三章

   1

 雪が降っていた。
 分厚い雲と降り続く雪に遮られ、月も星も全く見ることができなかった。
 給水塔の窓からこぼれる光が、闇の一部を切り取っていた。屋上を照らす光はそれだけ。こぼれる光に映える雪の白さが、妙に目についた。
 窓から見える給水塔の中には、男女が一組立っていた。制服から、この学校の生徒だとわかる。男は女より頭一つ高く、女が男を見上げていた。
 男は長身で痩せていた。瞳が鋭く冷たい。今はその瞳で女を見下ろしていた。
 その視線を真正面から受ける女は、虚ろな瞳で男を見返していた。

 ややあって、男はゆっくりと女の後頭部に右手を伸ばした。女の長い髪を結ぶ赤いリボンに手をかけ、引いてほどく。リボンを解かれた髪は緩やかにひろがっていった。
 リボンは緩慢に流れ落ち、視界から消えていった。
 男の手は、髪を一すくいしながら頬に移る。
 女は、男の手が頬に触れてもぴくりとも動かず、ぼうっと男を見上げている。
 その様子に、男は満足げに唇の端を上げた。
 ――くっくっくっ。
 男は冷笑を浮かべたまま、ゆっくりと女に貌を近づけた。男の唇が女の唇に軽く触れ、離れる。そして再び女の唇に口づけた。今度は女の唇を貪るように深く、強く。
 雪の落ちる勢いが強くなり、寒さが身に染みた。両足が凍てついた気がする。
 動けないのは、寒さのためだろうか。それとも、別の何かのためだろうか。どちらにしろ、もう見ていられない。
 目を閉じて校舎へ走り出す。

 その時、突然、女の腕時計が鳴り響いた。アラームの音は決して大きくなかったが、それでも静寂を引き裂くのには充分だった。
 立ち止まり、振り返る。給水塔の中では、未だ二人は口づけていた。

 女はアラームを止めようともせず、男にされるがままである。改めて見たところで、状況は何ら変わっていない。惨めさが増しただけである。今度はもう振り返らないと決意しながら、再び目を閉じた。
 閉じる瞬間、女の瞳が目についた。愕然とこちらを見ている。

