二章

   1

 雪が降っていた。
 分厚い雲と降り続く雪に遮られ、月も星も全く見ることができなかった。
 給水塔の窓からこぼれる光が、闇の一部を切り取っていた。屋上を照らす光はそれだけ。こぼれる光に映える雪の白さが、妙に目についた。
 窓から見える給水塔の中には、男女が一組立っていた。制服から、この学校の生徒だとわかる。男は女より頭一つ高く、女が男を見上げていた。
 男は長身で痩せていた。瞳が鋭く冷たい。

 ややあって、男はゆっくりと女の後頭部に右手を伸ばした。女の長い髪を結ぶ赤いリボンに手をかけ、引いてほどく。リボンを解かれた髪は緩やかにひろがっていった。
 リボンは緩慢に流れ落ち、視界から消えていった。
 男の手は、髪を一すくいしながら頬に移る。
 女は、男の手が頬に触れてもぴくりとも動かず、ぼうっと男を見上げている。
 男は満足げに唇の端を上げた。

 男は冷笑を浮かべたまま、ゆっくりと女に貌を近づけた。男の唇が女の唇に軽く触れ、離れる。そして再び女の唇に口づけた。今度は女の唇を貪るように深く、強く。

 もう見ていられない。
 目を閉じて校舎へ走り出す。

 立ち止まり、振り返る。給水塔の中では、未だ二人は口づけていた。

 改めて見たところで、状況は何ら変わっていない。惨めさが増しただけである。今度はもう振り返らないと決意しながら、再び目を閉じた。
 閉じる瞬間、女の瞳が目についた。愕然とこちらを見ている。

