四章

   1

 雪が降っていた。
 雪はこんこんと降り続け、見渡す限り一面を雪原に変えていた。分厚い雲と降り続く雪に遮られ、月も星も全く見ることはできなかった。
 納屋の窓からこぼれる光が、闇の一部を切り取っていた。周囲を照らす光はそれだけ。こぼれる光に映える雪の白さが妙に目についた。
 窓から見える納屋の中には、男女が一組立っていた。服装からは、何者かは判別がつかない。男は女より頭一つ高く、女が男を見上げていた。
 男は長身で頑丈な体躯をしていた。肌は陽でやけていて、整った顔立ちをしている。瞳が優しく暖かい。見る対象を柔らかく包み込むよう。今はその瞳で女を見つめていた。
 その視線を真正面から受ける女は、熱い瞳で男を見返していた。魂を燃やすような情熱的な感じで、しっかりと男の前に立っている。
 ややあって、男はゆっくりと女の後頭部に右手を伸ばした。女の長い髪を結ぶ赤いリボンに手をかけ、引いてほどく。リボンを解かれた髪は、緩やかにひろがっていった。
 解かれた髪は美しく、川の流れを思わせる。その川に、男が放した赤いリボンが流れ落ちていく。リボンは緩慢に流れ落ち、視界から消えていった。
 男の手は、髪を一すくいしながら頬に移る。手が包むように頬に触れると、絡んでいた髪がさらさらと元にかえっていった。
 女は、男の手が頬に触れると、ぴくりと動き、恥ずかしそうに男を見上げた。
 その様子に、男は照れたように微笑した。
 ――くすくすくす。
 二人はお互いに照れた微笑を浮かべている。やがて男の方がゆっくりと女に貌を近づけた。男の唇が女の唇に軽く触れ、離れる。そして再び女の唇に口づけた。今度は女の唇を貪るように深く、強く。
 雪の落ちる勢いが強くなり、寒さが身に染みた。両足が凍てついた気がする。
 動けないのは、寒さのためだろうか。
 それとも、別の何かのためだろうか。
 どちらにしろ、もう見てはいられない。

「あ……、お兄さま……!」

   2

 雪の勢いは朝になっても衰えず、それどころか、ますますその勢いを増しているようだった。
「良い日だ」
 黒木は、そう呟くように言って、横に立つ一葉を見る。
「あの日もこんな雪だった。全てが元に戻るのに、これほど相応しい日はあるまい」
 一葉は答えない。その表情は前髪が隠してわからなかった。
 しかし、それを気にした様子もなく、ふふ、と黒木は微笑を浮かべ、再び視線を窓の外に向けた。
 不意に眉をひそめる。
 視線の先に、制服姿の男性を認めたからだ。
 その男は傘を差しながら、こちらを悠然と見上げていた。
「落合」
 黒木はその男の名を呟く。二人の視線が絡み合った。
 アパートの二階の部屋と道路。距離にして十メートルほど。
「なんのつもりだ」
 勿論、黒木の声は、距離と吹雪によって落合には届かない。だが落合にはそれが通じているとの確信があった。
「今さら、お前がじたばたしても遅いのだぞ」
 しかし、落合は微笑を浮かべて黒木と一葉を見続けている。
 もう遅いのだ。
 今日の儀式が終われば、一葉は完全にこの世界から消え、黒木のものになる。今さら、契約者でもない落合がどう動こうとも、影響はない。
 そのはずである。
 だがあの余裕は何なのだ。黒木は、そう苛ついた。
 その上、更に黒木を苛つかせる出来事が起こった。
「……もう少し……」
 そんな呟きが、横から聞こえたのだ。
「一葉……!」
 黒木は愕然と目を見開きながら、横に立つ一葉を見る。
 相変わらず、一葉は前髪に表情が隠されて、何を考えているかわからない。だが黒木には、微かに笑みを浮かべているようにさえ見えた。
「どういうことだ!」
 一葉は答えず、ただ窓の外を見ているよう。
「一葉!」
 黒木は一葉の両肩を掴んだ。強く揺らし、問い質す。
 一葉は相変わらず黒木になされるままである。
 しかし。
 揺らされて前髪が散り、その表情がのぞいた。
「うっ……」
 そこにのぞく冷たい瞳を、黒木は茫然と見つめた。
「ま、まさか……」
 黒木は、またも視線を窓の外に向けた。だが、そこにはもう落合の姿はない。豪雪が、彼がいたという痕跡を消していた。
 ここにいたって、ついに黒木も悟らざるを得ない。一葉に対する影響力が弱まっている理由は一つしかないのだ。
「あの男……」
 憎悪を込めて黒木は呟く。
「また、私の雪子を奪うのか」
 その憎悪の瞳の先に確かに裕介はいた。そして黒木は裕介の更に先に、ある男の姿を見ていた。
 日高秋作。
 その男は、いつの間にか兄妹のそばにいた。町の富豪の息子だということで、なにかにつけて黒木家を援助していた。
 当時、黒木家は完全に没落していたのだ。
 もともと、黒木家はその土地で名の知れた地主であった。戦前は二百町歩ほどの田を所有していたほどである。
 しかし、戦後の峻烈な農地改革によって、そのほとんどの田を失った。在村地主の所有限度が自作地三町歩、小作地一町歩と定められたのだ。残りの一九六町歩は、強制的に適正価格で買い上げられた。
 その上、黒木家の当主であった父は、サイパン島で戦死していたのだ。その前年には、祖父が他界しており、黒木家には兄妹だけが残されていた。
 兄妹にはもともと母親はおらず、そのことで、二人は父がどこかで作った私生児だと噂されていた。そのため、戦後黒木家には誹謗中傷がはびこり、近づく者はほとんどいなかった。兄妹は、まさしく二人だけで、肩を寄せ合って生きていたのだ。
 そんな時に現れたのが日高である。
 日高は黒木家の窮状を知ると、躊躇いもなく援助の手を差し伸べた。私生児の噂や、それから派生した誹謗中傷などは、全く意に介さなかった。
 黒木家の衣食住の全てが、日高の援助によって息を吹き返した。紛れもなく、日高は兄妹にとって命の恩人であった。
 ただし、黒木は最初から日高に胡散臭さを感じていた。その全てが気に入らなかったのだ。
 その親切心。その笑顔。その雰囲気。
 そして何より、その目。
 苦労を知らぬ目。恵まれている者が貧困に喘ぐ者を見る、同情という名の侮蔑。全てが自分の思い通りになると思っている、驕慢な意志の光。
 最初は、それでも我慢が出来た。日高の思惑がどこにあるにせよ、命の恩人である。感情の命じるままに反発するのは、間違っているはずである。そう思って。
 だがそれも、日高の視線が雪子に注がれるまでの短い間だけだった。日高の目的は、最初からそうであったのだ。
 当初、雪子も日高に対して疑惑を持っていた。だがいつの間にか、好意的な視線を日高に送るようになっていた。それどころか、疑惑を口にする黒木に、日高の弁護までするようになっていった。
 黒木にはそれが信じられなかった。今まで二人で、二人だけを必要として生きてきた。その中に他人が入る余地など、ありはしない。
 それなのに。
 お前は騙されている。あの男は危険だ。黒木は何度、雪子にそう言ったかわからない。だが今までなら、黒木の命令に逆らったことのない雪子が、この時ばかりは従わなかった。
 そして、破局は唐突にやってきたのだ。