 ――ピピピピピ、ピピピピピ、ピピピピピ、……。

   2

 雪は、ますます勢いを強めていた。
 それでも裕介は、自宅に帰らなかった。
 向かった先は二葉の家である。
 迎え出た二葉が驚く。
「どうしたの、裕ちゃん。こんな時間に?」
「ちょっと確かめたいことがあって」
「確かめたいこと……?」
 ああ、と裕介は頷いた。
 裕介の表情は強ばっている。それは寒さのためだけではないだろう。何か思い詰めた感じがした。
「とりあえず上がって」
 二葉は裕介を中へ迎え入れた。玄関で、裕介の頭に積もっていた雪を払ってやる。それから、自分の部屋に入れた。
 裕介の身体は、雪の中に長時間いたため冷え切っていた。それでも、寒さは感覚として伝わっていなかった。裕介に伝わっていたのは、焦慮の感覚のみであった。
「これ、飲んで」
 二葉が、湯気のたったカフェオレを運んできた。
 ありがとう、と反射的に答えて、裕介はカフェオレに口をつけた。
 甘い味が口内に広がり、裕介は少し落ち着きを取り戻した。それを見計らって、二葉が尋ねる。
「それで、何かあったの?」
「うん……」
 裕介は、カップの中の薄茶色の液体を眺めながら、微かに頷いた。
「あまり、良いことではなさそうね」
 二葉が、裕介の様子からそう推測した。
 うん、と裕介はまたも微かに頷く。
「学校へ行ってた」
「学校へ? どうして、また?」
「うん。少し気になることがあったんだ。黒木のこととか……」
 黒木、と二葉が眉をひそめた。
「いったい、何が気になったの?」
「いろいろ……」
 裕介は言葉を濁した。
 別に二葉に隠したかったわけではない。何をどこから話していいか、自分でも判断がつかなかったからだ。
 そもそも、自分でも明確な答えがあるわけではない。わからないことに対する自分自身の感情を持て余したというのが、一番近い答えなのかもしれない。
「で、学校で何があったの?」
 二葉が言葉の先を促した。
「いろいろ思い出した。それの確認をしたくて……」
「家に来たってわけ」
 そう言葉を続けた二葉に、裕介は頷いた。
 それは、と二葉が思案顔になった。
「家に来たって事は、もしかして、あたしにも関係あることなの?」
「ある。……と思う」
「もしかして、あの部屋のこと?」
「それもある」
 裕介と二葉は、同時に誰だかわからない人物の部屋の方向に視線をやった。
「二葉ちゃんは、あの部屋、怖くはないのかい?」
「最初は怖かったけど。今はそうでもないよ。何故だかわかんないけどね」
 二葉が苦笑した。
 自分の知らない部屋がいつの間にかある。その恐怖はあったのだけれども、すぐにそれはおさまった。あって当然だろう、という思いがでてきたからだ。
「だって、あれは……」
 言いかけて二葉が、よどむ。無意識に当たり前のことを言いかけて、それに今気がついたよう。何を言いかけたんだっけ、と自分で考え込んでしまう。
「あれは?」
 裕介は真剣な面もちで二葉の言葉を待った。
「あれは……」
 考えても思い出せない。否、考えたからこそ、思い出せなくなったような感じ。とても単純で当たり前のことのような気がするが、それがどうしても思い出せない。
「裕ちゃんは、わかるの?」
 二葉が裕介の方を見た。
 俺もわからない、と裕介は首を横に振る。
「けど、思い当たる節はある」
 裕介は思い詰めたような表情になった。
「思い当たる節って?」
「それを確かめに来たんだ。多分、それを確かめられる相手は、二葉ちゃんしかいない」
「うん」
「これから話すことを、笑わないでくれるか?」
「笑えることなの?」
「荒唐無稽な話になってしまう」
「真剣な裕ちゃんを笑ったりはしないよ」
 二葉が安心させるように答えた。
 ありがとう、と裕介は少し安堵した。
「黒木は知っているだろう?」
 二葉が頷く。
「あの冷酷そうな人でしょう。いつも横に綺麗な女の人を連れている」
「あいつは、俺を呪っているらしい」
「……呪う?」
 二葉が思わず声を上げた。
 気にせず、裕介は話を続ける。
「仮定を現実に変える呪詛なんだそうだ。落合の言葉によれば」
「仮定を現実に変えるって?」
「あるべきものがなかったら、という仮定の状態を、現実とすりかえるものらしい」
「つまり、本当は裕ちゃんの何かがなくなってるんだけど、現実はそれがなかったこととして続いているんだね」
「そういうことらしい」
 それは、と言いかけて、二葉は再び視線を誰もいない部屋の方向に向けた。
「もしかして……?」
 二葉の口調が不安げに変わる。視線を裕介に戻した彼女の表情も不安げだった。
「恐らく……」
 裕介の返答はかろうじて音になって二葉の耳に届いた。
 二葉が、自分を落ち着かせるために、大きく長い息をついた。
 その間、沈黙が続く。
 ややあって、二葉が口を開く。
「黒木って人がいつも連れてる女の人……、あの人がそうなの……?」
 恐る恐る、といった風だった。
「わからない。けど、あの女の名前は、南一葉というんだ……」
「南、一葉……」
 二葉が切れ切れにその名を口にした。それから、自分の記憶に照らすかのように、何度もその名前を呟く。
 そして。
「南一葉」
「みなみかずは」
「美波一葉……!」
 二葉が驚愕して、裕介を見る。
 その解答は、既に出ていたのだろう。裕介は二葉の目を見返した。
「裕ちゃん……、まさか……」
「馬鹿みたいに簡単な手に引っかかっていたよな」
 自嘲気味に裕介は言った。
 名前の字を変えただけの偽名。
 呪詛の影響下にあったとはいえ、あまりに単純すぎる偽名に、どうしてわからなかったのかという憤りさえ感じるようだ。もっとも、呪詛というのは、そういうものかもしれない。裕介は、改めて黒木の怖さを感じた。
「……確信はあるの?」
 二葉の問に、裕介は首を横に振った。
「俺の妄想かもしれない。心の奥底で南一葉が好きで、そう思いたいだけなのかも……」
 そして、救いを求めるように二葉の言葉を待った。
 二葉が目を閉じて、首を横に振る。その行為は、裕介をたまらなく不安にさせた。
「わかんないよ。あたしには」
「そうか……。そうだよな」
「そうじゃない。それがわからないって言ってるわけじゃないよ」
 え、と裕介は二葉を見返す。
 二葉は柔らかい笑みを浮かべた。
「裕ちゃんがなくしたのは、あの南一葉さんだと思う。それは間違ってない。だって、今教えてもらった事柄だけでも、そう確信できるもの」
「じゃあ、何がわからないって……?」
「落ち込んで救いを求めてる裕ちゃんに、なんて言ってあげたら一番いいのかわかんないってこと」
「え……?」
「あたし、それを言う人じゃない気がするの。言ってたのは別の人。あたしはそれを横で聞いてた人。だって、あたしも今裕ちゃんにちゃんと言って上げられる人を、横に求めてる」
 そう言うと、二葉がポニーテールにまとめているリボンをとって、髪を解いた。頭を軽く左右に振り、髪を戻す。
「あたしがポニーテールにしてるの、誰の影響だろう? ねえ、裕ちゃん。あたしの顔をよく見て」
 髪を下ろした二葉に、南一葉の相貌を重ねてみる。
 結論はすぐに出る。否。出ていたと言うべきか。裕介は長く息を吐きながら、自分の顔を右手で押さえた。
「似てるはずだよね。姉妹なんだから」
 誰に、とは二葉は言わなかった。
 裕介はその体勢のまま、微動だにしない。
「取り戻さなきゃ」
 裕介は答えない。
「とりあえず、お姉ちゃんの所へ行こう」
 裕介は答えない。
「ねえ、裕ちゃん」
 二葉が裕介の肩に手をやった。
 裕介はゆっくりと手を顔から放し、視線を二葉に向ける。
「……簡単に言うなよ」
 呟きに近い声だった。
「黒木ってのは、金子が学生の時の同級生なんだそうだ。つまり、黒木は老いないバケモノなんだ」
「怖いの?」
「ああ、怖いね。今話したことが全て真実だとしたら、その元凶は奴だ。ようするに、そういうことが出来るってことだろ。一般人の俺に何か出来ると思うのか?」
「出来るかどうかじゃなくて、しなきゃならないことでしょう、これは。裕ちゃんは、半身を失ったままでいいの?」
「仕方ないだろ」
 裕介は拗ねたように吐き捨てた。
「失ったままでも、今までの生活に不都合はなかった。これからも、ないはずだ」
「忘れてたままならね」
 二葉が冷たく言い放つ。その言葉は、鋭い針となって裕介の肺腑を貫いた。裕介は答えられず、視線をそらした。
 それに、と二葉が言葉を続ける。
「裕ちゃんが怖がってるのは、そういうことじゃないんじゃない?」
 え、と裕介は驚愕して、再び二葉の方を見た。
「黒木って人を言い訳にしてるよ」
「…………」
「ねえ、裕ちゃん。一体、何が怖いの?」
 落合にもそういうことを言われたな。裕介は、ふとそう思った。自嘲気味に笑ってから、溜息をついた。
 一拍置いてから、裕介は話し始める。
「落合の話を信じるなら、俺と黒木は契約をしたそうだ。多分、一葉も含めて三人で。その契約の履行という形で、呪詛は為されてるらしい。つまり、俺は一葉を失うことに同意したんだ」
「……騙されたとかじゃなくて?」
「わからない。でも、そういうことなんだ。そして、それは……」
 裕介は言葉を言い淀む。心臓がずきずき痛むのは気のせいではない。
「俺が一葉を裏切ったということだ」
 そして、もう一度自嘲する。
 ついに口に出したという気がする。当初から、その確信はあった。自身にわき起こる全ての感情と感覚が全てそれを指し示していた。それに背を向け続けていたのだ。それを口にするのが怖かっただけ。それは真実を突きつけるきっかけとなるものだから。

