那智の滝と八咫烏 旭鯨・絵馬
  捕鯨発祥の地、南紀太地浦には鯨に関る数多くの民話が伝承されており、此の旭鯨も其の内の一つです。
 九鬼水軍の水先案内を無事果たした太地浦の鯨達は、村上水軍を見事に打ち破った九鬼水軍の勝鬨を聞きながら、折柄昇る旭に向かって躍り上り躍り上り太地浦へ帰っていきました。
 旭に躍る鯨は吉祥とされ、見た人に幸福がもたされると伝えられて居ります。
              南紀太地浦 抱壺庵
那智の大滝 太地町


みかん 河童八人衆 みかん
串本 白浜温泉 南紀白浜


紀州太地いるか 牛馬童子 那智の火祭
 深い緑と碧い流れに恵まれた雅の中辺路は、平安時代中期から鎌倉末期まで、かって熊野詣の道筋として栄え、上皇、女院など多くの大宮人たちの脚で踏み固められ、今なお往時をしのぶ多くの遺跡が散在しています。
 その中の一ツ箸折峠の古道にひっそりと鎮座する僧服姿の石仏牛馬童子象は、藤原兼家の陰謀で皇位を追われた、十九歳の悲劇の法皇花山法皇の熊野詣の御姿であると伝えられています。
  那智の大滝は神代の昔から多くの人々が畏敬し、神格として尊ばれてまいりました。
 この那智山には、大国主命並びに、いざなみの命をお祀していたのですが仁徳天皇の御代(5年)に社殿を新築した際熊野の神々、即ち十二所を合祀しました。この熊野大神十二所を遷した時の行事が「扇祭」または「火まつり」として伝えられています。
 「扇祭」は熊野権現十二所の神輿で、那智大滝に鎮まられている神霊をのせて、本社即ち那智大社に遷す行事であります「火まつり」は十二体の扇神輿を十二本の燃え盛る大松明で清める豪壮な行事で、若者の「ハレヤ ハレヤ」の特異な掛け声も勇ましく昼ではあるが、杉木立の暗闇の中で炎が乱舞し大滝の前できらびやかな扇神輿を清める儀式は極めて神秘的であり、まさに火と水の祭典であります。
 この「土鈴那智の火祭」はその祭礼に奉仕する若者達のいでたち装束を素朴に模した那智山独特の民芸品であります。 
串本 紀州旅情 静 南紀物産 切土清之 作


旭鯨 めおと鯨 くじら船
  捕鯨発祥の地、南紀太地浦には鯨に関る数多くの民話が伝承されており、此の旭鯨も其の内の一つです。
 九鬼水軍の水先案内を無事果たした太地浦の鯨達は、村上水軍を見事に打ち破った九鬼水軍の勝鬨を聞きながら、折柄昇る旭に向かって躍り上り躍り上り太地浦へ帰っていきました。
 旭に躍る鯨は吉祥とされ、見た人に幸福がもたされると伝えられて居ります。
 昔、南の海に、一群れの鯨がおりました。
 その群れに、ある日、一頭の白い雌鯨が生まれました。ちょうどその頃、鯨の餌になる鰯や、エビや、その他の小魚が潮流の加減でしょうか、回遊して来なくなり、その群れの鯨達は飢えかけておりましたこれは、白い鯨が生まれたためだと、群れの長老達が相談して、その不吉な白鯨を追放することに決めました。
 ところが、その白い鯨をかわいそうに思い、陰になりひなたになりして、かばっていた若い雄鯨が、おれもいっしょに出ていくといって、白鯨をつれて、その群れを出ていきました。
 何年かたって、その若鯨と白鯨との間に子供が出来、孫が生まれ、何百頭かの大群になりました。その「めおと」鯨が、群れの王者として、南の海、北の海に君臨したという民話がつたえられています。なお巴の紋は、古式捕鯨の宗家、和田家の家紋です。
  紀州くまの浦は古式捕鯨発祥の地である鯨を網捕り法で、捕獲する舟の体勢は各々の任務により、勢子舟、網舟、持左右(もっそう)舟、樽舟、道具舟があり、その中でもっとも大切な舟は、鯨を追って銛を打込む、15人乗り八挺櫓の軽快な勢子舟であった。
 その舟べりには桐に鳳凰や割菊、松竹梅、菊流し、蔦模様など極色彩の美しい模様を施して舟の順位をあらわしていた、また当時は、鯨一頭で七浦をうるおすといわれた程、貴重な生活の糧であり、昔はエビスさまとして畏敬すると共に、鯨に対する「いつくしみ」の気持も決して忘れはしなかったといわれている。
 この土鈴は当時の勢子舟をかたどって、美しい色模様をそのままあらわし舟と鯨への愛着をこめて作った玩具である。
南紀太地浦 抱壺庵 新宮 南紀物産 切土清之 作


赤鬼 熊野本宮大社授与鈴・烏天狗
白浜温泉 熊野本宮大社