日が沈み、空には丸い月がぽっかりと浮かんでいる。 国の外れにある村は、交通の要所から少し外れていて寂れてはいたが、それでも女主人が一人で切り盛りするその酒場には、仕事を終えた男達が、一日の疲れをドンちゃん騒ぎで癒そうと騒いでいた。 その酒場のカウンターにその男はいた。 月の光を集めたような銀髪に、同じ色の瞳。細身の長身に黒いコートをまとっている。目つきは鋭く、貴公子のようなその姿は、泥臭い酒場の雰囲気には溶け込めていなかった。 酒場の客たちもはじめは男の様子をうかがっていたが、今は警戒することもなく酒を飲んでいる。 どうやら街道沿いではないが旅人がまったく通らないというわけでもないらしい。 男が酒場に入ったのには訳があった。 酒場には様々な人間が集まる。そしてそれと共に口伝えではあるが情報も集まってくる。ちょっとした噂話から重要なものまで、酒場では色々な話が飛び交っているのだ。 行き交う言葉の中に吸血鬼と言う言葉を聞きつけて、男は耳をそばだてた。 だが、酒場の喧騒がうるさく続きを聞くことができない。 男の様子に気づいた酒場の女主人が声をかけた。 「旅の方ですか?」 「……あぁ」 三十を少し過ぎた頃に見える女主人は、人懐っこい笑顔を浮かべ話し始めた。 「じゃあ知らないのも無理がないか。隣村、って言っても大分離れてはいるんですけどね。そこに吸血鬼が出たらしいんですよ」 吸血鬼。 人と同じ姿をし、人とは違い悠久のときを生きる夜の眷属。 普段は闇の中にひっそりと姿を隠しているが、時折人を襲いその血を吸う。 「何人か襲われて隣村がハンターを雇ったらしいんですけど、そのハンターに追われてこの村の方に逃げているらしいんですよ」 「ハンターか」 ハンターとは吸血鬼退治を職業とする人間のことだ。吸血鬼に引けをとらない運動能力と戦闘力をもつ彼らは、ほとんどがある組織に所属していると言われている。 「その吸血鬼、隣村を追い出されてから人を襲ってないそうですから、旅人さんも気をつけてくださいよ」 「あぁ」 冗談めかして言う女主人に、男は愛想笑いもせずに答えた。 なおも男に話しかけようとした女主人は、新たに入ってきた客に気がついて顔を戸口に向けた。 入ってきた客を見て、酒場の男達が好奇の視線を投げた。 入ってきたのは白い袖なしの服に鮮やかな紅い髪と瞳の十代後半と見える少女だった。手に大きな鞄をさげているところから、どうやら旅人らしい。 男達が視線を向けているのは入ってきたのが少女であるだけではなく、少女の容姿にも理由があった。 紅い瞳は目じりが少し上がっていて大きく、顎は細いがゆるやかな曲線を描いていて中々の美人だ。 少女は男達の視線を軽くかわすと銀髪の男の二つ隣の席に座った。 「いらっしゃい」 「お酒はいいので、パンとチーズとあとシチューお願いします」 「はいよ」 女主人に注文を言った少女がふと銀髪の男の方に振り向いた。 目が合う。 少女はにっこり笑うと、「こんばんは」と言った。 だが男は返事をせず、少女の顔をじっと凝視している。 その少女は、男の記憶の中の別の少女と似ていた。 「イルマ……」 男が思わず呟いた言葉が聞き取れなかったのか、少女がきょとんと首を傾げた。 「……いや何でもない」 男は何か言いたそうな少女を無視して酒を一口飲んだ。 しばらくそのまま酒を飲んでいた男は、外が騒がしくなったのに気づいた。 集団で歩く音と時折笑い声が混じる話し声。酒場の戸を開いて入ってきたのは、六人の男だった。 それぞれ埃で色褪せた服を着て鍛えられたたくましい筋肉をまとっている。一見するとただの農夫だが、持っているのは鍬や鋤ではなく、銃や剣だった。 一瞬酒場の中は水を打ったように静まり返った。そして、ひそひそと囁く声と男達を盗み見るような視線が交錯する。 囁き声の中にハンターという言葉が混じっていたのを、男は聞き逃さなかった。 どうやらこの男達が隣村が雇ったハンターらしい。 だが男達のまとう野卑な雰囲気は、悪の吸血鬼と戦うハンターには見えない。 酒場の客たちもそのことを感じたのか、警戒するように男達の動向を見守っている。 吸血鬼がこの村に逃げてきているというのは現時点ではあくまで噂でしかない。この村での実被害が出ていないため、不安を抱えながらも自分たちには関わりがないと村人の大半が思っている。