   3

 中谷夫妻と美波夫妻は大学時代からの親友同士であった。四人ともに同じゼミの仲間だったことが友誼の発端である。そして、四人は同じ街に居を構え、同じ時期に子供を授かった。
 ここまでは偶然である。
 その後の、お互いの子供が幼なじみとして親密な関係になっていくのは、ここまでの経過から必然に近い。ましてや、中谷夫妻、美波夫妻ともに仕事が多忙であった。どちらかの家庭のあいている方が、お互いの子供の面倒をみることになっていた。
 やがて子供たちが留守番が出来るようになる頃には、二人の両親は安心してどちらかの家に子供を置いて、仕事に出かけたのである。
 子供たちにとっては、親と過ごす時間よりも、子供たち同士で過ごした時間の方が圧倒的に多かった。幼なじみにしても特異ともいえる近しい関係が、こうして形成されていった。
 その結びつきは強固で、一朝一夕では崩れない。
 そのはずであった。
「あたしと裕介の関係っていったいなんなんだろう」
 不意に、前を歩く一葉が口にした。そして立ち止まり、後方を歩いていた裕介の方をうかがう。
 はあ? と裕介は怪訝そうな表情をして、歩みを止めた。訝しむ視線で一葉の顔に視線をやる。
「幼い頃からいつも一緒にいる幼なじみ。だから、今も一緒にいる――」
 一葉は小首を傾げて、裕介を真っ直ぐに見つめた。ポニーテールが軽く揺れる。
 裕介は眉根を寄せて、一葉の視線を受け止めた。それは、と口を開いたのは、それから一拍置いた後。
「つまり、俺に横にいるなと言いたいわけか?」
 声色に不機嫌さが滲んでいる。
「つまり、他の奴と一緒にいたいということなんだな。別に俺だって好きで一緒にいるわけじゃないよ」
 嘲るような口調だった。拗ねだすと言葉が陰険な方向に暴走するのは昔から。一葉に対してのみの甘えなのだが、本人は気づいていない。じゃあ何故一緒にいるか答えられないのが、その証左である。
 そうじゃないのよ、と一葉は溜息をついた。やっぱり、相当神経過敏になってる。一葉は裕介を見てそう思った。
 理由もわかっていた。
「黒木といたけりゃ、いればいいじゃないか。俺を気にする必要なんてない」
 裕介が、吐き捨てるように呟いた。
 黒木瞬が一葉に近づいてきたのは、高校に入学してすぐのことだった。
 にべもなく断る一葉に対し、黒木はその冷たい美貌から受ける印象からは想像もできないくらいの熱心さで、一葉にアプローチをしていた。
 裕介にしてみれば、さっさと諦めろよと言いたいところなのだが、黒木は裕介の存在など眼中にないようだった。そして、一葉の心の壁を叩き続ける。
 壁は叩き続けていればいつか壊れる。その不安が、裕介の心中を穏やかでないものにしていた。ましてや、黒木の美貌は際立っている。一葉が容姿で選ぶような女性でないことは知っているが、それでも不安にさせるほどに黒木は美しい。
 美貌という点に関していえば、一葉も人後に落ちない。黒木と並んでも全く見劣りはしないほど。それも、裕介を不安にする一つ。知らない間に綺麗になりすぎやがって。そんな勝手な憤りを、こんな時には感じたりする。際立ちすぎた容貌は、時として一葉を遠い存在に見せていたのだ。そして、その存在に唯一肩を並べられる美貌の主が黒木なのだ。
 一葉には、裕介のそんな不安が手に取るようにわかる。わかるから、どうして黒木と会うな、と言ってくれないのかと思う。現実問題として、そう言われてもどうしようもないのだが、それでも気持ちの問題として、そう言ってもらえると一葉にとっては楽になれるのだ。
 実のところ、一葉も不安を抱いている。それは、黒木に気持ちが傾くとかそんなことではなく、もっと深刻な不安だ。
 黒木と会っていると、見えない巨大な腕で抱きすくめられているような気分がするのだ。いずれ、自分の意志ではどうしようもない、とてつもない力によって取り込まれる。そんな不安が一葉にはあった。
 馬鹿げているとは思う。だがその思いは日毎に強くなっている。裕介も、感覚的にそういうことを感じ取っているからこそ、不安を感じているのだと思う。一葉に誰かがアプローチすることは過去に何度かあったが、ここまで裕介が不安がるのは初めてのことなのだ。
 しかし、裕介には不安がっていられてばかりでは困るのだ。もし一葉が黒木に取り込まれそうな時、助けてくれるのは裕介しかいないのだ。裕介だけが、この世で唯一一葉を留められる。
 だから、そのことを言いたくて話し始めたのだ。
「どうして、そういう風に言うのよ。そんなことを言いたいわけじゃない」
「じゃあ、何が言いたいんだよ?」
「あたしたちの関係の確認がしたいの」
「なんで、そんなことを今さら」
「今だから、するのよ。これからそれが必要になるから。でないとあたしは……」
 一葉は胸をかき抱くようにして、視線を裕介からそらした。台詞の後半は音になって届いたかどうかわからない。
 裕介は溜息をついた。
「……で、俺たちの関係は何なんだ?」
