第9話  −お遍路の始まり−



四国のお遍路は誰が始めたのか、ということははっきりしていないそうですが、次の四つの説があるそうです。
   ・弘法大師
   ・弘法大師の弟子、真済
   ・衛門三郎
   ・熊野の修験者

一番確からしいのは、最後の「熊野の修験者」のようです。しかし、四国の人たちに人気のある説は「衛門三郎」です。史実よりも四国にゆかりのある話を大切にしたい気持ちもよくわかります。

今回はこの衛門三郎の話をご紹介します。

およそ今から千二百年前、荏原の庄(現在の松山市恵原)に衛門三郎という長者が大きな屋敷を構えて住んでいた。ある日、1人のみすぼらしい身なりの托鉢僧が訪れた。そういう時、家の人はそのお経が終るのを見計らってお布施を差し上げるというのが、四国人の暗黙のルールであった。

ところがこの衛門三郎という人、強欲でただの一度もお布施をしたことがなかった。その日も乞食僧を追っ払ってしまった。ところが僧は懲りずに毎日のように訪れて経を読んだ。

業を煮やした三郎は、僧に向かって鍬で打ちかかった。乞食僧は持っていた托鉢の鉄鉢でそれを受け止め、かろうじて難を逃れた。しかし鉢は八つに割れて地面に飛び散った。
※鍬の他に、背負棒とか鎌で殴りかかったという話、三郎が鉢を取り上げて地面にたたきつけたという話もある。いずれにしても鉢が八つに割れたというところはみな同じです。

その日を境に、乞食僧は三郎の屋敷を訪れることはなかった。やれやれと思うまもなく、三郎の不運が始まる。彼には男の子が八人(男が五人、女が三人という説もある)いたが、次々に原因不明の病気にかかって亡くなってしまう。

悲嘆の中で三郎は、乞食僧の鉢が八つに割れたことと自分の子供の数との符合などから、あのみすぼらしいお坊さんはきっと弘法大師であったに違いない、と考えた。今までの自分の行ないを悔い、これまでの罪をわびてお許しを得なければ生きていられないと思うにいたった。そして弘法大師を求めて旅に出た。
これがお遍路の始まりだというのである。

この話には続きがある。お大師様の通った道を何度も何度も回るけれど、どうしてもお会いできない。二十二回目には逆に回ればお会いできるのではないかと、(今でいう発想の転換でしょうが、ちと気がつくのが遅い気もしますね)巡り方を改めた。心身ともに疲れ果てた三郎は、十二番・焼山寺の手前で倒れてしまう。

意識が遠のきかけたときにようやく大師が現れて、罪を許されたうえに、「今度生まれ変わるときには伊予の領主になりたい」という最後の望みまで聞き届けてもらう。大師から、衛門三郎再生と書いた石を授かり息を引き取った。三郎は、大師と地元の人たちによって持っていた杖を墓標に、その場に手厚く葬られた。

やがて杖は一本の杉の大木となる。ここが現在の焼山寺下の杖杉庵だという。わたしも遍路の途中で立ち寄りましたが、ここには衛門三郎の逸話を紹介する案内板が立っています。

また、伊予の国ではその後、領主に男の子が生れた。ところがその子は、手を握ったまま開かない。困り果てて近くの安養寺に連れて行き祈願をしたところ、手から衛門三郎と書いた小石が出てきた。人々は衛門三郎の生まれ変わりと思ったことであった。安養寺は現在の石手寺である。

以上が衛門三郎にまつわるお話です。よく出来た話ですが、こういうのを信じるのも罪がなくハッピーであると思うのですが。



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