 それを見た瞬間、黒木は何も考えられなかった。頭の中は、降りしきる雪のように真っ白であった。身体の芯まで凍らせるような寒さが、深く深く身に染みた。
「……雪子……」
 知らず、妹の名を呟く。
 次いで、怒りが湧いてきた。それも、今まで経験したことのないほどの激情だ。心の中が怒りで荒れ狂う。
 その怒りは青白く光り、身体に降りかかる雪を溶かしていった。その度に湯気が上がり、妖しく黒木を映し出していた。
 相貌が憎悪に歪む。気がつけば、納屋の戸を押し開けていた。
「あ……、お兄さま……!」
 雪子の驚愕した声が耳に入った。
「日高っ!」
 黒木は雪子に構わず、日高に突き進んだ。
「お兄さま、やめて!」
 雪子が中に割って入るが、黒木の腕の一薙ぎで振り払われる。
 きゃっ、と短い悲鳴をあげて、雪子が倒れた。
「雪子さん!」
 慌てて、日高が雪子の所へ行こうとする。
 だが黒木がそれを遮った。
 憎悪の瞳で日高を見やり、次いで鳩尾に拳を叩き込む。たまらず前屈みになった日高の背中に容赦なく肘を落とし、間髪入れず顔面を蹴り上げた。
 日高が壁に吹き飛ばされ、ぐったりとなった。口許から血が出ている。
「日高さんっ!」
 雪子は悲鳴を上げながら、日高の元に駆け寄った。
 黒木が近くにかけてある鎌を手に取った。
「どけ、雪子」
 冷たく言い放ち、二人を見下ろす。
「嫌よ!」
 日高を庇うように身体を覆いかぶせながら、雪子は黒木を睨んだ。強烈な意志の光が、黒木を射抜く。
「そいつは殺さねばならない。どうしてそれがわからない!」
「どうしてそんなこと言うの! 日高さんは何も悪くないじゃない!」
「お前を騙した」
「騙されてなんかない!」
「お前を奪った」
「奪われてなんかない! あたしの意志なの!」
「それが騙されている証拠だ」
「お兄さま!」
「煩い! しばらく眠っていろ」
 そう言うが早いか黒木が屈み、雪子の腹に拳を入れた。
 雪子は呆気なく気絶した。
 ややあって、雪子が目覚めたとき、寒さと異臭を強烈に感じた。
「もう起きたのか」
 そういう黒木の声が、ぼやけた頭に響く。
 それでも醒めていく頭が、状況を思い出していく。完全に思い出して、はっとしたとき、雪子は身体の自由がないことに気がついた。
 後ろ手に縛られていた。脚も縛られている。そして、身につけているのは、手足を縛るその縄だけであった。
「お、お兄さま、これはいったい……、なっ!」
 雪子は、上体を起こし目の前に立つ黒木を見た瞬間、驚愕に目を見開く。黒木は、その白皙の肌の上に赤い血をべったりとつけていたからだ。雪子は、異臭が何の臭いなのか突然理解する。
 恐怖の想像が雪子の脳裏をよぎる。
「ひ、日高さんは……?」
「日高なら、そこだ」
 黒木が視線で納屋の隅を差した。
 そこには、真っ赤な血の海の中に、何か物体が固めて捨ててあった。それが人間の部位だとわかった時、雪子は叫んでいた。
「いやあーっっっ!」
 日高だった残骸が、まだ血をわき出している。そこから強烈な血の臭いが納屋に吹き出していた。
「私の雪子に近づくのがいけないのだ。奴は雪子を騙して、私から奪おうとした。当然こうなってしかるべきなのだ」
 黒木がゆっくりと雪子に近づく。そして雪子の肩を掴んだ。
「最初からこうしていれば良かった」
 静かに呟く。
 その言葉がどういう意味なのか雪子には理解できなかった。雪子は、ただ涙を流し叫び続けているだけだった。
 そして。
 気がついたとき、黒木に抱かれていた。
 下腹部からくる強烈な痛みが、雪子の精神を現実に引き戻す。
