浄土宗西山深草派 髙城山 帰命院 十念寺
寺のはじまり
当寺が建立されたのは、天正19年(1591年)5月のことです。
古くは「東林庵(とうりんあん)」と呼ばれ、八上村の傍らにありました。東林庵の開基(創立者)は明らかではありませんが、中頃には善性法師という僧侶が住んでいたと伝えられています。
その後、天誉覚山(てんよかくさん)上人が誓願寺を建立した際、当寺を「高城山 十念教寺」と改名し、誓願寺の塔頭(たっちゅう)寺院としました。そして上人自らが開山となり、岸空本柳(がんくうほんりゅう)、観誉善悦(かんよぜんえつ)と師弟三代にわたって受け継がれました。
畑氏の悲劇と移転
その後、八上城の城主である前田主膳守(まえだしゅぜんのかみ)に仕える武士に、畑平太という者がいました。
平太はあることについて、主君である主膳守に諫言(かんげん/忠告すること)をしました。 「良薬は口に苦く、忠言は耳に逆らう」という言葉がありますが、平太の諫言は主君の逆鱗(げきりん)に触れてしまいました。その結果、平太の一族はついに処刑され、家系は断絶してしまったのです。
そして主膳守ノ為ニ畑氏が途絶えた際、観誉善悦(かんよぜんえつ)は、当寺を高城の陰谷から、内村にある畑氏の屋敷跡へと移転させました。
衰退と再興
寺院というものは三宝(仏・法・僧)が住まう場所であり、悟りを開くための道場であります。信心の根本に照らせば、日頃の慈悲によるご利益(りやく)に疑いの余地はありません。
本来、朝夕に常に信仰心を持って念仏に励むべき道場ですが、時代の移り変わりとともに僧坊はことごとく荒れ果て、霜や雪をしのぐことさえ難しいほどになってしまいました。
境内が狭いことも長年の悩みでしたが、ついに寛文7年(1667年)、活空善龍(かっくうぜんりゅう)和尚が再建のための勧進を行いました。 そして、檀頭の喜多川氏や他4、5名の協力者とともに勝地を選び、古い坊舎を現在の境内地へと移築したのです。
それ以降、この地は御領主より年貢を免除される「除地(よけち)」となりました。
その後の歩みの後、享保16年(1731年)に再建されました。さらに明治25年(1892年)に改めて建て直されたものが、現在の本堂です。
(以上、鷲尾氏所蔵の『高城山十念寺縁起書』に基づく)