『加美っ子仏教』への寄稿1990〜99
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蓮華寺住職(1992年以前)・金蔵寺住職(1993年以後)として、『加美っ子仏教』に発表したものです。

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臓器移植について
            『加美っ子仏教』第30号(1999/03/18)より

 2月25日でしたか、突然脳死・臓器移植のニュースが飛び込んできまし
た。このニュースは、テレビ報道の量から見ても、新聞の見出しの活字の
大きさから見ても、まさに一大センセーションを巻き起こしたと言ってもい
いでしょう。
 臓器移植というと、私たちの世代には、今でも思い起こすことがあります。
このたびも話題になった31年前の札幌医科大学での心臓移植手術のこ
とです。当時も非常に大きな話題になったことを覚えています。
 その時の執刀医の先生の苦悩には大変なものがあったかと思います。担
当医として何とか患者を助けたいが、一人の生命を救うことは、とりもなお
さず、他の一人の生命を確実に奪うことになるという矛盾にずいぶん悩ま
れたことだと思います。
 心臓を移植された患者の方は手術が成功して元気になったので、数日
後、新聞やテレビで実名で報道され、画面にも顔を出されたような気がし
ます。確か中学生か、高校生ではなかったでしょうか。
 今のように、臓器移植法がなかった時代のことです。臓器移植というも
のの是非が法律的にも決着がついていない、国民的な合意はまったく得
られていなかった時代でした。だから、心臓を移植された患者が80数日
間生きて、やがて亡くなったころから、臓器移植に対する批判が表面化
し、執刀医の先生はついに殺人罪にも問われるようになったのです。結果
的には不起訴になったようですが。
 当時、私は大学生でした。その執刀医の先生の心臓移植に対してはど
ちらかというと批判的だったと思います。私には、医学に対する十分な知
識があったとは思いませんが、先生の言われることが、どうしてrも、「手
術は成功しましたが、患者は死にました。」としか聞こえてこなかったので
す。「一個の人間の病気を治すのが医学の目的であり使命であるはずな
のに、肝心の患者が死んで手術の成功と言えるのか。患者が死んだら
手術は失敗ではないのか。」という思いが若かった私の脳裏に残って仕
方がありませんでした。
 当時は「学問の細分化と人間疎外」ということが話題になっていました。
つまり、科学技術の目覚ましい進歩によって非常に複雑になった学問の
分野がこまぎれになってしまってその分野の専門家にしかわからないよ
うになってしまったことに対する批判が起こってきていたのです。
 医学を例にとって言うと次のようになるでしょうか。大昔は風邪や頭痛な
どの割合軽い病気にかかるか、そうでなかったら、結核や心臓病というよ
うな大変重い病気にかかって、軽い病気は治るが、重い病気は治らずに
死を待つしかないという時代が確かにありました。しかし、科学技術の進
歩によって医学が発達し、優れた医薬も発明されたりして、重い病気も治
せるようになったのです。
 このこと自体は、人類にとって大変すばらしいことだったのですが、反面、
医学という学問の分野があまりにも複雑になりすぎて、病気によっては、
その専門の医者にしか治せないようなことになってしまった、とも言えるの
です。
 つまり、一人の人間の病気も肝臓病はAというお医者さん、腎臓病はBと
いうお医者さん、心臓病はCというお医者さんというように、病気によって
治療にあたるお医者さんが違うというようなことがおこってきたのです。そ
のお医者さんたちが十分に連絡をとりあって、チームプレイができたら問
題がないわけですが、学問分野がこまぎれになったために、当時はなか
なかそれができなかったようです。
 その結果、病気の人間を全体として総合的に治療しなければならない
のに人間の一部である心臓や肝臓といった臓器にだけ目をやって、全体
としての身体のことを考えることを怠っていたのではないかというような批
判でした。
 こんなことを思い出しながら、臓器移植のニュースに聞き入っていまし
た。
 時代は変わりました。臓器移植についても法律的にも整備されてきまし
た。臓器移植ネットワークに見られるように、お医者さんもお互いに連携
がとれるようになったようです。
 新聞によりますと、欧米では心臓移植は輸血などと同じようにふつうの
医療と同じように考えられており、世界で4万例を越える手術がなされて
いるようです。
 現在でも輸血を神の意志に逆らう人為的なものだといって、拒否する思
想もあるようですが、一般的にいって、輸血で命が助かった方が身近にも
多くなってきたように、やがては、日本でも臓器移植が輸血と同じように、
日常的な医療となる日が来るのではないかと思います。
 皆さんは、そんな時代にこれから生きていくのです。その時代に何が幸
せかを考えながら生きてほしいと思うのです。
 卒業・進級・入学の時期にあらためて言いたいことは、むやみに勉強せ
よということではありません。学問をしてほしいのです。強いて勉めること
ではなく、学び問い続けてほしいのです。