「お、お兄さま……! な、なにをっ! いや! いや! いやー!」
「お前は誰にも渡さない。私のものだ。雪子」
「駄目っ! あたし達は実の兄妹なのよっ!」
「それがどうした」
 そう言った黒木の瞳は、その異常な行為に反比例してとても冷たかった。
 一瞬、雪子がひるむ。
「私たちの父は、誰を孕ませて私たちを産ませたと思う?」
「…………」
「黒木和子。実の妹だよ」
「なっ……!」
「どうせ、私たちは忌み子なのだ。ならば、忌まれることをして何が悪いのだ。どうせ、私たちは二人きりなのだ。こうなってしかるべきではないか」
「お兄さま……」
 雪子は滂沱を止められなかった。悲しそうな瞳で、兄を見続ける。
 黒木の冷たい瞳は妖しく光りながら、雪子を見返し続ける。口は何度も何度も彼女の名を呼んでいた。そして雪子の髪に、額に、口に、首筋に、胸にと口づけの嵐をふらせ、渾身の想いを込めて、雪子を抱きしめる。
 その異常な姿は、人を越えた美しさを持っていた。
「お兄さまは、雪に捕らわれてしまわれたのですね」
 悲しそうな声。
 そして。
「雪子?」
 黒木は驚愕して、雪子の白く美しい貌を見た。
 雪子の目はいつのまにか閉じられていた。白皙の肌からは、急速に生気が失せ始めている。
 その上、口許から流れる血――。
「ど、どうして……?」
 雪子は答えない。
「雪子……」
 黒木が茫然と、妹の名を呼ぶ。
 どのくらい茫然としていただろう。黒木が我に返ったとき、寒さで手足の感覚が麻痺していた。抱きしめていた雪子の肌から感じる熱も、ほとんど失せていた。ただ黒木の身体と触れている部分だけが、黒木の熱が伝わっているようで、まだ少し暖かい。それが、リアルに雪子の死を黒木に伝えている。拒否できない現実が、黒木の目の前にあった。
 雪子は自ら命を絶った。それは黒木を拒否したからに他ならない。
「何故だ……!」
 貧困に喘いでいたときも、忌み子として嫌われていたときも、お互いに、お互いだけがいれば、他は何も必要なかったのに。
 雪子が死んで、黒木は生きている。だが実際には、裏切られて、拒否されて、捨てられたのは黒木の方である。少なくとも、黒木はそう感じていた。
 脳裏に、雪子と日高が手と手を取り合って、幸せそうに笑っている姿が映る。それは、狂おしいほどの憤怒を、黒木に湧き起こさせた。
「雪子を誑かしただけでは飽きたらず、私から奪うとは……!」
 黒木は視線を巡らせ、血溜まりの上の物体を睨む。その眼光は、憎悪の極に達していた。雪子を抱きしめる腕に力が入る。
 雪子はこれから死の世界へと向かう。日高の待つ世界へ。
 そんなことがあっていいものか。
「渡さない」
 その物体に、黒木は言った。
 そして、雪子を抱え上げながら立ち上がる。
 もう一度、声を落とす。
「絶対に、渡さない」
 黒木は、雪子を抱えたまま納屋から出た。
「雪子は私のものだ」
 だから、雪子を死の世界へ、日高の元へなど行かせはしない。
 雪子は私のそばに永遠に留め置く。あの、日高に会う前の、従順で美しいままで。
 雪は、勢いを強めて降っている。視界一杯に白い雪が満ちていた。
 納屋からこぼれ出る光が切れた先は、真っ暗闇である。それでも、黒木はその中へ歩いていった。
 雪は雪子を連想させる。単純だが、それだけに明確にそう感じられる。だから、その雪を身体に取り込めば、雪子は蘇るはずだ。この暗く冷たい雪を取り込めば。
 黒木の歩みは止まらない。やがて、彼は雪子を抱きかかえたまま、雪と闇の中へ消えていった。