 ――ピピピピピ、ピピピピピ、ピピピピピ、……。

   2

 カーテンの隙間から差し込む日差しは高く強く、外は晴れ渡っていることを容易にうかがわせた。だが窓を叩く風の音は強く、見た目ほどには暖かくないだろう。裕介は、溜息をついて毛布を頭からかぶった。
 昨日から、裕介はほとんど眠れなかった。早朝ぐらいにうとうとしたが、それだけである。額の辺りにしこりがあるような感覚があった。今日が日曜日でなかったら、眠れないまま登校するハメになっただろう。今日一日は空いているという余裕が、まだ身体を楽にさせていた。
 眠れなかった理由は、だいたいわかっている。昨日のことが、頭の中をぐるぐると渦巻いているのだ。それが裕介の精神を無理矢理醒ましていた。
 目を閉じても、視界は暗くならず、昨日の光景が絶えず映るのだ。特に街灯の下に立つ南の姿が、網膜に焼きついて離れない。その映像に、落合の言葉や、金子の言葉や、二葉の言葉が重なる。そのシーンは、裕介の精神に多大な負荷をかけるようで、心臓が押しつぶされそうな痛みを伴った。
 その度に目を開け、映像を脳裏から追い出そうとした。それの繰り返しであるから、眠れるはずがない。
 今も裕介は布団の中で丸くなっているが、目は開けたままで起きていた。
 寝ていないのだから眠いはずなのだが、眠ろうという気にもならない。だが布団から出て起きないのは、何もする気が起こらないからだ。食事すらとるのが億劫だった。
 今日はもうこのまますごそう、というネガティブな思いが、全身を支配する。そして、今の裕介にはそれに抗う気力はなかった。
 どれくらい、そのままぼーっとしていただろうか。家のチャイム音が、電話の子機から響いた。
 誰か来たらしい。だが裕介は何の躊躇いもなく居留守を使った。
『いることはわかっているよ』
 子機から、そんな声が聞こえてきた。落合の声である。
 裕介は毛布から顔を出し、子機を睨み付けた。
『少し話がしたいんだ。いいかな?』
 落合が尋ねた。
 裕介は答えない。そのまま布団を頭からかぶり闇の中に包まれた。
「…………」
 沈黙が続く。
 どれくらいたっただろうか。セールスマンならとうの昔に諦めて帰っているだろう。だが裕介は、まだ落合が立って待っていることを確信できた。
 結局、裕介は落合に負けた。やはり、黒木とのことが気にかかっていたからだろう。今日初めてベッドから降りて、玄関のドアを開けた。
 そこには、予想通り落合が立っていた。制服の上にコートという出で立ちだ。黒いマフラーが、風に揺れていた。
「やあ」
 落合は、寒風吹きすさぶ中に立っていたはずなのに、寒がる素振りは全く見えない。
「あがれよ」
 裕介はぶっきらぼうに言い、落合を家の中に招き入れた。
「寝てたのかい?」
 部屋に入るなり落合が尋ねた。
「それがどうしたよ?」
 裕介は不機嫌そうに答え、話とは何だ、と問う。
 落合は、すぐには答えず裕介に視線をやった。
 決まっているじゃないか。そう言っているような視線。裕介はちっと舌打ちして、ベッドに腰を下ろした。
 落合が手近な椅子に腰を下ろす。
「もう、君も気づいているだろう?」
「何を?」
「黒木から奪われた君の大事な人を、だよ」
 裕介は落合から、視線をそらした。だが落合は、裕介に視線を送り続ける。表情は澄ましているが、視線はきつい。
 ややあって、裕介は視線を戻す。
「それは誰だと言うんだ?」
「僕の口からは言えない。そのわけは前に言ったとおりだ」
「契約ってやつか?」
 裕介は吐き捨てるように問うた。
 落合が肯定のための無言を示す。
 正解したはずなのに、裕介は動揺して今度は顔ごと落合からそらした。
 そんな馬鹿な。そう口内で呟く。裕介の視界には、見慣れた部屋ではなく、一人の女性が映っていた。
 南一葉である。
「そんな馬鹿な」
 今度は声に出して呟いて、視線だけ落合に返す。その視線は弱々しく、動揺で溢れている。
 落合が軽く目を閉じてから、口を開いた。
「黒木の呪詛は、仮定の状態を作り出すことにあるんだ。つまり、あるべきものがない、という仮定の状態。そして、それは時がたつにつれて強度が増す」