 一葉は視線を裕介に戻す。
 実は、お互いにお互いの気持ちは知っている。好きだという言葉はお互いの間を何十回何百回と行き来していた。だがそれは、所詮今と過去のこと。未来への保証には決してならない。
 その上、お互いの気持ちが分かっていても、二人の間に何かあるわけではなかった。つきあっているわけでもない。そもそも、いつも一緒にいるのである。これまでそれで不都合はなかった。はっきりさせる必要すらなかったのだ。
 一方、聞いてしまって裕介は後悔が胸中に滲み出すのを感じた。
 話の流れがああであった以上、そう聞くのはもはや止められないところではあった。だが理屈と感情は別である。世の中は白と黒だけではない。はっきりさせたくないこともあるだろう。裕介にとって一葉との関係はそういうものであって、できれば曖昧のままに置いておきたかった事柄だった。
 裕介は胸中の感情を持て余しながら、一葉に視線を送り続ける。
「幼なじみ」
 一葉が答える。
「そうだな」
 裕介が頷く。
 一番最初の遊び相手だった。一番最初の喧嘩相手だった。冬の寒夜に一枚の布団の中で一晩中語り明かしたこともあった。春の野原でつまらないことで一緒に笑い転げたこともあった。夏の縁日で射的のライフルで撃ち合いをして説教を喰らったこともあった。秋の文化祭で些細なことからしばらく言葉も交わさないほどの大喧嘩に発展したこともあった。
 過去には必ず二人揃っていた。どちらかが一人の過去は存在しない。いつも一緒であった。
「それだけ?」
 一葉が聞く。
「他にあるのか?」
 裕介が聞き返す。
「裕介はあたしが好きなんでしょ?」
 一葉の言葉に裕介が反論しようとするが、一葉が言葉を更に被せて話を続ける。
「あたしも裕介が好き。知ってるはずよ、裕介はあたしの気持ち。何回も言ったもの」
「……知ってる」
 裕介がそっぽを向いた。照れ隠しなのがよくわかる。
「だから、あたしたちの関係は幼なじみ。それから両思いの男女」
「…………」
「安心した?」
 不意に一葉は茶化した声になって、裕介の顔を覗き込んだ。
「ば、馬鹿な!」
 動揺した裕介が一葉を押しのけようとする。
 一葉はその手を掴んで握りしめた。そして、再び真剣な表情をする。
「あたしたちは人よりちょっと違う環境だったから、こんなにも近い関係になったのかもしれない。でも、そんなことは今さら関係のあることじゃない。今、問題なのは、あたしと裕介は、もはや離れられないところにまできてるということ」
 え、と裕介が一葉を見返した。
 一葉は静かに語る。
「あたしは裕介を失うことに、もはや耐えられない。多分とか恐らくとかそんなんじゃなくて、絶対に。だって、裕介はもうあたしの一部なんだもん。手とか足とか心とかそんなのと一緒。あたしを構成する重要な要素の一つ。それは切り離せるものじゃない」
 そう言って、一葉は微笑した。
 裕介が何か言おうと、口を開く。だが言葉になる前に、一葉が首を横に振り、それを制した。
「わかってるから、言わなくていいよ」
「え……」
「どうせ、照れまくって言葉にならないくせに」
 一葉は笑う。
 失礼な、と裕介が吐き捨てるが、図星であるのは確かなことだった。
 だから、と一葉は裕介の手を握っている手に力を込めた。
「何があってもあたしを信じて」
 え、と裕介がわけがわからないといった表情をした。
 それに構わず、一葉は言葉を続ける。
「何よりもあたしを信じて。裕介があたしを信じてくれてれば、あたしは大丈夫だから」
「……何が言いたいんだ?」
「裕介にしか出来ないことだから」
「だから、一体何を――」
「あたしを信じてくれてさえいてくれればいいの。出来るでしょ?」
「あ、ああ」
 一葉の強い調子に、裕介はとりあえず頷いた。
「よろしい」
 一葉は満足げに二度頷く。
「言いたかったのは、そういうこと」
「……そうなんだ」
 裕介はもう一度頷くものの、まだ不可解そうな視線を一葉に送り続けていた。
 一葉はそれに構わず、じゃあ帰ろうか、と裕介を促し先を歩き出した。
 それから後の帰路で、二人に会話はなかった。裕介は、今までの会話を考えている風。たまに疑問の視線を前を歩く一葉の背中に送るが、口にはしなかった。
 やがて、裕介の家につく。
 一葉は立ち止まり、また振り向く。
 裕介が不思議そうな顔をする。
 裕介の両親が今年の春先から海外出張でアメリカにいる近頃は、一葉がほぼ泊まり込みの状態で中谷家にいた。家事全般を何もできない裕介の代わりである。彼女の存在が、裕介を日本に留めた大きな要因だった。両親も彼女がいなければ、強引に裕介をアメリカに連れていったに違いない。
 そんなわけだから、裕介は今日も一葉が中谷家に泊まるものだと思っていた。現に、一葉は今日の登校は中谷家からしている。
「今日は、うちも両親が出るからね。二葉を連れて来なきゃ」
 一葉は立ち止まった理由を説明した。
「ああ、それで」
