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研究報告
天野恵:騎士道と火器(1) [1/5]
今度のイタ文の新3回生には射撃の名手がいると聞いたので、これにちなんでひとつ火器について書いてみたい。そもそも文学と兵器というのは、少なくとも昔のヨーロッパにあっては、われわれ現代人が普段なんとなく感じている以上に実は密接な結びつきを有していた。だいたいホメーロスの昔から文学作品にとって最大のテーマは戦争ということになっていた。(イタロマニアの表紙にも「神と愛と戦争と」と書いてある。)
しかも詩人とか文人とかいう人種もその多くは貴族、つまり戦争を本職とする人間たちだった。そうした連中が暇つぶし半分まじめ半分...と言うか、まじめに気合を入れて暇つぶしをやったときに成立したのが文学だったというようなところがある。例えばアリオストの場合もそうしたケースの典型であって、本職はあくまでも軍人・外交官である。
念のために言っておくと、今でこそ戦争は外交の一部になっているけれど、当時はどちらかと言うと外交がむしろ戦争の一部みたいな雰囲気があった。
少々古い話にはなるが、『ロランの歌』の中でガヌロンが外交官としてまずやったのは、和平交渉の相手の目の前で人斬り包丁を振り回して見せることだった。そんな調子だから、昔は読む側の方でも今の普通の読者とは目の行きどころが若干ちがっていた。
たとえば決闘とか合戦とかの場面になると、登場人物たちの殺し合いのやり方の技術的な側面がおおいに注目されたのである。要するに文学作品としての描写や詩の巧拙以前に、まず幾人対幾人の勝負か、武器は何と何で、それをどう使って相手のどこをどう突き、どう防戦し、ダメージはどんな具合で、云々といった事柄を本気になって読み、かつ注釈していたのである。
むろん、教養のある読者層はそんなレベルにばかりとどまっていたわけではないし、アリオストが夢中になって追求したのもそうした事柄ではない。しかし、それらは決して無視されたり、いい加減に扱われたりしていたわけではなく、すぐれた作品を構築するためのいわば底辺部分を構成していたのであって、少なくともこんなところで既にほころびが出ているようではどうしようもないという、そんな要素のひとつだったのである。
文学の研究にもいろんな方法があって一概には言えないのだけれど、一般に作品を創る側が意を用いて万全を期し、見ろ、どうだ、よくできているだろう、と見栄を切っているようなところばかりを正面から素直に眺めて感じ入っていても、なかなかそれ以上に読みを深めていくのはむずかしい。
この場合、読みを深める、とは創作の秘密に更に一歩迫るような発見をすることである。創作の秘密に迫るとか、発見をする、などと言うと大げさに聞こえるかもしれないが、外国の、それも何世紀も前の、われわれとはまったく常識を異にする人間たちが創りあげたモノを相手にするときには、それくらいの気合を入れてかからないと、分かったつもりになっていても実際にはとんでもない誤解をしていただけ...という危険がある。かく言う小生自身、そういう痛い目に何度も遭ってきているのである。いや、これからも遭い続けることであろう。