むしろ、このよそ者のハンター達が何か問題を起こす方が面倒だと言うのが本音だろう。 ハンター達は歓迎されていない空気を理解しているはずなのだがそれを気にすることなく、店の一角に陣取った。 一番最初に店に入ってきた茶髪の体格のいい男―おそらくリーダー格だろう―が女主人に酒だと乱暴に言った。 女主人はハンター達が入ってきたときからの迷惑そうな顔を無理矢理接客用の笑顔に切り替え酒を運んだ。 酒場の客たちはまだハンター達を見ている。だが茶髪の男―仲間にアドルフと呼ばれていた―が威嚇のように剣の鍔を鳴らすと、皆いっせいにハンター達から目を逸らした。 そして少しずつ会話が戻ってくる。だがハンター達を気にして、小声での雑談というより密談といった方が正しい会話だ。 ハンター達だけが普通に会話をしている。 この間の吸血鬼がどうの報酬がどうの、周りに気を使わない大声が耳に障る。 やがて酒が入って酔いが回ったのか、追加の酒を運ばせた女主人に絡み始めた。 酒の相手をしろと言うハンター達は、他にも客がいるからと断った女主人の腕を強引につかみ、自分達の隣に座らせようとする。 ほかの客たちが助けようとしたが、ハンター達にすごまれて手を出せない。 銀髪の男はそれを鬱陶しそうに見ていた。 ハンター達が怖いわけでも歯が立たないわけでもない。むしろあの程度の人間なら一瞬で倒せる。 だが進んで面倒ごとに関わろうとするほど、男は善人ではなかった。 これ以上場が荒れる前に出ようと腰を上げかけた男の前を、紅い髪がふわりと通り過ぎた。 「いい加減にしなさい」 紅い髪の少女は女主人をかばうようにハンター達の間に割って入ると、静かにそう言った。 突然の乱入者にハンター達は目を丸くしたが、矛先を少女に変えた。 「なんだ、お前が相手してくれるのかよ」 女主人の腕を放し、そのまま少女に手を伸ばす。 ハンターの手が少女の腕に触れた瞬間、彼の手は少女に払われ彼はそのまま床に叩きつけられた。 思わぬ反撃にハンター達が気色ばむ。 「やめろ」 酔った勢いか剣を抜きかけた仲間をアドルフが止めた。しぶしぶながら剣を下ろした仲間を見ずに、アドルフは少女に言った。 「何者だお前」 アドルフが仲間に手を出させなかったことを、銀髪の男は評価した。大の男を投げ飛ばした先ほどの少女の動作には少しの無駄もなかった。信じられないようだが、この少女はこうした荒事になれているようだ。おそらくハンター達では相手にならなかっただろう。 その程度のことは見抜ける程度に、アドルフは少しは頭が切れるらしかった。 「サントシエーヌ教会から派遣されたハンターです」 少女の言葉にアドルフは顔をしかめた。仲間のハンター達も驚いたようにぽかんとしている。 「アドルフ・ノリスですね。あなた達の噂はよく聞きます。随分悪い噂ばかりですけど」 少女はアドルフを見据えながら淡々と言った。 「なるほど教会の人間か。まさかこんなところで同業者と鉢合わせするとは。それにしても、紅い髪と瞳のハンターか。どこかで聞いたような……」 少女に心当たりがあったのか、アドルフは遠慮の欠片もなく少女に視線を向けると考え込むように口元に手を当てた。 やがて思い至ったのか口元から手をどけにやりと意地悪く笑った。 「俺もあんたのことは聞いたことがある。イリス・ウィンスレット。シスター・ゼノヴィアの切り札、呪われた……」 「呪われた、何です?」 アドルフの声を遮るように少女――イリスが言い放った。瞳にそれまでなかった剣呑な光が浮かんでいる。 一瞬のうちに張り詰めた空気に、思わずアドルフが息を呑んだ。 反射的にハンター達が剣に手をかける。 「手を出すな」 アドルフはそれを制止すると、「行くぞ」と言い背を向けた。 リーダーが退くと思わなかったのだろう、仲間のハンターたちは呆気に取られた顔をしたが、慌ててアドルフに従った。 「お騒がせしてすみませんでした」 イリスが、これもまた呆気にとられている女主人にそう言った。 女主人は我に返ったように目を見開いて言った。 「いや、助かったよ」 酒場にハンター達が入ってくる前の喧騒が戻ってくる。 銀髪の男が見ると、イリスは近くにいた男の一団に酒を勧められている。 銀髪の男は客の笑い声が響く酒場を後にした。 酒場の外に出ると、満月が冷たい光をあたりに落としている。