「ついでに、買い物をしてくるから、ちょっと遅くなる」
「そうか。じゃ」
 裕介が軽く手を上げて家に入っていった。それを見送ってから、一葉は久方ぶりの我が家へ向かう。
 不意に視界が暗くなる。
 見上げると、雲が太陽を覆っていた。一歩進むたびに暗く寒くなるよう。降雪の到来を予感させた。一葉は肩を竦めて、歩く速度を上げた。
 我が家の前では、思わぬ客がいた。
 いや、そいつが現れるのは半ば予想していたことかもしれない。一葉の身体に緊張が走る。
「黒木君」
 一葉がその男の名を呼ぶ。
 黒木は美波家の前で悠然と立っていた。その冷たい視線で一葉を見据える。
 その瞳に捉えられた瞬間、身体を鷲掴みされた気分になる。一葉は、その感覚になんとか耐えきり、黒木と対峙する。
「何か用?」
「お前を誘いに来た」
 黒木が微笑を浮かべる。
「断ったはずよ」
「そうかな。私には頷いてくれたように思うが」
「馬鹿言わないで!」
 一葉は強い調子で言った。
 それでも黒木は、微笑を崩さない。そうかな、と黒木の瞳が冷たく光った。
「あっ……」
 刹那、一葉は魂ごと抱きすくめられた気分になる。続いて頭がぼうっとなり、何も考えられなくなった。身体と心が別々になったよう。今まで黒木に見つめられたときに陥った感覚を、数倍にして味わっているようだ。そんな感覚に徐々に飲み込まれていく。
 それでも一葉は、その感覚に抗った。心が身体を取り戻すのに少し時間がかかったようで、数歩よろめいた。気づいた時には、黒木に身体を支えられていた。
 黒木が感嘆したような表情で一葉を見ている。
「さわらないで!」
 一葉は慌てて黒木の手を振り払い、数歩後ずさった。そこで体勢を整えて、きっと黒木を睨む。
「あたしに何をしたの!」
「さあ」
 黒木がとぼける。
「今まではよくわからなかったから言わなかったけど、今、はっきりわかったわ。あなたあたしに何かしてるでしょ?」
「そうかもしれないな」
「あなた、いったい何者なの?」
「何者だと思うんだ?」
「わからないから、聞いてるんでしょ」
 確かに、と黒木が苦笑した。
「お前を求めてやまない者だよ」
「茶化さないで!」
「事実さ」
「嘘ね。黒木君、あたしを見てるようで見てないもの。見てるのはあたしの表面。それに誰かを重ねてる」
 一葉はぴしゃりと言い切った。その言葉に黒木が、一瞬だけ虚をつかれた表情をした。だがそれは一瞬で、すぐに元の余裕のある表情に戻る。
「お前は強いな。今までの誰よりも。そんなところもあいつに似ている」
「……あいつ?」
 そう、と黒木が遠い目をする。意識が遠い過去に行っているようだ。そして、次に現実に帰ってきたときには、元の冷たい目に戻っていた。いや、前以上に欲望の色が濃い。
「ますます、お前が欲しい」
「冗談じゃないわ」
「どうして私を拒否する? そこまで中谷に義理立てすることはあるまい。あのようなつまらない男など、捨ててしまっても何ほどのこともあるまい?」
「裕介を捨てることは、あたし自身を捨てることだわ。あなたにはわからないでしょうけどね」
「ほう」
 仰々しく黒木が驚いたふりをする。
「えらくご執着だな、中谷に」
 そう言うと、不意にくっくっくっと笑い出した。
 その笑い声が、とても癪に障った。なによ、と黒木を睨み付ける。
 不意に黒木が笑いを止め、真面目な顔をした。
「お前は、中谷をたいそう想っているようだが」
「それが?」
 むしろ、誇らしげに一葉は問い返した。
「自分が想っているほど、相手は自分のことを想っていないものだ。例外はない。信頼とか愛とかいうものは、所詮、一方通行の強烈な思い込みに過ぎない。相手を本心から手に入れたければ、自分の手に留めおくしかないのだ」
 黒木が、そう嘲る口調のままで言い切った。
 一葉は少し黙り、その心中を推し量るように、改めて黒木を見直した。
 黒木の言葉に虚をつかれたわけではなく、それに同意したわけでもない。
 ただ黒木がそう言い切ってしまうことが不思議だった。
 しばらく黒木を観察していた一葉だが、やがて再び口を開いた。
「それがあなたの持論?」
「それが真理さ」
「えらく断言するけど、それを実感する経験でもあったのかしら?」
 一葉の問に、黒木は答えなかった。嘲笑が消え、見るものを凍てつけるほどの冷酷な真顔になった。
「あったのね」
 ややあって、黒木が表情を少し崩し、ふっと笑った。
「そうだな。遅かれ早かれお前は知ることになる。今知ったところで、何らかわりあるまい」
 独り言のようだった。
 そして。
 不意に寒さが増した。雪がちらつき始める。
「え……?」
 いつの間にか、辺りは何もない雪野原になっていた。自分の存在すらもあやふやで、ふわふわと浮いているよう。まるで幽霊になった気分だ。
 これは、黒木の記憶だ。そう一葉は思い至った。そこに理屈はないが、何故かそう確信することが出来た。
 一葉はそこで見た。黒木の過去を。

