6月17日  サラエヴォの悪夢。まさか改名してるとは・・・ 今日の一枚を見る

 約束したという呪縛から中々逃れることができなくて朝起きてからもユースでもう1泊しようか悩んだが、がんばって振り切る。ごめんねイズミサノさん。どこかで素晴らしい風景に出会っていることと信じて、ぼくは先に進みます。

 宿泊料は前払いしていたので、宿泊中に頼んだ洗濯代を支払う。ところがおばあちゃんたちの言い値とぼくが考えていた値段とは大きな開きがあったので、軽い口論になってしまう。日本人はこういうのを嫌うが、ここははっきりしておかなくてはならない。
 言い値は1回50Kで2回分、2回目は少なかったので30Kの計80Kの請求。ぼくはその一回分である[50K]を[15K]と聞き違えていて(だって50Kだと現地物価を考えてもやっぱり高いし、おばあちゃんは安いからウチで洗濯頼んでねと言ってたし)、15Kで2回分の30Kとバス代しか現地通貨を残していなかったのだ。きちんと計算していてもこういうドンデン返しはあるんだなあ。
 ぼくが50Kは高いということと、その値段ではお願いしていないということをバスの時間がせまっているのにがんばって主張したところ、姉ばあちゃんが「オーウマイゴッ」という感じで30Kで折れた。最後の最後になんとなくもやもやを残したまま出発。

ボーダー  朝8時のドゥブロブニク発サラエヴォ行きバスに乗る。
 ターミナルには日本人女性が一人いたが、ものすごく避けられる。宿の姉妹も客引きでターミナルにやってきて、あれは日本人だと教えてくれたが、だからなんやねんちゅう感じ

 バスはそれほど混雑してないのでゆっくりすることができた。お陰で寝たり起きたりしているうちに写真(左)のクロアチアとボスニア・ヘルツェゴビナの国境に到着。
 国境越えの車は結構多くてここで30分くらいストップ。パスポートを車掌に預け、車内で待っていると手続きは勝手にしてくれる模様だ。
 一人呼び出されていたが10分ほどすると無事に戻ってきた。ふう、そのまま帰ってこなかったらちょっと考えちゃうじゃないですか。

 パスポートを返されて(残念なことにボスニア入国のスタンプは無かった。せっかくぼくのパスポートを彩ってくれる予定だったのに。)そのまま国境を越え、ボスニア・ヘルツェゴビナ入国。100メートルくらい進んだところにあるレストランで休憩に入る。今まで車内でゆっくりしてたんだから別にいいんだけどね。
 特別腹も減ってないので何も注文せず、店の中にいるのもなんなので近くをちょっと散歩してみる(写真はそのとき、ボスニア側から国境(ボーダー)を写したもの)。日本人女性も節約旅行なのか所在無さげで座っている。誰との接触をもさけているような雰囲気なので、気を使ってぼくのほうから避けてやった(いい性格してんなあほんま)。まあたまにいますなこんな人。そして自分もたまにそうなっているのだろうなと自覚する。

 再び車内、また寝たり起きたりしているうちに冬季五輪も行われたサラエヴォに到着。
 ちょっと寝ぼけていたのか、最初に寄ってきた女性のプライベートルームの話に乗ってみる。他の客引きも声をかけてくるがその女性が断る。まあ値段が10Eで朝食付きのうえ、ここから近いという話なので部屋を見せてもらうことで歩き出す。
 郵便局でカードキャッシングを手伝ってくれ、かなり親しげに話し掛けてくる。何人も日本人が宿を取っており、これは相当な親日家に当たったかなと内心喜んだ。
 しかし話ながら歩いているうちに、この女はあの女かもしれないと思い始めた。てっきり忘れていた、サラエヴォには若い日本人男性をほとんど専門にしているプライベートルームがあって、夜とんでもないことに巻き込まれた体験者の話が各地の情報ノートに残されている、という重要で忘れてはいけない情報をてっきり忘れていた。

 彼女の話の内容からドゥブロブニクで会った学生君も前日宿泊していたようで、いちいち彼の話していた内容と合致している。今朝ブダペストへ発ったというが、そのブダペストはぼくが熱心に薦めていたのだ。
 せっかく気付いてここで断ればいいのに、好奇心からか旅行記のネタになるという気も働いて結局1泊することにしてしまった。
 その女性自称31歳、名前はヤスナと名乗りドイツ人の父とクロアチア人の母を持つハーフで若い頃の写真は結構美人だった。20歳だと言われて見た写真は実際かなりいけている、というか白人のブロンドなら普通は大体がそう見えるのだろう。さらに昔の写真や過去に宿泊した数々の東アジア人男性(ほとんど日本人)の写真を見せてもらう。ちなみに部屋はボロアパートの最上階で観光できる市街へは徒歩だと結構辛い距離にある。