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ご先祖様を拝みましょう!
            『加美っ子仏教』第26号(1998/01/01)より

 加美中学校のみなさん、あけましておめでとうございます。
 よい年が迎えられましたか。今きっとあなたは、新しい年を迎え新たな気
持ちで「今年こそは、○○をしよう。」と決意新たに張り切っていることだと
思います。
 「一年の計は元旦にあり」とはよく言ったものです。今の気持ちを大切に
この一年を生き抜いてください。
 ところで、最近、時代の趨勢もあって。お墓を新しくする家が増えてきま
した。
 私たちの命の源であり私たちに命を与えてくださったご先祖様をおまつ
りするお墓を新しくきれいにすることは、大変結構なことだと思いますし、
ご先祖様も立派な住家ができてさぞ喜んでおられることでしょう。
 それに加えて、お墓を新しくして親戚をたくさん招いて法事をするために
は、それだけたくさんのお金もかかるし、そんな結構な子孫の暮らしぶりを
見て、ご先祖様もさぞ満足しておられることでしょう。
  こういう意味で、お墓参りの時に、
 「立派なお墓ができて本当によかったですね。」
と言いますと、次のような答えが返ってくることが以前より多くなったような
気がします。
 「さあ、それがですがな。わしらは、息子らには、わしらの供養をしてくれ
るように十分に頼んどるさかいに、息子の代は何とかねんごろに供養して
くれると思いまっせ。せやけど、それから先が問題でんがな。孫やその次
の代になったらもうわからしまへん。せやから、今、わしらが生きとるうちに
墓を新しいして、わしらの入るところを作った思うてまんねん。」
 私は、
 「そんなことはないですよ。お孫さんも、その次もちゃんと供養してくれます
よ。」
と答えはしたものの、お墓を新しく作られたことを手放しでは喜べない気が
してきました。
 皆さんは、どう思いますか。
 「おじいちゃんやおばあちゃんは私のことそんなに信用しとらへんのん
か。ちゃんと供養したげんのに。」
と自信を持って怒れる人は、怒ってください。そして、ねんごろに供養してあ
げてください。
 しかし、おじいちゃんやおばあちゃんの本当に言いたいことは、孫を信用
するとか信用しないというようなことなのでしょうか。ここで、怒るのもいい
ですが、ちょっと考えてほしいのです。
 老い先が短いと言ったら失礼になるかも知れませんが、そのようなお年
寄りが言われることに謙虚に耳を傾けてほしいのです。
 私は、法事の席へ行きますとお経をあげる前に、
 「女の人も子どもさんもお孫さんも、みんな出てきて一緒に拝んでくださ
い。」
と言うことにしています。
 昔と時代が変わったとはいえ、まだまだ法事などの場には、男性が出る
もので、女性は台所で食事の用意をするものだと考えている人があるよう
です。子どもに至っては、自分のご先祖様の法事であるのに、日曜日や
土曜休日をいいことに、よそへ遊びに行って家にはいないという家もある
ようです。どうか法事の時には、親戚だけでなく、ご家族そろってご先祖様
を拝んであげてほしいのです。
 「うちは仏さんがないから拝まんでもええねん。」
という人はいませんか。なるほど新宅家などで、その家には亡くなった人
がない家もあるでしょう。しかし、親のない子どもはありません。必ず、あ
なたには、お父さんとお母さんがおられます。そのお父さんとお母さんに
も、またお父さんとお母さんがおられます。そのお父さんとお母さんに
も…。
 このように、あなたには、はるか遠い昔から受け継がれた命、ご先祖様
からいただいた命が、連綿と受け継がれているのです。ご先祖様を拝む
ことは、あなた自身の命の源を拝むことですから、とりもなおさず、あなた
自身の命を大切にすることになります。すなわち自分を大切にすることに
なります。
 もし、拝み方がわからないという人があれば、お父さんやお母さんに聞い
て教えてもらいましょう。おじいさんやおばあさんに聞くのもいいことです。
 そして、拝み方を聞く時に、お父さんやお母さん、おじいさんやおばあさん
の子どものころの話を聞きましょう。
 嬉しかったこと、腹が立ったこと、苦しかったこと、悲しかったこと、楽し
かったこと。それらはみんなあなたの家の財産です。そのようなものが
あったからこそ、今のあなたが命をもって生きているのです。
 その際、あなたの生まれた時から現在までの話もできるだけ詳しく聞い
てください。きっと生きる勇気がわいてくると思います。一所懸命勉強しよ
うと意欲もわいてくるでしょう。
 あなたのこのような態度が、やがてまた次の世代に受け継がれ、あなた
もご先祖様として、子孫から拝まれることになるでしょう。
  ご先祖様を拝みましょう!
  自分を大切にするために!  