「…………」
「金子先生は、永久に原田令子さんを失った。原田令子という人物が存在しない状態が確定したからだ」
「…………」
「君はめぐまれているんだよ」
 なに、と裕介は落合を睨め付けるが、その視線は弱々しいままである。
 構わず、落合は言葉を続ける。
「君は違和感を感じられた。それが何を意味するかのヒントも与えられている。協力者もいる。そして何より、何を取り戻さなければならないかもわかっている」
「……そんなことは知るか」
「金子先生は、その全てを与えられなかった」
「…………」
 裕介は、また視線をそらした。
「後は動き出すだけじゃないか。どうして、動かない?」
 落合の表情も視線もいつもと変わらないのだが、その言葉は鋭い矢となって裕介の胸部に突き刺さる。冷や汗が背中を流れ、口内が渇き始める。
 裕介は言葉を搾り出した。
「……だ、誰が、そんな荒唐無稽な話を信じると言うんだよ」
 荒唐無稽か。そう落合が鼻で笑う。
 裕介はその態度がとても癪に障ったが、攻守の立場を変えることはできない。
「じゃあ、君の感じている違和感をどう説明するんだ? 黒木は何故老いない? 金子先生はどうして原田令子さんを失った?」
「それは……」
「君の心の中や周囲で起こっている出来事っていうのは何だと言うんだい? それは君か僕の妄想だとでも? その上、それを共有してるとでも?」
「…………」
 裕介は視線を落とした。
 落合も、一度言葉を切る。
 少しの沈黙。
 そして、また話し出したのは落合の方。
「君は怖いんだ」
 裕介はきっと顔を上げた。
「……当たり前だ。何十年も老けずに、呪詛なんかを放つ相手なんだろう? 怖がって、何が悪い」
 開き直ったように言う。
 落合が微笑する。その微笑は、裕介の心中を見透かしているようであり、なおかつ裕介の詭弁を嘲笑っているようにも見えた。
「違うだろう」
「何が」
「君が怖がっているのは黒木じゃない。真実を知ることだろう」
 落合の言葉は、鋭いカウンターパンチのように、裕介を簡単に叩きのめした。
「だから、あえて事に直面しようとしない」
「ど、どうして……、そんなことがわかる……?」
「君の態度を見てれば誰でもわかるさ。確かに、君は黒木の呪詛によって、何が起こったかの記憶は失っている。だが身体はその時に感じた感情を覚えている。その感情がどんなものだかは僕にはわからないけれども、君を怖がらせるに十分なものだ。だから、君はその感情を抱かないように、事をあえて無視している」
「そ、そんなことは……ない」
 裕介の否定の言葉は弱々しい。
 実際、落合の言う通りだった。
 違和感からわき起こる様々な感情。後悔や嫉妬、屈辱感、焦燥感、嫌悪感、敗北感等、それらは全て負の感情だった。そして、それは南一葉に直面したとき強烈に感じた。その強さは、裕介の心を破壊してしまいそうになるぐらいである。
 真実というものがあるとして、それら負の感情をまとめてぶつけてくるのなら、決して良いものではなかったはずである。少なくとも、裕介にとっては。
 俺に一体何があったのだろう?
 俺は一体何をしたのだろう?
 その推測が、例えようもないぐらいの恐怖となって裕介を苛んでいた。
「逃げているだけでは、君は永遠に負の牢獄にいることになる」
 落合の言葉が裕介の頭上に降りかかる。裕介がふり仰ぐと、落合は立ち上がっていて、マフラーを首に巻いていた。
「……帰るのか?」
 裕介は問う。
 ああ、と落合が頷いた。
「僕の仕事はあと二日もしたら終わる。僕が君に協力できるのもその期間までだ。今日はこのことを言いに来たんだ」
「そうか……」
「後は君次第。それで全てが決まる。仮定を事実とするか。それとも――」
 落合が心中を読まさない微笑をその繊細な顔に貼り付けて、裕介を見下ろした。
「真実を取り戻すか」
「……真実……」
「じゃあ」
 落合が、見上げたままの裕介をそのままに残して踵を返した。
 ドアが閉じられ、部屋には再び裕介一人となる。裕介はそのままの状態でドアを睨んでいた。
「……くそっ!」
 強く呟く。
 だがそれが誰にむけて呟いた言葉なのか、裕介自身判断がつかなかった。

