岩に挿しこんだように、熱いとも痛いともわからない感覚が炸裂した。 女の体から必死に逃れようともがくモトムの体に粘着するように張り付き、モトムをじわじわと焼き尽くしていくようだった。 とてもとても耐えられない。モトムは声の限りに泣き叫んだ。 気絶もできない。だが、性欲はますます猛り狂った獣のようになるばかりだった。 モトムは魂(があれば)の限りに喉も裂けるばかりに絶叫した。

必死にもがき続けるうち、やっと、その女から逃れることができた。 モトムの体と女の体が粘り気のあるものが離れがたく名残を残すかのように糸をひいていた。 実際、いっそ女の顔が鬼のような形相になり、身の毛もよだつ恐ろしい怪物となってくれた方がよかった。 どこまでも、魅惑的なその笑顔、ボディ、仕草で、迫ってくるが故に、果てしない哀しみが、切なさが、 文字どおり、モトムの心を覆い尽くし、張り裂けるようだった。

モトムは疲れ果てた。 ひたすら眠りたい。気付くとそれは生きていたころの自分の部屋そのものにいるようだった。 とにかくシャワーを浴びて、すっきりして、ぐっすり眠りたい。 恐ろしいほどの睡魔が襲う。

シャワーをひねると、熱湯どころではない、劇薬のように、モトムの体に突き刺さった。 モトムは叫びながら全裸のまま、弾かれたように、シャワー室から飛び出した。 逃れられて、ほっとすると、引きずり込まれるような眠気に耐えられなくなり、 ベッドにもぐりこんだ。

モトムは再び、絶叫した。 ベッドのシーツがまるで無数の針で作られているように痛い。 モトムは飛び起きた。もうどこでもいい。とくかく横になりたいと、床に寝ると、たちまちその部分の無数の針が立ちあがる。 モトムが寝ようとするところがすべて針のむしろのようになるようだった。 睡魔がどんどん強大になってくるようで、もう耐えられない。 立ったままでも寝たい。

しかし、目をつぶると、さっきまでの恐ろしい体験が、痛みがリアルによみがえってくる。 自分の絶叫までも、自分の耳のすぐそこで発したように、耳をつんざく。
「寝させてくれえ」モトムは泣き叫んだ。 幻影なのか、恐ろしい形相の鬼があまりにも生々しく、モトムの部屋に入り込み、執拗にモトムをからかったり、 眠りかけると力の限りに金棒を打ちつけるのだった。

モトムは身も心もバラバラ、散りぢりにならんばかりに咆哮するように泣き、叫んだ。 頭の中がぐしゃぐしゃにシェイクされ、狂ってしまうことをほとんど確信した。 狂って何もかもわからなくってしまった方がよかった。 しかし、狂っていく自分を冷徹なまでに見つめる自分の意識もまたそこにあった。 自分が壊れていくのをあまさず見つめなければない。目をそらすことが許されない。 これほどまでの苦しみはまさに想像を絶するものであり、どんな表現も追いつかない。


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