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夏休みにしかできないこと
            『加美っ子仏教』第16号(1994/07/20)より

 今年も暑い夏がやってきました。昨年の今ごろは、冷夏といわれて人間に
とっては過ごしやすかったのですが、今年の夏の暑さは格別ですね。余りひ
でりが続くので水不足に困っているところもあるそうです。反面、今年は暑
い分だけ米の豊作が楽しみだという話もあります。
 中学生のみなさんにとっては、いよいよ待ちに待った夏休み。
 私も、中学生のころは、夏休みになると、「今年の夏は、あれもしよう、こ
れもしよう」と考えました。しかし、余り欲ばり過ぎて、夏休みの終わりになる
と、「あれもできなかった、これもできなかった」と悔いばかりが残ったことを
思い出します。
 そのような後悔ばかりが残る夏休みの中で、それでも、まるで何かに取り
憑かれたように、ひとつのことに熱中したことがあります。
 あれは中学校2年生の時だったと思います。国語の先生から授業中に、
「この夏休みに、何かひとつ研究をやってみたらどうですか。」と宿題を出さ
れました。
 どうしたことか、その時私は、自分がそこに生まれ、そして、住んでいる的
場の村を足で歩き回って、地図を作ろうと思い立ったのです。
 夏休みになって、来る日も来る日も、毎日友人のY君と一緒に的場の道
や山を歩き回ったのを覚えています。メジャーを使うのではなく、足で歩い
て距離を測りました。あらかじめ自分の歩幅をはかっておき、この池からあ
の工場まで何歩あるから何メートルだ、という極めて不正確なことですが、
それでも、夏休みが終わるころには、的場の地図を作ってしまいました。
 その頃、明治時代の中期の的場の村を写した写真の複写写真が家にあ
りました。わら屋根の小さな家が密集していて、真ん中に道らしいものがあ
りました。どうも寺内との境にある丸山から北を向いて撮られた写真のよう
でした。
 同じところから写真を撮って比べてみようと思い立ち、早速丸山に登りま
した。現在は的場の道はすべて舗装されていますが、何しろ今から32年
前の昭和37年のことです。道は狭いうえ舗装もされていないし、圃場整備
もまだされていませんでした。
 現在とはずいぶん様相を異にしていますが、丸山の頂上で、眼前の風景
と70年前の写真とを比較して、Y君と一緒に月日の流れに驚き、的場の村
の写真を撮った満足感に浸ったのを覚えています。大げさに言えば、こど
も心に歴史の流れを感じていたのかもしれません。
 この年の夏休みは、クラブ活動(バレーボールと陸上競技)をやっていた
はずですが、この郷土研究のほかは余り記憶に残っておりません。夏休み
が終わって、40日間英語の教科書をまったく開かなかったのに気がつき、
「明日からどないよう」と真剣に悩んだのを今でも鮮明に覚えています。
 仏教会の中学生の夏期講座が南部で始まったのは、その翌年、昭和38
年のことです。 

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 このごろ思うこと(3)
            『加美っ子仏教』第12号(1993/03/26)より

 朝起きて、顔を洗って、昼寝して、ご飯を食べて、学校へ行って授業を受
けたり部活をし、家へ帰ってご飯を食べて、テレビを見て、勉強して、お風
呂に入って、寝る。
 国語の先生から大目玉を食らいそうな文を始めに書きましたが、これは
ふざけているのではなく、中学生のみなさんやこれから中学生になるみな
さんにも自分のあるがままの生活を自分なりに振り返ってみてほしいと思っ
たからなのです。
 人によっては、これに家の手伝い、友人とともに過ごす、塾通い、読書、
趣味、あるいは瞑想などが加わり、それに費やす時間も様々でしょうが、
大まかな生活の流れはこんなものではないでしょうか。
 このような生活を送っているみなさんは、次の文章を読んでどう感じます
か。
 