   3

 窓は白く曇っている。外の大雪による寒さが嘘のように、部屋の中は暖かかった。それでも裕介は、部屋の隅に膝を抱え蹲っていた。
 裕介は、昨夜は美波家に泊まった。そして、今日二葉とともに黒木の元へ行くことになっている。
 外の大雪から、今日は休校だということがわかる。それでも、黒木との接点が学校にしかない以上、裕介は学校へ向かうつもりだった。
 一葉を見捨ててしまった場所。一葉を取り戻し、元に戻すのなら、そこに行くしかない。そういう確信が裕介にはあった。
 しかし、幾つか懸念がある。
 一つは、本当に一葉という存在が、自分の幼なじみである美波一葉なのかという疑問。
 どこまでつきつめていっても、現実にいるのは黒木の横にいる南一葉なのだ。美波一葉の存在は、妄想を仮定として、それに更に妄想を積み上げていった砂上の楼閣のような感じがする。現実の前には何の力も持たず、裕介を突き飛ばす。
 そしてもう一つは、二葉のことだ。
 契約では、この件に関われるのは裕介だけらしい。とするならば、二葉と一緒に行って良いものだろうか。裕介はそう思い悩む。
 確かに、二葉が気がついたのは、言ってみれば裕介が気づかせたからで、あくまで成り行きである。畢竟、そうなるのが正解への道筋で、連れていっても問題はなさそうである。
 しかし、それでも慎重にならざるを得ないと思うのだ。契約が狭義で厳密であれば、連れていった時点で、南一葉が確定してしまうかもしれない。
 わからない。わからないが、その危険を侵すわけにはいかないと思う。それに、どんな危険なことがあるかわかったものじゃない。そんなところへ、中学生の少女を連れていっていいものかという、男としてごく単純な思いも存在する。二葉がいてくれた方が、とても心強いのだが、それに頼ってばかりもいられない気がするのだ。
「一人で行くしかないか」
 声にならない呟きを発して、裕介は立ち上がった。ゆっくりと客間を出て、屋内の様子をうかがう。
 二葉の姿は見えない。まだ部屋にいるのだろう。裕介はそれを確認して、美波邸を静かに辞した。
「賢明な判断だね」
 美波邸のそばで、落合が学校へ向かう裕介の背中を見ながら言った。
 落合がさす傘の下には、もう一人の人物がいた。
 落合は、その人物に視線を向ける。
「元に戻せるのは、彼一人。故に動けるのも彼一人。そういうことなのさ」
 それに頷きながらも、二葉の視線は裕介から離れない。
「裕ちゃん……」
 心配そうな声で呟いた。
「では、僕も行くけれど」
「どこに?」
「依頼を果たしに」
「……あたしはどうしたらいいの?」
「待っていればいい。……という言葉には頷いてもらえないのだろうね」
 落合が全てを見透かしたように微笑んだ。
「僕と一緒においで。決着を見せてあげよう」
 二葉が頷き、二人も雪の中に消えていく。
 勿論、裕介はそんなことに気づくはずもなく、学校へと向かっていた。
 学校の門扉は校門も通用門も全て閉まっていた。この大雪ではそれも仕方ないと思われる。だが校内に誰もいないというのは幸運なのか不運なのか、裕介には判断が出来なかった。
「高校生になってまで、門を乗り越えなきゃならないとはな」
 裕介は苦笑した。
 あまり運動神経の良くない裕介は、苦労しながら通用門を乗り越え、校内へ入った。
 しばらく進んで、屋上の見える位置に来る。裕介は、そこで屋上を見上げた。
 降りしきる雪が邪魔して、屋上の様子はうかがえない。はたして黒木はそこにいるのだろうか。
 いるという確信は持てない。それでも、そこしか思い浮かばない。
 行くしかない、と呟いて、裕介は校舎へと向かった。
 校舎の鍵は開いていた。最初からそうなのか。それとも誰かが開けたのか。それに考えをやる余裕もなく、裕介は校内に足を踏み入れた。
 傘を畳み手に持つ。
 武器になるものといえば、それだけだ。奇妙だが、大した戦いにはならないという確信が裕介にはあった。戦うために行くわけではない。一葉を取り戻し、元のあるべき姿に戻すのが目的である。その過程において、戦いがあるかもしれないが、そうなった時、自分に勝ち目はないだろう。裕介はそう思っている。元々腕っ節には自信がない上に、黒木は何十年と老いずに生きてきた化け物である。どんなことをしてくるか予想もつかない。
 では、どうやって一葉を取り戻すのか。その解答を裕介は持っていなかった。迫られた気持ちのまま来たといった方が正しい。
 階段を上る。一段上がるたびに、感情が裕介の身体に圧迫をかけ始める。行きたくないと心の奥底が泣き叫んでいるよう。前の経験が完全な敗北感となって刻み込まれ、それが傷をあぶっていた。
 呼吸が荒くなる。勿論、屋上までの階段が体力を減らしているわけではない。精神の消耗に、神経が音をあげ始めているのだ。
 それが限界に達したとき、裕介の目の前に屋上へと通じるドアがあった。
 裕介は、はあ、と大きく深呼吸して、ドアノブに手をかける。
 ゆっくりと開く。
 そして、一歩踏み出す。

