『泣かないで』 彼女はそう言った。 パチパチと炎がはぜる。それは、血の海の中にいる自分達をまるごと飲み込もうとしていた。 『泣かないで』 彼女はもう一度言った。 今まさに死に逝くその時に、彼のために笑った――。 シアンは薄っすらとぼやける視界を無理矢理こじあけるように起き上がった。眠ると必ず見る夢。その中に出てくる少女の面影が、目に焼きついて離れない。長い生の中で、決して忘れることはできないであろう出来事。 ふと、安宿の薄い壁の向こうから、何かを呟く声が聞こえた。少女の聖書を朗読する声だ。 一緒に旅をしている少女、イリスは起きるたびに聖書を朗読している。信仰心を持っていないため、聖書や十字架に苦痛を覚えることのないシアンだが、イリスのその声はなぜか耳に残った。 何かを必死に願っているような、ひしひしと伝わってくる言い表せない感情を、その声は宿していた。 朗読し終わったのか、声が止んだ。がさごそと物音がしたと思うと扉が開かれる音が聞こえ、ほどなくシアンの部屋の扉が叩かれた。 「シアン、起きてる?開けるよ?」 「……あぁ」 シアンはベッドから起き上がり、コートを羽織ながら答えた。 「もう宿を出るよ。今から町を出たら夜明けまでには次の町につくと思うから。先に外に出てるね。」 イリスはそう言うと、静かに扉を閉めた。 「ねぇ、今日お祭か何かあるのかな」 「……………」 一晩中歩いて次の町についた二人が目にしたのは、異様な光景だった。 まだ日は昇っていない。普通ならば人は寝ている時間である。にもかかわらず、全ての家の窓には明かりがつき、人々は町の中心に向かって歩いていく。 その人々のイリスとシアンに向ける視線が、やけに刺々しい。 シアンはイリスの問いに答えずに、人々の後を追うように進んでいった。 「何これ……」 イリスが呟いた。 町の中心にある広場には、広場を取り囲むように十字架が建てられ、その十字架の輪の中に人々が集まっていた。かがり火が焚かれたそこは、まだ夜も明けていないというのに昼間のように明るい。 広場の中心の一際大きな十字架には、若い女が手足を縛り付けられていた。その足元には薪が積み上げられている。 「……処刑?」 「そのようだな」 イリスの呟きに、シアンが感情のない声で答えた。 「役人の姿がない。許可のない私刑は禁じられているのに、一体どうして」 その答えはすぐにわかった。 時間になったのだろう。神父らしき初老の男が女の前に立った。神父は持っていた紙を開き、文面を読み上げた。 「シェリーザ・バックヤード。汝、災いをもたらす吸血鬼なり。よって、神の御名のもとに汝を火あぶりの刑に処す」 文面を読み終えると、神父はまわりに控えていた男達に合図を送った。男達は女の足元に積み上げられた薪に油をまき始めた。 「違う……。あの人は吸血鬼なんかじゃない」 「……あぁ」 吸血鬼であるシアンはもとより、ハンターであるイリスも人か吸血鬼かを見分ける能力はある。 男達がたいまつに火をつけた。十字架にしばりつけられた女の顔が歪む。 「待って!!」 今まさに火がつけられようとした瞬間、イリスは叫んだ。 予想もしなかった制止の声に、男達は一様に驚いた顔をして手を止めた。 イリスはそのまま驚いている人々をかきわけ広場の中心に飛び出し、呆然としている神父に向かって言った。 「この人は吸血鬼じゃない。それに、サントシエーヌ教会の許可はとったんですか?」 女も唖然としてイリスを見詰めている。 「……見ぬ顔だな。よそ者か。よそ者はさっさと出て…」 「この人は吸血鬼じゃない」 畳み掛けるようなイリスの言葉に、神父は言葉をつまらせた。 「この女は、魔物の子を産んだ。吸血鬼も同然だ」 「だから、処刑しようとしたんですか」 「……そうだ」 「なら、この方は私にまかせてもらえませんか?」 「何を……」 神父たちの目が驚きに見開かれる。 「私はサントシエーヌ教会のハンターです。この件は私が一時預かります」 湿ったかび臭い空気があたりを覆っている。 「こっちです」 イリスの説得により、十字架から下ろされた女性の案内でイリスたちは教会の奥に入っていく。 シェリーザというその女性は、あちこちに傷があり憔悴しきった様子だが、心配したよりもしっかりとした足取りで進んでいく。 「ゼシア!!」 その子供は教会の最奥にある牢に閉じ込められていた。 最初に見えたのは、紅。膝をかかえてじっとうずくまっているその子供の髪の色だった。 「お母さん……?」 シェリーザの呼びかけにゼシアは顔を上げた。その両目も髪と同じ真紅だった。口元からは微かに鋭い牙がのぞいている。 「……ダンピール」 イリスの呟きにわずかな動揺が見えた。 「ダンピールなど、お前の職業柄めずらしいものではないだろう」 「………うん」 牢の鍵を開けると、シェリーザは娘の名を叫びながらゼシアに抱きついた。ゼシアも母親に会えて安心したのか、シェリーザの背に手を回して泣き始めた。 その涙に濡れた紅い瞳がイリスとシアンを捉えた。見慣れない二人に怯えた表情を向ける。 シェリーザはそんなゼシアを抱きしめながら言った。 「この子は確かに、私と吸血鬼の間に生まれた子供です。でも、今まで人の血を飲んだことも、誰かを襲ったこともありません」 シェリーザはさらに強くゼシアを抱きしめた。 