 「内戦の続くスーダンでは、古代さながらに、戦利品としての奴隷がいる
という。同時に、土地や家畜を奪われた親が貧困から子供を商人に売る
例もある。最も多いのは7歳から12歳の少年で一人70米ドルで取り引き
されている。奴隷売買という批判を避けるために『借用料』などということ
ばを使う。
 ブラジルでは、森林をきりひらくために貧しい地域から労働者が集めら
れる。約束と違う安い賃金で、しかも、旅費も食費も払えと言われる。逃
げる者は銃を持った者に追われ、つかまえられて暴行されるー。
 現代的な形の奴隷制とは、最初に金を積み、払い終わるまでといって
いつまでも働かせる形式のものだ。南アジアと中南米に最も多く、パキ
スタンには二千万人おり、じゅうたん産業では、50万人もの子供がこの
形式で働いているという。
 ハイチやスリランカからは、子供が強制労働をさせられている報告が
ある。」(『朝日新聞』天声人語、1993年3月25日)
 
 「うそ!」、「絶対嫌や」という人。
 「あれ、似たような話を聞いたことがある。」という人。
 そうですね。すでに歴史を勉強したみなさんのなかには、先程あげた
子供の悲惨な状況がかつての日本にもあったことを思いだした人もあ
るでしょう。
 私がみなさんに考えてほしいことは、悲惨な国に生まれなくてよかった
ということではありません。世界には同年代の子供の嘘みたいな生活が
あることを知って、みなさんは何を考えるかということなのです。
 みなさんの中に、「世界」とか「日本」とか「社会」のことを考えるのを敬
遠したり、考えている人を「まじめ過ぎる」とばかにしたりするような風潮
はないでしょうか。
 自分のこと、友だちのこと、家族のことを考えると同時に、広い世界に
目を向け遠い未来に思いを馳せて、自分も活き人も活きる地球社会を
めざして、しっかりと勉強してほしいものです。

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最近うれしかったこと
             『加美っ子仏教』第10号(1992/07/18)より

 広報『加美』7月号を見て楽しくなりました。加美町歌の復活が報じられて
いたからです。あれは30数年前、松井小学校講堂(現プール付近にあっ
た)で先生から教えていただいた村歌(まだ加美村だった)が復活(復
権?)する。誠に嬉しいことです。
 我が村の歌ができた。杉原川の流れのように美しく、千が峰のように力
強い歌。子供心にも胸が高鳴ったのをきのうのように覚えています。
 高校を出てから約10年間、加美町を離れて都会の生活をしていたころ、
時折口ずさんだ懐かしい歌が、
  「流れ豊けき加古川の水上遠し松井庄」 
ではじまる旧松井中学校校歌と
  「思えば遠き昔より名も多可郡(たかごおり)」
ではじまる加美町歌でした。故郷に帰ってきた16年前、歌う人の非常に
少なくなった(知らない人が多くなった)のを知って残念に思ったものです。
 そのうちに、この歌には、加美町民としてのものの考え方、行動の仕方、
生き方の基本となるようなものが歌いこまれていることにあらためて気づ
き、平成元年度の中学生夏期講座で「頭の良くなる方法」の話の一環とし
て当時の中学生に教えたものです。『加美仏教』第96号(平成2年1月)に
も書かせていただきました。
 加美町仏教会は、50余年の伝統ある中学生夏期講座を今年も実施し
ます。この美しい町・自然の町に生きる私たちは、加美町の明日を創り、
世界の未来を担う君たちに何を語り継ぐべきかを考え、君たちが生き方の
基本を自ら学びとれるような講座にしていきたいと思います。
 「仏教会の講座に出席して本当によかった」という生徒をつくるのは勿論、
故あって参加できなかった生徒が「参加しなかったのでものすごく損をし
た」と残念がるような内容を創造していきたいと思っております。
 中学生諸君、同じ加美町民として、人間の生き方を学ぼうではありませ
んか。
 炎暑の中での清涼を求めて、お寺の中で、頭と身体の訓練をして、一層
賢くなりませんか?

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