   *

 雪が降っていた。
 雪はこんこんと降り続け、屋上一面を雪原に変えていた。分厚い雲と降り続く雪に遮られ、月も星も全く見ることはできなかった。
 給水塔の窓からこぼれる光が、闇の一部を切り取っていた。屋上を照らす光はそれだけ。こぼれる光に映える雪の白さが妙に目についた。
 窓から見える給水塔の中には、男女が一組立っていた。制服から、この学校の生徒だとわかる。男は女より頭一つ高く、女が男を見上げていた。
 男は長身で痩せていた。肌は白く、整った繊細な顔立ちをしている。瞳が鋭く冷たい。見る対象を突き刺して凍らせるよう。今はその瞳で女を見下ろしていた。
 その視線を真正面から受ける女は、虚ろな瞳で男を見返していた。魂を抜かれた感じで、ぼうっと男の前に立っている。
 ややあって、男はゆっくりと女の後頭部に右手を伸ばした。女の長い髪を結ぶ赤いリボンに手をかけ、引いてほどく。リボンを解かれた髪は、緩やかにひろがっていった。
 解かれた髪は美しく、川の流れを思わせる。その川に、男が放した赤いリボンが流れ落ちていく。リボンは緩慢に流れ落ち、視界から消えていった。
 男の手は、髪を一すくいしながら頬に移る。手が包むように頬に触れると、絡んでいた髪がさらさらと元にかえっていった。
 女は、男の手が頬に触れてもぴくりとも動かず、ぼうっと男を見上げている。
 その様子に、男は満足げに唇の端を上げた。
 ――くっくっくっ。
 男は冷笑を浮かべたまま、ゆっくりと女に貌を近づけた。男の唇が女の唇に軽く触れ、離れる。そして再び女の唇に口づけた。今度は女の唇を貪るように深く、強く。
 雪の落ちる勢いが強くなり、寒さが身に染みた。両足が凍てついた気がする。
 動けないのは、寒さのためだろうか。
 それとも、別の何かのためだろうか。
 どちらにしろ、もう見てはいられない。
 目を閉じて校舎へ走り出す。雪が足にまとわりついて、重く邪魔だった。寒さで感覚が消えかけている膝下は、自分の物ではないようだ。
 その時、突然、女の腕時計が鳴り響いた。アラームの音は決して大きくなかったが、それでも静寂を引き裂くのには充分だった。
 立ち止まり、振り返る。給水塔の中では、未だ二人は口づけていた。
 ――ピピピピピ、ピピピピピ、ピピピピピ、……。
 アラームの単調な音が耳についた。
 女はアラームを止めようともせず、男にされるがままである。改めて見たところで、状況は何ら変わっていない。惨めさが増しただけである。今度はもう振り返らないと決意しながら、再び目を閉じた。
 閉じる瞬間、女の瞳が目についた。その瞳には、意志が戻っているような気がした。愕然とこちらを見ている。しかし、決意は変わらない。校舎へと走り出した。
 ――ピピピピピ、ピピピピピ、ピピピピピ、……。
 アラームはまだ鳴りやまない。