男はしばらく歩いて、村の外れに出た。この場所には家はなく、道の両脇には木が生い茂っている。酒場の中とは反対に誰もいなくて、ぽつんぽつんと人家の明かりが見えるだけで静かだった。 「待って」 男を呼び止める声がした。 そのまま無視しようとしたがさらにもう一度制止の声がした。 男が首だけで振り向くと、先ほどの少女が立っていた。 手に鞄を持っているところを見ると、酒の誘いを断って酒場を出てきたらしい。 「……何だ」 友好的とは言えない男の返答に、イリスはにこりと笑った。 「ちょっとあなたに用があるの」 男は思わず眉をひそめた。 男は別にイリスに用があるわけでもないし、わざわざ付き合ってやるほどお人よしではない。それに、こんなところで無駄な時間を使うつもりもない。 何しろ、男は夜の間しか動けないのだ。 男は少女を一瞥することもなく、イリスに背を向けた。 その背にイリスが声を投げかける。 「逃げるの?吸血鬼さん」 その言葉に男は足を止めた。 今度は体ごとイリスを振り返る。 イリスは相変わらず笑っている。 「……気づいていたのか」 「これでも一応ハンターですから」 言下に、さっきのやつらと一緒にしないでほしいと言っている。 「それで。ハンターが私に杭を打ちにでも来たのか。言っておくが、村を襲ったのは私ではない」 吸血鬼は日の光を浴びるとその身は灰になり滅びてしまう。また流れ水にも弱い。 だから吸血鬼退治は太陽の出ている昼の間か、彼らの動きが鈍くなる雨の日に行われる。 だが、今は夜。空に雲はなく、闇の眷属である吸血鬼に力を与える月は満月。吸血鬼にとって最高の条件がそろっている。 こんなときに吸血鬼に挑むのは、よほどの馬鹿か腕に自信があるかだ。 「いいえ。夜の吸血鬼を相手にするほど馬鹿じゃないわ。それに、あなたは隣村を襲った吸血鬼ではないしね」 「なぜ、そうだと分かる?」 「日が沈んですぐに、東の方に狼煙があがってるのを見なかった?隣村にいるハンターに頼んで置いた合図よ」 イリスは声を低くした。 「吸血鬼が、出たのよ」 男は黙ってイリスを見た。 「吸血鬼が隣村から逃走したっていうのはデマよ。昨日退治しようとして失敗して取り逃がしただけ。でももしかしたらこっちに来るかもしれないから私が派遣されたの。あの村からここまで普通の人間で半日はかかるわ。吸血鬼の脚力でも、まだこの村には着いていないわ。だから、あなたはあの村を襲った吸血鬼ではない。ついでに言うと、さっきのハンター達はこの噂に乗じて報酬を騙し取ろうっていう魂胆よ」 「そうか。……それで、私に用とは何だ」 さっさ言えと言わんばかりの男の態度に、イリスは苦笑した。 「ちょっとね、聞きたいことがあるの。同族のことなら、少しぐらい知っているでしょう?あなたみたいな銀色の髪に紅い瞳の吸血鬼をしらない?」 銀色の髪の吸血鬼は珍しい。大体が人間と同じような黒や茶色の髪をしている。 イリスが言ったその吸血鬼に、男は心当たりがないわけではなかった。だがこれ以上この少女につきあうのは面倒だった。 「知らんな」 「そう。ありがとう」 イリスは少しがっかりしたような表情を見せたが、すぐにもとの笑顔になった。 「それじゃ、引き止めちゃってごめんなさい」 男は少しの間イリスの顔を見て、唐突に背を向けた。 このまま、ここから立ち去るつもりだった。 「よう、こんなところで何してるんだ?」 木の陰からアドルフが姿を現した。にやにやと笑いながらも、その目は油断することなく男とイリスを見据えている。残りのハンター達も木々の間から出てきた。 男とイリスから適度に距離をとりながら、逃げられないように二人の退路を塞ぐように取り囲んでいる。共に銃のとどく距離だが、ハンター達のほうが数で勝っている上、彼らはすでに銃を抜いている。今戦闘を始めればどちらが勝つかはっきり予想できた。 「ミス・ウィンスレット。ハンターが吸血鬼と立ち話とは、感心しないぜ」 「あら、盗み聞きですか。趣味が悪い」 イリスの徴発をアドルフは鼻で笑って受け流した。 「教会もびっくりだろうな。ハンターが吸血鬼と共謀しているなんてな。吸血鬼と裏切り者を始末すれば、村からは報酬が貰え教会での俺たちの評価もあがる」 ハンター達に囲まれながらも不適な笑みを浮かべていたイリスも、分かりやすすぎるアドルフの言葉に呆れている。