「町の人が吸血鬼を恐れるのはよく分かります。だけど、それでも……」 シェリーザは言葉を飲み込むように口を閉じた。 「それでも、私にとっては一人だけの大切な娘なんです」 最後の言葉は消え入りそうだった。 「でも、なぜ今更この町の人間は、あなた達を処刑しようとしたんですか?」 「誰かが、密告したのです。この子が、ダンピールだと。私たちはただ静かに暮らしていただけなのに、それなのに………」 誰も声を発さない。シェリーザのすすり泣きだけが、その場に響いた。 「ねえ、お姉ちゃん」 ゼシアがシェリーザの肩越しにその大きな紅い瞳でイリスを見つめた。 「お姉ちゃんも私と同じだね」 イリスの顔色がさっと変わった。 「お姉ちゃんの髪と目、私と同じ色してる」 「……そうだね」 ぎこちなく微笑みながら、イリスはそう言った。 「お姉ちゃんは何をしてる人?」 「ハンターだよ」 「ハンターって、吸血鬼をたおすんだよね」 「……そうだよ」 「じゃあ、私も殺すの?」 ゼシアの問いに、イリスの瞳が大きく揺れた。 シェリーザは肩を震わせ、ゼシアを抱きしめたまま振り返り、不安に満ちた目でイリスを見上げた。 「ううん、そんなことしないよ」 イリスは静かに微笑んだ。 「サントシエーヌ教会に保護を要請します。今は昔と違って、ダンピールだからとむやみに処刑するようなことはしません。……血を飲んでみたいとか、太陽の光を辛いと感じたことはある?」 ゼシアは首を横に振った。 「それなら、今のところ吸血鬼化する心配もなさそうだし大丈夫でしょう。とりあえず後の問題を考えるより、一刻もはやくこの町を出ましょう」 「そうだな。このまま町の連中が黙っているとは思えん」 「シェリーザさんも、それでいいですね?」 その言葉にシェリーザは頷いた。 「それじゃあ、行きましょう」 イリスがそう言い終わる前に、突然爆発音が聞こえた。耳をつんざくような轟音に、頑丈な石造りの壁がびりびりと震える。 「な、何!?」 「外だな」 また轟音が響いた。ぱちぱちと何かがはぜる音がする。小さな明りとりの窓から、オレンジ色の光が差し込んでくる。 シアンの脳裏に、あの夢が蘇った。 「まさか!!」 教会のまわりを、大勢の人間が取り囲んでいる。皆手にたいまつや銃を抱えている。 「あいつら、教会ごと私たちを始末するつもり……!?」 「そのようだな」 イリスは歯ぎしりをした。 「とにかく、ここを脱出しなくちゃ!!」 「確か礼拝堂に避難用の地下道があったはずです!!」 シェリーザが叫んだ。 「ゼシア、行くわよ」 シェリーザは怯えたようにうずくまったゼシアを抱え起こそうとした。ゼシアは肩に置かれた手を振り払い、いきなり身を起こすとシェリーザの首に抱きついた。 「ゼシ…ア………?」 狭い牢の中に、血の匂いがたちこめた。 一瞬、何が起きたのか分からなかった。 後ろから見ていたイリスとシアンには、ただゼシアがシェリーザに抱きついているようにしか見えなかった。 「………あ」 シェリーザがうめき声を上げる。 ゼシアがシェリーザの首筋から顔を上げた。 シェリーザはゆっくりと倒れていく。大きく見開かれた目は、何が起こったのかを理解していなかった。 音を立ててシェリーザは堅い石の床に倒れた。そしてそのまま動かなくなった。 穴が穿たれた首から、真っ赤な血があふれ出していく。 ゼシアは黙ってそれを見下ろしていた。その口元は真っ赤に染まっている。 「ゼシア……?」 イリスは銃を抜くのも忘れて呟いた。 ゼシアの幼い顔に不釣合いな歪んだ笑みが広がる。母親をその手で殺したというのに笑っている。 ゼシアは呆然としているイリスに向かって牙をむいた。 「くっ!」 イリスは反射的に腰のホルダーから銃を抜いた。だが、手が震えてトリガーを引けない。 撃たなければ。 紅色がそこまでせまっている。 撃たなければ、やられる。 撃たなければ。 イリスの顔が悲痛に歪む。 「うっ……!」 突然ゼシアがうめき声をあげた。 イリスの目の前で鮮血が舞う。 「何をしている」 指についた血を舐めとりながら、シアンが言った。 心臓を一突きにされたゼシアがイリスの足元に横たわっている。 「なんで……」 イリスの言葉にシアンは答えない。 「なんで殺したっ!!」 激昂したイリスはシアンに掴みかかった。 「吸血鬼化したダンピールは殺すほかない。それはお前もよく分かっているだろう」 静かなシアンの言葉が冷酷に聞こえる。 イリスは黙って項垂れた。 横たわったゼシアの顔に、先ほどの狂気に歪んだ表情はない。 「行くぞ。ここで焼け死にたいのか」 「……………」 イリスはシアンの襟元を掴んでいた手を離した。 「あーあ、もう終わっちゃった」 太い木の枝の上から燃え上がる教会をながめながら、それはそう言った。 夜目にも派手な金髪をなびかせているのは、二十代前半と見える女だった。 「もっとおもしろくなりそうだったのに」 男物のマントを羽織ったその女性は、言葉とは裏腹に楽しそうに赤い口紅を塗った唇をつり上げた。 「まぁいいか。次はどんなことをしようかな」 猫のような金色の瞳が、闇の中に浮かぶ。 「ねぇ。君たちも楽しみだよね?シアン。それに、イリス」 くすくすと、笑い声が夜に溶けていった。 |