   *

「くっ……」
 裕介の脳裏に映像が蘇る。それは、裕介の気概を木っ端微塵に打ち砕くのに十分であった。膝が震え、雪に埋まる足下の感覚が失せていった。
 所詮、妄想。
 そんな思いが敗北感とともにせりあがってくる。
「やっぱり、駄目だ……」
 弱々しく声に出した裕介は、踵を返そうとした。
 その時、後背から軽く肩を掴む者がいた。
「だ、誰だ……?」
 裕介が振り向くと、そこには女性がひとり立っていた。淡く光り、あろうことか雪の上に立たず、ふわりと浮いていた。
「か、一葉……? ……違う」
 一葉によく似たその女性は、悲しげに首を横に振った。
「だ、誰だ、あんた?」
 裕介の問に女性は答えず、首を横に振るばかり。だが、裕介の右ポケットを指差した。
 それで裕介は気づいた。ポケットに手を入れ、それを取り出す。
 赤いリボン。一葉の髪を括っていた、裕介からのプレゼント。
「そうだな。そうだよな。行かなきゃな」
 裕介は、信じてくれという一葉を、一度裏切った。それを償わなければならない。せめて、もう一度信じてみよう。自分の中の美波一葉を。そして、現実をしっかりと見よう。裕介はそう決意した。
 再び振り返り、給水塔を視界におさめた。
「ありがとう。だれだか知らないけれど。もう迷わない」
 裕介は、彼女を見ずに礼を言った。
 女性は微笑み、そしてふっと消えた。裕介は彼女を見ていなかったが、その気配で消えたと感じた。
「…………」
 そのことは全く気にならなかった。そういうものだとすら思った。しかも、そう思ったのは一瞬で、裕介の注意は全て給水塔に向けられた。
 雪は気にならなかった。手に持ったリボンを握りしめ、歩き始めた。
 やがて、給水塔の窓が見える。その中の様子もわかる。
 中には男女二人の影が見える。
 黒木と一葉だ。
「一葉……」
 裕介は呟いた。
 黒木の視線が裕介を捕らえる。冷たい双眸が裕介を射抜いた。そして黒木はにやりと笑い、一葉を誘って、給水塔の外へ出てきた。
 雪がやんだ。
「やはり来たな。だがもう遅い」
 黒木が薄く笑い、一葉の髪を愛おしげに撫でた。一葉はいつものように、為されるがままに立っている。表情は前髪が覆っており、相変わらずうかがえない。
「一葉……」
 裕介は呼びかける。
 しかし、一葉は答えない。
「無駄だ。一葉は私のものなのだ」
 黒木はそう言うと、一葉の顎に指をかけ、その唇を貪った。舌を絡め、深く強く貪る。
 その光景が、前のそれと重なり、裕介をしたたかに打ち付ける。
 だが裕介はひるまなかった。

「何があってもあたしを信じて」

 一葉はそう言った。
 だから、裕介は信じようと思った。今度こそ、自分の思いのままに、一葉を信じようと。逆に言えば、一葉の言葉を信じたかった。
「あの時のように抱く。そして、雪子を再び我が手に取り戻すのだ」
 黒木が呟いた。
 雪子は黒木が抱いている途中で逝った。故に、抱いている時に蘇れば元に戻る。
 今まで雪子に似た女性を捕らえてきて、それを繰り返してきた。抱くときに、そのために雪子を失った記憶が身体を襲った。結局、黒木が捕らえた女性を抱けるのは、あの日と同じ日だけだった。そして、今日がその日。雪子をその手中で失った日であり、手中に再び取り戻す日であった。
 黒木に抱かれた器は、その身体に雪子の魂を蘇らせて黒木の中に取り込まれる。黒木はその魂を糧として生きてきた。雪子の魂自体も完全に蘇ったわけではないので、新しい器を見つけて、それに留めおく。
 雪子の魂の復活具合は、だんだん完全になっており、恐らく今回で復活するだろうと思われた。
 今回の器は、それに呼応したように今までの女性に比べて雪子に似ていた。それがとても黒木を喜ばせていた。
「さあ、もうすぐだ」
 黒木は歓喜に打ち震えながら、一葉の制服に手をかけた。あの時のように震えはこない。この日だけは特別なのだ。
 勿論、裕介はそんなことを拱手傍観するわけにはいかない。
「黒木!」
 裕介はそう叫びながら、折り畳んでいた傘を振り上げ、黒木に打ちかかる。
「無駄だ」
 黒木は裕介に向き直ると、軽く嘲笑し、爛々と妖しく瞳を煌めかせた。
 すると、黒木の前方に白い靄がかかる。だがそれは一瞬で、氷の壁が出現し裕介の攻撃を阻んだ。傘は強い衝撃を裕介に伝え、ぐにゃりと折れた。
 人の出来る技ではない。だが裕介には、驚愕の暇は与えられなかった。黒木の拳が、裕介の鳩尾に打ち込まれたからだ。氷の壁はいつの間にか消えており、黒木が距離を詰めていた。
 鈍い痛みが裕介の全身を駆け巡る。それは嘔吐感を伴って上昇してきた。声すら上げられず、裕介は身体をくの字に折り曲げる。
 黒木の前に晒された無防備な背中が、黒木にはあの時とだぶって見えた。それを見て、黒木はにやりと唇の端を上げた。そして、あの時と同じように、前方に倒れ落ちそうな裕介の顔面を思い切り蹴り上げた。
 裕介は吹っ飛ばされ、倒れ落ちた。
 一葉は、それを何もせず見ていた。倒れた裕介を無表情に見下げる。
 裕介の意識は朦朧とした。血の味と嘔吐感だけが妙にリアルだった。
 やっぱり駄目なのかという思いが、裕介の無意識下に溢れそうになる。それを、辛うじて保っている意志が押さえていた。