隣に立っている男はアドルフの言葉を聞いているのかいないのか、眉一つ動かさない。 「一応言っておきますけれど、違います」 イリスはアドルフを睨んだ。 「そんなこと分かってるさ。でっちあげでも何でもいい。報酬さえ貰えればそれでいいんだ」 アドルフと仲間のハンターは、銃を構えた。 「まぁ、悪く思うなよ。俺たちはお前みたいにいい人間じゃないんだ」 アドルフがそう言った。だが、イリスはアドルフを見ていなかった。 「危ない!!」 イリスが怒鳴った。その瞬間、誰かが叫んだ。 「ぎゃっ!」 アドルフの斜め後ろにいたハンターは叫んだ後、銃を取り落とした。両目は見開かれ、口は叫び声をあげたままの形で固まっている。 男とイリス以外は気がついていなかった。一人の男が後ろからハンターを羽交い絞めにして、その首筋に食らいついている。 「な……」 アドルフをはじめ、ハンター達は何が起こったのかわからないまま、それを見ていた。 吸血鬼に食いつかれたハンターはしばらくの間体を痙攣させていたが、やがてそれも止まった。牙の刺さった首元からは鮮血がハンターの着ているシャツを濡らしている。 吸血鬼の爛々と光る目が、アドルフを捕らえた。 アドルフは反射的に銃を構えた。だがそれよりも、吸血鬼がアドルフの喉下をその鋭い爪で切り裂く方が早かった。首から血を噴出しながら、銃を構えたままアドルフは倒れた。残りのハンター達の反応はまちまちだった。恐れをなして逃げるのが二人。一人は腰を抜かして逃げられもせず、一人だけが応戦しようとしたが、すぐに吸血鬼に腹を切り裂かれた。 「あれが、隣村を襲った吸血鬼……。まさか、もうこの村にいたなんて」 イリスの言葉と同時に、吸血鬼が二人に体を向けた。狙いをイリスと男に向けた吸血鬼は、牙をむきながら二人に向かって突進してくる。 「今度は私たちってわけね」 イリスは腰のホルスターに手をかけた。銃身の長いそれは、少女が扱うには重そうに見えた。銃を構え、安全装置をはずして照準を吸血鬼に合わせる。だがそこで、イリスの手は止まった。 急に空気が密度を増した。呼吸もできないような息苦しさに、冷や汗が額に浮かぶ。 「お前のような下賎なものが、私に手をかけようとするとは」 男は吸血鬼に向かってそう言った。男の体から発せられた鬼気が、あたりを充満する。夜風にコートを揺らしながら、男は吸血鬼に向かって歩み出した。殺気に恐れをなしたのか、吸血鬼は後ろに引いた。 男が立ち止まる。 「いいだろう、かかってこい」 しばらくの静寂。緊張の糸が切れたのか、吸血鬼はいきなり男に向けて走り出した。男はコートの中から右腕を出した。 次の瞬間、吸血鬼の絶叫が夜の空に響いたかと思うと、その姿は塵になって掻き消えた。 「つまらないことに巻き込まれた」 「……それは、ごめんなさい」 呆けて先ほどの一部始終を見ていたイリスは、男の言葉に苦笑しながらそう言った。 男とイリスの周りには、死体が四つ転がっている。 「あぁ、教会に報告しなくちゃ」 「なぜこの者達を助けなかったのだ?お前なら、その銃であの吸血鬼を撃てただろう」 「……無理よ。動きが速すぎて、間違えてこの人たちを撃ってしまっていたかもしれないもの。それに、油断していたこの人たちも悪いのよ」 淡々と言いながら、イリスは男に背を向けた。元来た道を引き返そうとしたイリスを、男は呼びとめた。 「前に、どこかで会ったことはないか?」 「え?」 イリスは心底不思議そうな顔をした。そして、きっぱりと言った。 「ないわ。あなたみたいな吸血鬼に会ったら、忘れるわけないもの」 「……そうか」 男はそのままその場を立ち去ろうとした。 「やっぱり、気が変わったわ」 イリスはぽつりと呟くと、男に向けて言った。 「ねえ、私も一緒に行っていいかしら」 男は眉をひそめた。 知り合って間もない者と一緒に旅をするなど、男にとって煩わしいこと以外の何物でもない。 「……好きにしろ」 だが、男は断らなかった。何故だかは自分でもよく分からない。 そのことを鬱陶しく感じて、それを振り払うように男は歩き出した。 イリスは男の後を追いながら言った。 「私はイリス・ウィンスレット。あなたは?」 「……シアン・ヴォルフィーヌ」 シアンの名前を聞いて、イリスは微笑んだ。 |