スナイパー通り  部屋で写真をみたり自分がいかに日本人が好きかという話を聞かされたりしたあと、観光に出発。別にいいのに同行してくる。断る理由もないし、第一ぼくは町の中心部地図を1枚持っているだけで情報もほとんどない。ここは使えるだけヤスナを使ってみよう。

 写真(右)は紛争当時激戦区だったスナイパー通りに今もある壁の崩れたマンション。ほんの数年前の出来事なのに、遠く極東から来たぼくにとってはこの壁でしか当時のことは想像できない。そばに立ってある真新しいマツダの看板がやけにまぶしく思えた。

路上チェス  日本だと天童市の人間将棋のような感じになるのだろうか、写真(左)の路上チェス。
 「歩き方」に載っているようなポイントは全てヤスナが一緒に連れて行ってくれる。ぼくの持ってきた地図のコピーにある観光ポイントを一つ一つ説明付きで周る。案外ありがたい存在かもしれない。

 丘の斜面を埋める高級住宅街を指差し、友達が日本の外交官と結婚してあのマンションに住んでいるとちょっとうらやましそうに語るヤスナ。
 過去に長期で宿泊していた「ヨシサン」という日本人のことを気に入っており、その話を聞いたぼくはヨシサンの話題に集中して、話が他に流れないように努めた。

 ヤスナ曰く8月にヨシサンに会いに日本へ行くつもりだという。そしてできれば結婚したいのだという。むーん健気ではないか。日本人が忘れた何かを持っているのかもしれないとちょっと同情的になったが、頭の半分は夜をどうやり過ごすかということで埋まっていた。
 さてヨシサン、ヤスナ来ましたか?
 我々が安全に旅をするためにもヤスナをもらってやってください。そしてヤスナの言うようにドイツで仲良く暮らしてください。よろしくお願いします。ちなみにヨシサンは関東で鉄道関係の仕事をしているそうです。

墓標  写真(右)はオリンピック公園で目の当たりにする「悲惨」です。
 延々と続く新しい墓標の列・・・写真はムスリムたちの眠る場所で、もちろんキリスト教徒も近くに大量に埋葬されているのだが、ちょっと疑問ができた。ボスニア・ヘルツェゴビナは事実上ムスリム・クロアチア人側とセルビア人側の2つの国に分裂しており、クロアチア人とセルビア人は共にキリスト教だけど宗派が違い、同地に埋葬されてもいいものかと。セルビア人はセルビア人共和国に埋葬されている可能性は大だろうけど、ヤスナにこのことを聞けなかった。確認してみたかったが、自国の政治にさえ疎い日本人が、この地の政治にそんなに簡単に踏み込んではならない。このことをぼくは旅行に出発する前から肝に銘じていた。
 モスタルに行くと言う人に何人か会ったが、そこにセンチメンタルな物などなにもないところだとわかって行っているのか非常に疑問だった。ドゥブロブニクのおばあちゃんたちが「危ない」と言っていたモスタルにぼくは行けなかった。触れる資格の無い人間が触れてはいけない物は、確かにあるとぼくは思う。

トラム&ビル  さらに街歩きは続く。ヤスナとの会話は「ヨシサン」の話題に集中させて、ぼくは勝手に立ち止まって写真を撮ったりする。
 途中日本の援助で造られたという公園で、これも日本の援助で植えられた桜の木を見せてもらう。心無い人が枝を折ったりしてかなり傷ついていて、この国の病の一端を垣間見た気がしたが桜が大好きだと言うヤスナは、ぼくに謝ってくれた。
 ぼくも桜は大好きです。日本の花ですからね。

 写真(右)はサラエヴォのトラムです。観光は全て徒歩で行われるのでトラムには乗ってないのですが、背後にビルがみえますか。
 このビルは稼動していません。
 攻撃で壁が剥がれ落ちていてそのまま放置されています。ヤスナが言うには忘れないために残してあるんだそうで、まるでゴーストタウンのような雰囲気をこのビルのある一点だけが漂わせています。薄暗い灰色の無期質な感じが余計に気持ちを沈ませるんじゃないかとも思うが、負の遺産を残すというのも、反省しない人間にとっては重要なことなのかもしれません。

着弾跡  写真(右)はサラエヴォ市内にいくつも残る砲弾の着弾跡。先のビルと同じように、街のあちこちにこのような穴を埋めた跡がある。この一発で何人の人間が不幸になったのだろうか。戦争の悲惨さを改めて感じざるを得ない。
 しかしこの着弾跡を見て、現地の人々がセルビア人憎しで復讐心あるいは敵愾心を燃やすようになるのではないか。ぼくは人間の限界はココだと思っているのだが、「人を殺すな」と奇麗事では簡単にいえない何かが、人間には永遠につきまとうのであろうか。ぼくにはまだまだわからないことが沢山ある。

