「お前が今いる地獄は、過去にとらわれる地獄だ。古い昔の苦しみにとらわれ続ける地獄だ」
「そうか、どうりでお前がいる理由がわかった。お前こそ、元をたどれば、僕が自殺しなければならない元凶だ。
お前にいじめられて人生が狂っていった。暗い人生にされてしまったんだ。なぜ、僕をいじめたんだ」
「俺はお前をいじめた覚えはない」
「何!、僕がどんなに苦しんだのかを知らないのか」
「からかってふざけただけだ。遊びだよ。じゃれあい。とにかく、いじめているという意識は全くなかった。
ただ、お前がいやがったり、こわがったり、泣いたりするのが面白かったのだ」
「よくもそんなことが言えるな。今でもあの屈辱は忘れない。あの記憶がずっと僕の人生を邪魔してきたんだ」
モトムはくやしくてくやしくてたまらなかった。
モトムは突然激しい怒りと憎しみにかられ、男になぐりかかった。
モトムのパンチが顔面にまともに入って、男は後に吹っ飛んだ。
心の堰が切れたように、閉じ込められていた臭く腐った澱んだエネルギーが一気に噴き出したようだった。
モトムは男に馬乗りになって、男の顔を殴り続けた。男の顔が血まみれになった。
色がない世界だと思ったが、血の色は不気味なほどに赤かった。
男はされるがままで何も抵抗しなかった。
モトムの目から涙がとめどなくあふれた。号泣した。
生きている間にこれほど、涙が涸れてしまうのではないかと思うほど思いっきり泣いたことなどなかった。
いつもぐっとがまんしていたのだった。
「すっきりしたか」
モトムが落ち着くのを待って男が言った。
モトムは男をにらみつけた。
「思わぬ展開になったな。本来なら、この地獄では、お前が俺にされていやだったことがそっくりそのまま再体験するのだが、
それは次のお楽しみとしよう。しかも、ここでは延々と争い、互いに傷つけあい、怒りや憎しみ、哀しさなどの負の感情をぶつけあいながら、増幅していくのだが、ちょっと俺も話したくなった。
実は俺も、忘れられない過去があるんだ。おやじに鍛錬だと言われて、何度も殴られたことがあった」
男が静かにしゃべりだした。
モトムは放心したように聞くともなく聞いていた。
「おやじは厳しかった。戦後、生き馬の目を抜くような弱肉強食の世の中を強引に駆け抜け、事業を成功させ、
政界にまで乗り出そうとした男だ。男は強くなくてはいかんといつも言っていた。ちょっと弱音を吐くと罵倒された
ものだった。
学校で何か問題が起こって相談しても、自分のかたくらい自分でつけろというばかりだった。
おふくろにも暴力をふるうおやじが大きらいだった。
俺にとっては家庭は傷を癒して、心を休めることができるものなんかじゃない。
今思えば、そうした鬱憤を弱い連中をからかったり、従わせたりすることで、発散したり、自分は強いと思い込もうと
したのかもしれなかった。
結果、お前にもつらい思いをさせてしまったようだ。すまなかった」
モトムは死んでから謝られてももう遅いと思った。
「もういいよ。今からではどうしようもない」
「とにかく、ここの地獄は過去の辛かったことがエンドレスで繰り返し、経験していく。覚悟しておくことだ。
憎しみも、怒りも、悲しみも、恐ろしさも、争いも、痛みもここでは絶えることはない。
底なし沼のような恐怖と憎しみがお前をずたずたにするだろう」
男は暗い声で言った。