 気がつくと、現実に戻っていた。目の前に黒木が立っている。
「そう。そんなことがあったの」
 一葉は憐憫の入り交じった視線を黒木に向けた。だがすぐにそれを消す。
 でもね、と言葉を続ける。
「あなたはあなた。あたしじゃない」
「ほう。つまり、自分は裏切られないという自信があると?」
「勿論よ」
 そうか、と黒木がにやりと笑った。
「な、何よ?」
「じゃあ、私と賭けをしよう」
「賭け?」
 一葉は訝しげに、黒木を見た。
「そう。中谷がお前を裏切らなければお前の勝ち。裏切れば私の勝ち」
「何であたしがそんなことをしなければならないのよ」
 一葉は警戒を強めた。だが危険領域に足を踏み入れてしまったという確信もあった。引き返せるものなら、引き返したいのだが。黒木を見ると、それは叶わない気がした。
「私はお前を力ずくでものに出来る。それをせずに、お前にチャンスをやろうというのだ。それに、賭けという以上、これに負ければ私はもうお前に近寄らない。いい条件だと思うがな」
 黒木が、口許にいやらしい笑みを貼り付けていた。
 一葉は、憎悪を込めて黒木を睨め付ける。
 黒木の妖しい力は、先ほど体験積みだ。だから、力ずくでものに出来るという黒木の言葉はあながちはったりでもない。選択の余地はなさそうである。
「それとも勝つ自信がないのかい?」
 黒木が挑発した。
「あるわ、勿論」
 一葉は長く息をついた。挑発に乗る気はなかったが、行くところへ行くしかなさそうである。
「では、問題あるまい?」
「本当に、賭けに勝てば、もうあたしに関わらないんでしょうね?」
「約束は守るよ」
 信じられない、とは一葉は言わなかった。選択の余地はない。
 黒木は賭けが成立したことを知った。そして、もうすぐ自分のものになる女を見た。
 昔のままに、美しい。そう思った。
 黒木の瞳が妖しく光る。
「あっ!」
 一葉が慌てて後ずさるが、もう遅きにすぎた。彼女は意識を失って、黒木の腕の中にあった。
 雪の強さが増した。