 それにしてもヤスナはこちらに寄りかかりながら、たまに腕を組もうとしてきたりするので困る。
 ヤスナのアパートはボロアパートで家賃も安いのだが、それは彼女のアパートがボスニア国内セルビア人共和国側に近いからなんだそうだ。ちょっと危ないような気がしないでもないが、あれだけ世界中を敵に回して必死に戦ったセルビア人にもう一度何かをやるパワーは、今のところ残っていないだろう。人生と同義であろうボールと踊れ!
 いくつか注意深く聞いているとヤスナもセルビア人のことは良くは思えないようだ。それはそれで仕方が無いが、なんとかならないものだろうか・・・このこともつっこめない。親戚が辛い思いをしているかもしれないのだし。

マーケット  旧市街である写真(左)のバチシャルシャに行く。ここで晩飯を食べるということで素直に付いていき、地元の食堂でチキンを食べる。料理人に力強く「ウェルカムトゥサラィエヴォ!」と握手されたりなんかした。この人も戦争を知っているのだ。

 街で盛り上がる日本人の団体(NGO関係かな)のこちらを見る目つきから、この親切なヤスナはあのイヴァナだと確信を持っていたので以下の対策で夜を乗り切ることにする。
 −−−まず正気を失わない程度に酔う。そしてなるべく遅くに帰って酔いに任せてすぐに寝る。早朝のうちに起きて可能な限り早くに出発する。−−−
 食事の後、オープンカフェのビールを飲みながらフランスvsクロアチアを観戦。食費やら飲み物代は観光スタート時に渡したいくらか(忘れた)で全て彼女が支払っている。現地人価格で得をしているのか、はたまた逆に損をしているのかまったくわからない。大金を渡したわけではないのは確か。
 途中明日の朝食を買いにヤスナが席を外す。このまま帰って来なくても困ってしまうがなるようになれと思いサッカーを見る。
 無事?ヤスナが戻って来て試合もドローに終り、街は夜に騒ぐ若者だけになる。半袖だったぼくは結構寒さを感じていて、そろそろ限界かということでトラムで宿に戻る。トラムは終電のようでヤスナもあせっていたようだ。

 ダブルベッドとソファベッドがあるのだが、もちろんぼくはソファベッドで寝るつもりだったしそう主張した。ところがヤスナはかなり強引に一緒に寝るように迫ってくる。事ここに至って追い出されてはたまらないし、自分の判断の甘さを呪いつつベッドへ・・・・・・
 かけ布団で背中をガードしてヤスナと反対を向く。幸いぼくは横を向くかうつ伏せでないと眠りにつきにくい体質なので、ここではその体質を存分に生かすことができた。ヤスナは非常に密着しようとしているが、ぼくは布団をほとんどかぶらずにガードに使っているので体温は感じるものの、恐怖の「触れる」というところまでいかなかった。

 まさにテリブルサラエヴォ。まったく寝れない。ヤスナは既に寝息を立てている模様。いやいや気を許してはいけない。これは徹夜だなと色々考えているうちにだんだんと外が白んできた。と思ったら一瞬寝てしまったようだ。

 ボスニア&ヘルツェゴビナ ボスニア&ヘルツェゴビナ/サラエヴォ ヤスナの家(プライベートルーム) 2004年6月17日泊
ヤスナの家 ヤスナの家
宿泊料1泊で10ユーロ、バス・トイレ共同、朝食付(朝早く逃げるように出たのだが、それでもパンをくれた)
どこの情報ノートにも必ず日本語で注意喚起してあるあのサラエヴォの「イヴァナの家」がこの宿です。そうです、なんと改名していたのです!! 自称31歳だがもうかなり微妙。確かに昔の写真は結構なブロンド美人だが・・・
市内観光は全て同行してくれてそれは非常に有り難くはあるが、問題は夜だけ。怖かった・・・
興味の無い人は絶対止めたほうが良いのだが、今思うと、彼女は純粋に日本人が大好きな白人女性という極めて稀で貴重な存在ではないだろうか、と最近では好意的にさえ思てくる。できれば幸せになって欲しい。
部屋はボロアパートの最上階でサラエヴォ市内を軽く見渡せる場所にあるが、セルビア人共和国に比較的近く、朝早くセルビア入りするなら近くからセルビア人共和国側バスターミナル行きのバスがあります。また多分ベッドにはダニがいると思われる。

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