「何よりもあたしを信じて。裕介があたしを信じてくれてれば、あたしは大丈夫だから」

 そう言ってくれた一葉の信頼を、もう裏切りたくなかった。だから、決して駄目だとは思わない。そう決めたのだ。
 裕介は、ともすれば深淵に落ちていきそうな意識を意地で取り戻し、上体を起こした。
「ほう」
 黒木が少し驚いたように、裕介を見た。
「なかなか頑丈だな。見かけによらない」
 そして冷笑。
「もっとも、それ以上身体は動かせないだろうが」
 そう言い捨てると、黒木は再び一葉の方を向いた。
「さあ、邪魔者はもういない」
 黒木が一葉の頬を撫でる。
「そうでもないわ」
「……何……?」
 風が吹いた。
 風は一葉の前髪を揺らし、隠れていた表情を露わにする。
 そこには、しっかりと意志の光を宿らせた瞳があった。
「……な……に……?」
 黒木は驚愕して、目を見開いた。
 一葉はゆっくりと手を上げて、頬に触れている黒木の手を払った。
 その手は力無く落ちる。
 それから、一葉は茫然と見ている裕介のそばへ行く。雪の上に跪いて、裕介の手を取る。
 満面の笑み。
「ありがと、裕介」
「か、一葉……」
「何も言わなくていいよ。わかってるから」
 そう言うや否や、一葉は嬉しそうに裕介を抱きしめて唇に口づけた。
「ど、どうして……?」
 黒木が茫然とした声で問う。
「どうしても何も、賭けでしょ。あたしが勝ったのよ」
 裕介が立ち上がるのを手助けしながら、一葉があっさりと言った。
「馬鹿なっ! 賭けは私の勝ちのはずだ。そいつはお前の信頼を裏切って、お前を見捨てたのだぞ!」
「それが?」
 何の感情も見せず、一葉が問い返した。
「それがとはどういうことだ! 負けたのはお前のはずだ!」
「あたしは、ここにこうして裕介の元にいるわ。それは裕介があたしを信じてくれたからでしょ。だから、あたしの勝ち」
「なんだと……?」
「わからない?」
 一葉は黒木を挑発的に睨んだ。
「あなたとあたしの信じるという行為に対する思いの違いよ」
「どういうことだ」
「一度のことでそれを裏切りとしてしまう。あなたの信頼はその程度なの」
 でもあたしは違う、と一葉が裕介にちらりと視線をやった。
「あたしは例え百万回騙されても、次の裕介を信じられる。あたしの信じるということはそういうこと。あたしは信じて信じて信じぬくの」
 くっ、と黒木が唸る。
「言ったでしょ、この賭には勝つ自信があるって」
「……馬鹿な……」
「それでは約束を果たしてもらうわ。もうあたしに関わらないでね。勿論、裕介はあたしの一部よ」
 それは黒木自身が為した呪詛であり契約でもあった。それに逆らう術は、呪詛を媒体としている黒木にはない。
「くっ……」
 黒木が憎悪の瞳で二人を睨む。
 裕介は怯んだが、一葉は何の痛痒も感じなかったようだ。
「もう消えて」
 冷たく言い放つ。
「くそっ!」
 黒木は叫んで、二人に襲いかかった。
「ここまで来て! 私の雪子! 失ってたまるものか!」
 憎悪の波動が激しく雪中を振るわせる。
 その瞬間。
 一陣の風が突き抜け、黒木に突き刺さる。黒木が茫然とそれを見る。腹部に突き刺さっているのは、長剣だった。
「がはっ!」
 黒木が血を吐き、膝をつく
「ま、まさか……、落合……」
 黒木の視線が虚空を彷徨う。ここにいるはずもない男に呪詛の言葉を吐くが、既に時は遅い。
「ここまで来て……、あと一歩というところで……」
 視線が裕介に向かった。その双眸は憎しみに溢れており、ぞっとする。
 その視線が一葉に向かった。
「雪子……どうして……」
 そして、黒木の身体が淡く光り、何十もの光が黒木から離れて飛び立っていく。その光の姿は女性に見えた。
 その全てが飛び去った後。
 黒木の身体は雪に溶けるようにして、消えていった。

「! ……令子……!」
 自宅の書斎で瞑目していた金子の前に、原田令子が現れた。
 令子の姿はあの時のまま。若く美しかった。
 令子、と金子はもう一度口にし、手を伸ばす。
 だがその手は令子の身体を突き抜けた。
 令子は首を横に振ると、手を伸ばし金子の頬に触れる。触れられた感覚は金子にはなかったが、確かに令子は金子に触れていた。
「そうか、中谷君が取り戻したのだね。そして落合君も依頼を果たしてくれたのだね」
 令子が微笑して頷いた。
「そうか、そうか」
 二人はしばらくそうしていた。
 だがそれも短時間。やがて令子が悲しげに微笑んで、口を動かした。
 何と言っているのかは聞こえない。だが、口の動きで金子にはそれがわかった。
「さよなら」
 同じ言葉を金子も呟く。
 こうなることは、令子が現れたときからわかっていた。令子は既にこの世の人ではないのだ。
「嬉しかったよ」
 その言葉に令子は頷いて、金子を抱きしめた。
 感覚はない。
 しかし、令子が消えていくのは感じられた。
「愛しているよ」
 消えゆく寸前、金子は令子に告げる。
 令子は優しく笑みを浮かべ、頷いた。
 そして、完全に消えた。
「令子」
 金子はしばらく、そのままでいた。瞳に何年かぶりに熱いものを感じながら。