 不意に電話が鳴って、裕介は見ていたテレビを消した。
 両親は仕事でアメリカに行っている。今、家にいるのは裕介一人。だから、かかってくる電話は極端に少ない。それでいて、こちらにかける相手は両親か、美波家の誰かしかなくて、彼らには必ず出ないと後でうるさい。
 だから、裕介は無視せず電話に出た。
「はい、もしもし」
『中谷裕介か?』
「…………」
 どうせ一葉が二葉だと思っていた裕介は、電話の相手が聞き覚えのない男性の声だったので、眉をひそめた。
「……誰だ?」
『黒木と言えばわかるか?』
 黒木、と裕介はその名を呟いた。
 その名を持つ男を裕介は一人知っていた。意識せざるを得ない男で、それは好意からは反対の極にいた。
 当然、不機嫌になる。
「何の用だ?」
 ぶっきらぼうに聞いた。
『お前と賭けがしたくてな』
「賭けだと?」
 裕介は聞き返す。
 そう、と電話の向こうの黒木が答えた。微笑しているような気がする。
「どうして俺が、お前なんぞと賭けをしなくちゃならない。理由がねえよ」
『理由はある』
「どんな理由だよ」
『美波一葉』
 電話回線を通しても黒木の声に暖かみはない。
「一葉?」
『お前が来て、一葉がお前を選べばお前の勝ち。私を選べば私の勝ち』
「お前、何、わけわかんねえこと言ってるんだよ」
『学校の屋上で待っている』
 その言葉で電話は切れた。
 裕介は無言で受話器を睨んだ。次いで、美波家に電話をかけた。
 出たのは、二葉だった。
『どうしたの、裕ちゃん?』
「いや、一葉、いるかな?」
『お姉ちゃん? まだ帰ってないよ。ああ、そういえば、玄関先で誰かと喋ってたなあ。その人とどっかいったのかな』
 誰か、と裕介は声にならない呟きを洩らした。
 それは恐らく――。
『黒木さんって言ったっけ。色白で背の高い人』
「……そうか」
 裕介は、そう答えると同時に電話を切っていた。だから、最後の言葉が二葉に聞こえたかどうかはわからない。そんなことに思いをやる余裕が、今の裕介にはなかった。
 脳裏に、帰宅時の一葉との会話が蘇る。信じてくれ、と一葉は言った。そうしようと思う。だがそれでも尚、心底からわき起こる不安を消せないでいた。
 どちらにしろ、行くしかない。裕介は、上着を羽織って家を出た。
 学校に着いた。

「来た」
 黒木がにやりと笑う。
 その瞬間、契約が為された。

   *

 雪が降っていた。
 雪はこんこんと降り続け、屋上一面を雪原に変えていた。分厚い雲と降り続く雪に遮られ、月も星も全く見ることはできなかった。
 給水塔の窓からこぼれる光が、闇の一部を切り取っていた。屋上を照らす光はそれだけ。こぼれる光に映える雪の白さが妙に目についた。
 窓から見える給水塔の中には、男女が一組立っていた。制服から、この学校の生徒だとわかる。男は女より頭一つ高く、女が男を見上げていた。
 男は長身で痩せていた。肌は白く、整った繊細な顔立ちをしている。瞳が鋭く冷たい。見る対象を突き刺して凍らせるよう。今はその瞳で女を見下ろしていた。
 その視線を真正面から受ける女は、虚ろな瞳で男を見返していた。魂を抜かれた感じで、ぼうっと男の前に立っている。
 ややあって、男はゆっくりと女の後頭部に右手を伸ばした。女の長い髪を結ぶ赤いリボンに手をかけ、引いてほどく。リボンを解かれた髪は、緩やかにひろがっていった。
 解かれた髪は美しく、川の流れを思わせる。その川に、男が放した赤いリボンが流れ落ちていく。リボンは緩慢に流れ落ち、視界から消えていった。
 男の手は、髪を一すくいしながら頬に移る。手が包むように頬に触れると、絡んでいた髪がさらさらと元にかえっていった。
 女は、男の手が頬に触れてもぴくりとも動かず、ぼうっと男を見上げている。
 その様子に、男は満足げに唇の端を上げた。
 ――くっくっくっ。
 男は冷笑を浮かべたまま、ゆっくりと女に貌を近づけた。男の唇が女の唇に軽く触れ、離れる。そして再び女の唇に口づけた。今度は女の唇を貪るように深く、強く。
 雪の落ちる勢いが強くなり、寒さが身に染みた。両足が凍てついた気がする。
 動けないのは、寒さのためだろうか。
 それとも、別の何かのためだろうか。
 どちらにしろ、もう見てはいられない。
 目を閉じて校舎へ走り出す。雪が足にまとわりついて、重く邪魔だった。寒さで感覚が消えかけている膝下は、自分の物ではないようだ。
 その時、突然、女の腕時計が鳴り響いた。アラームの音は決して大きくなかったが、それでも静寂を引き裂くのには充分だった。
 立ち止まり、振り返る。給水塔の中では、未だ二人は口づけていた。
 ――ピピピピピ、ピピピピピ、ピピピピピ、……。
 アラームの単調な音が耳についた。
 女はアラームを止めようともせず、男にされるがままである。改めて見たところで、状況は何ら変わっていない。惨めさが増しただけである。今度はもう振り返らないと決意しながら、再び目を閉じた。
 閉じる瞬間、女の瞳が目についた。その瞳には、意志が戻っているような気がした。愕然とこちらを見ている。しかし、決意は変わらない。校舎へと走り出した。
 ――ピピピピピ、ピピピピピ、ピピピピピ、……。
 アラームはまだ鳴りやまない。

   *

「あの男は、お前を連れて帰らなかった。言ったろう。信頼などというものは、一方的な思い込みだと」
 黒木は、部屋の床に仰向けに横たわる一葉に声をかける。
 一葉は閉じていた目をゆっくりと開き、黒木を見る。
 黒木はその横に膝をつき、一葉の制服に手をかけた。
 その時。
 急に黒木の両腕が震え出す。自分の意志ではどうすることもできないほどの震えだった。
「ううっ……」
 黒木は苦しげに呻きながら、両腕を抱くようにしてうずくまった。
「くそっ、またかっ……!」
 怨嗟の声を吐く。
「どうしてだ! くそっ! いつもいつも、抱こうとした時に……! ……これも血のせいなのか……! 雪子!」
 横で苦しむ黒木を、視線だけ動かして、一葉が冷たく眺めていた。
 くそっ、ともう一度吐き捨てて、黒木は無理矢理身体の震えを抑え込んだ。そして、ふらつきながらも立ち上がり、一葉を見下ろした。
 二度大きく息を吐き、呼吸と精神を落ち着ける。
「まあいい。もうすぐ本人が帰ってくるのだ。慌てることはない」
 自分に言い聞かすように言って、部屋を出ていった。
 一人の残された一葉は、再び目を閉じた。
 雪は、未だ降り止まない。      


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