「一体、何がどうなったの……?」
 二葉が茫然と落合に問う。
 二人がいるのは、黒木の部屋である。
 中央には、落合が設置した円状の鏡があった。落合の言によれば因果鏡というらしいそれは、先ほどまで、黒木の姿を映していた。黒木の姿は、淡く光っていた。
 黒木がどこで何をしているのかは、それを見ている限りではわからなかった。その鏡は黒木の姿だけを映していたからだ。
 二葉と黒木はそれを見ているだけだった。不審がった二葉が、落合にいろいろ問い質したが、落合は何も答えなかった。
 動きがあったのは、少し前。鏡の中、黒木がまとう淡い光が消えたような気が二葉にはした。そう思ったとき、落合が、短い呪文のような物を呟いたのだ。
 すると、落合の手から光が伸び、長剣を形作った。
 二葉が驚きの声を上げるが、落合は構わず、その長剣を鏡の中の黒木に向かって投げつけたのだ。長剣は鏡を割らず、鏡を越えて黒木に刺さった――ように見えた。その瞬間、鏡は黒木を映さず、光に反射した物を写す本来の役目に戻ったからだ。
「因果を操るのは、君だけの専売特許ではないよ」
 落合はここにはいない誰かに言った。
 そして、二葉に向き直る。
 二葉はもう一度、先ほどと同じ質問をした。
「ここに来る途中に説明したように、今回の件で関われるのは中谷君だけだった。そういう契約が為されていて、僕たちには如何ともしがたかった。だがそれがたった今切れた」
「切れた……」
 二葉はその意味するところを探る。答えはすぐに見つかった。
「裕ちゃんが、姉さんを取り戻したのね!」
 二葉の表情が歓喜に満ちる。
 落合が莞爾として笑い、頷いた。
「じゃあ、早く迎えに行かなきゃ!」
 二葉は手を叩き、今にも駆け出そうとする。
 しかし。
「それはやめた方がいい」
 落合にしては珍しく生真面目な表情になっていた。
「どうして?」
「それは――」

「……これで、終わったのか?」
 裕介は、黒木が消えていった場所を茫然と眺めながら呟いた。
「そうね。だいたいは……」
 答える一葉の声に微妙な陰を感じた裕介は、視線を向けて、問いかける。
 一葉が悲しそうに笑った。
「どうした……?」
「裕介に言わなきゃならないことがあるの」
「何を?」
「あたしは、もうすぐ消えるの」
 え、と驚いて裕介は一葉を見返す。
「黒木があたしにかけた呪いはね、彼の妹の雪子さんを蘇らそうとするためのものなの。それで、あたしの身体にはね、今まで黒木が為した儀式で少しずつ復活していた雪子さんの魂が入っているの」
「…………」
「裕介があたしを信じてくれたから、あたしはこうやって戻ることが出来た。それは、黒木の呪詛によって無理矢理蘇らされている雪子さんの消滅も意味することなの」
「それで、何故一葉が消えるのかがわからない」
 裕介の声は震えていた。わかってはいるが、それをどうしても抑えられない。
「あたし自身が既に雪子さんと融合してしまってるからよ」
 淡々と一葉が語る。
「そんな……!」
 叫ぶ裕介の前で、一葉の身体が淡く光っていく。
「ここで! こんなところで! 何故? 嫌だ!」
「ごめん、裕介」
 一葉が再び悲しげに微笑む。
「あたし、嬉しかった。裕介に信じてもらえてるってわかって」
「でも、一葉が消えるのなら、そんなことには何の意味がないじゃないか……!」
「そんなことないわ。あたしは美波一葉としてここにいる。それは裕介が信じてくれたから。裕介の幼なじみとして存在したあたしの証明だから」
「一葉……」
「裕介、それ」
 一葉が、裕介が握りしめている赤いリボンを指差した。
「つけて」
 言いながら、一葉はつけやすいように俯いた。
 裕介は言われるがまま、一葉の後頭部に手を伸ばし、髪をすくい上げる。
 震える手で、リボンを結ぶ。
「ありがとう」
 一葉がにっこりと笑った。
 光が増す。
「好きよ、裕介」
「一葉!」
 堪らず裕介は、一葉を抱きしめた。
「裕介……!」
 腕の中には確かに、感覚があった。
 だがその感覚があやふやになっていく。それを恐怖の眼差しで裕介は見続けた。
「さよなら」
 最後に一葉はそう言って、消えた。    


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