   3

 日曜だというのに、校内ではたくさんの学生の姿を目にすることが出来た。彼らは、ゆったりと校舎に向かう金子を見ると、一様に挨拶をした。それらにいちいち頷きを返しながら、金子は校舎に入った。
「あれ、金子先生。今日はどうしたんですか?」
 年若い教師が、金子の姿を認めて声をかけた。彼はバスケットボール部の顧問で、日曜日でも部活動の監督にやってくる。
 しかし、金子はクラブの顧問をしていないはずである。特別な職員会議があるとも聞いていない。そもそもこの老教師は担任を持っていないはずなのだから、休日出勤する理由はそれほど見当たらない。
「あ、いや。今日は私用でしてな。ちょっと片付けなければならないことを思い出したんですわ」
 金子は微笑した。
 そうですか、と年若い教師も微笑を返す。
「それでは私はこれで」
「はい。失礼します」
 金子は去って行く教師の背中を見送ってから、またゆっくりと歩き出した。
 外と違い、校舎内にはほとんど生徒の影は見えない。文化系のクラブ活動もあるのだろうが、だいたいは部室か、特別教室にこもっているので出会うことは少ない。たまに、教室内から声が漏れてくる程度である。
 金子は東校舎を進む。やがて資料室と示された部屋の前につき、そのドアを開けた。
 中には先客がいた。
「おはようございます。金子先生」
 窓際に立っていた落合が、さわやかに挨拶をする。
「おはよう。待たせたようだね」
 金子は後ろ手にドアを閉め、鍵をかけた。
「いえ。僕も今来たばかりですよ」
「そうかね。それで、どうなんだろうか?」
「まあ、いろいろありましたね」
 落合が思わせぶりに言った。
 ふむ、と金子は頷き、羽織っていたコートを脱いで、手近な椅子に腰かけた。
「詳しく聞こう」
 そうですね、と落合が話をまとめるためか、少し間を置く。ややあって、彼の口から出た発言は不穏なものだった。
「近いうちに、黒木がその意図するところを成就します」
 金子は眉を寄せた。
「それは、黒木が、また一人を消し去ってしまうということかね?」
「それもありますが」
「というと?」
「黒木が人を捕らえているのは、彼なりの思惑があるということですよ」
「思惑か……。確かに、あってしかるべきかな」
 金子は、虚をつかれたように答えた。
 実際、虚をつかれたのだ。
 黒木の呪詛という現実が強烈すぎて、彼が何のために人を捕らえているのかに、思いいたらなかったのだ。迂闊といえば迂闊であった。
 そして、それに気がついた金子に、先ほどの落合の言葉が重くのしかかってきた。黒木はもうすぐ意図を成就する、とこの少年は言ったのだ。
 よくも、そんなことをあっさりと言えたものだ。金子はそのような視線で立ったままの落合を見上げた。
「黒木の意図が成就するとどうなるのかね?」
「どうということも」
 落合が軽く肩を竦めた。
「彼は、別に世界の変革などというものは望んでいませんよ」
「では彼は、何を望んでいるというのだね?」
 口調に苛つきが混じったのは、金子にしては珍しいことである。
「ある人物の復活」
 落合が答える。推測にすぎませんがね、と続けたが、彼がそう口に出す以上、確信があるのだろう。
「ある人物とは、誰だね?」
「黒木雪子。彼の妹です」
「妹……。彼に妹がいたなどという話は聞いたことがないが……」
 金子が記憶をたどるように、顎に手をやった。
「今ではね」
 落合が微笑する。
 金子はそれで理解がいった。
「つまり、忘れ去られるぐらい前に、妹はいなくなったということか」
 落合が頷く。
「いなくなったというのは、亡くなったと理解してもいいのだろうか?」
「はい」
「ということは、彼の妹は普通の人間だった……?」
「はい」
「それは、黒木自身も最初は普通の人間だったということになるのかね?」
「恐らくは」
 落合は頷きながら、視線を窓の外にやった。金子もつられて、視線を向ける。
 資料室の窓からは、中庭が見える。そこには少し大きめな池があって、東西の校舎をわけていた。池の中には鯉などが泳いでいる。その上には細い橋がかかっていた。
 その橋の上に、いつからか二人の人物が立っていた。
 黒木と南である。黒木は南の腰に手をやりながら悠然と立っていた。その視線は、資料室の窓に向けられている。
 二人と二人の視線が絡み合う。
「黒木……」
 金子が呟く。
 それが聞こえたわけではないだろうが、それに呼応したかのように、黒木が冷笑を浮かべた。
 その後すぐに、黒木はその笑みをはりつけたまま南を促して立ち去っていったが、金子はその場に視線をやり続けた。
「黒木は妹の復活を望んでいる。そのために人を捕らえている。そういうことかね?」
 しばらくしてから、金子が落合に問うた。
 落合は既に視線を戻しており、興味深げな瞳で老教師を見ていた。
「令子もそのために捕らえられたと……?」
「ええ。勿論、僕の推測ですが」
 そうか、と金子は何か考える表情になって、視線を落とす。
「彼の妹への執着が、彼を不老長生、乃至は不老不死に変えたと思われますね」
「執着……か……」
「利己心に宿るという執着は誰しも持つものです。しかし、彼の場合はそれが強すぎた。強すぎる執着は、時として人を化生させるもののようです」
 落合が、その過程を想像するように視線を空へと向けた。
 その横顔に視線をやりながら、ところで、と金子は問う。
「そのことを、君はどうやって知ったのかね?」
「お疑いですか?」
 落合が金子を見下ろした。気に障った様子は見えないが、元々内心を読ませない表情をしているので、どういう感情が渦巻いているのかは全くわからない。
 そんなつもりはない、と金子はゆったりと首を横に振る。
「今回の件の理由が、本当にそれなのかどうか、確証が得たいんだ」
「なるほど。しかし、確証が得られるかどうかはわかりませんよ」
 落合が苦笑した。
 金子は、それでも聞きたい、という意味の視線を無言で送った。
 落合はもう一度苦笑してから、話し始めた。
「単刀直入に言うと、黒木の呪詛を解析したんですよ」
「それは、ここに来てすぐにやっていた解呪の儀式がそうかね」
 金子は、転入してすぐにいろいろ動いていた落合の姿を思い出す。その中で、彼は何度か金子にはよくわからない儀式らしきことを行っており、それは解呪の一環だと金子に語っていた。
「そうですね。それで、僕は黒木の呪詛が仮定の状態を作り出すものだと知りました」
「それは、最初に報告してくれた通りだね。仮定の状態が現実へとすりかえられていく呪い。つまり、あるべきものがないという仮定の状態」
 あるべきものがないという仮定の状態は、時がたつにつれてその整合性が増し、現実として確定されていく。落合からの最初の報告で、金子はそう説明を受けた。
 はい、と落合が頷いて説明を続ける。
「呪詛というのは、その性質上因果を媒体とします。故に、解呪詛はその成否の如何に関わらず、術者に知られます」
「黒木がこちらの動きに気づいている。そういうわけかね?」
 先ほどの黒木を思い浮かべながら、金子は尋ねた。
「気づいています。そして、彼は僕に接触を持ってきた」
 落合が昨日の朝の屋上での出来事を話した。
「どうして屋上へ?」
「因果が強かったからですよ」
 落合は、わざと誰への因果かは語らなかった。勿論、契約に抵触しないためだ。
 そのことは金子もよくわかっているから、あえて触れず、落合の次の言葉を待った。
「そこでの会話の感触から、黒木は何かに執着していると感じました。そこは、僕の勘ではありますが。それで僕は、原田令子さんの件や今回の件から、彼の執着の対象が女性ではないかと推測しました」
「それで妹の存在を調べ上げたのかね。それにしても、短時間すぎやしないか?」
「別に役所にいって戸籍を調べたりはしていませんから。それに、仮定を現実に変えてしまう黒木の前では、戸籍などというものは、信頼性に欠けますしね」
 黒木が微笑した。
「では、どうやって……?」
「もっと確実な方法があります。少なくとも、僕にとってはね。つまり、最初に言ったように、呪詛を解析したのですよ」
 呪詛は因果を媒体とする。それをたどったというわけである。
 通常、一つのものに対する因果は無数に存在する。そこから、目的のものを見つけるのは、雲を掴むような話である。だが、執着、女性と情報が揃っていれば見つけるのは容易い。彼の言う通り、少なくとも因果を解析できる落合にとっては。
「そうか……」
 金子は視線を落合から外した。
 正直言って、落合の言葉を聞いても、確証は得られなかった。彼は体験から呪詛の存在を信じることが出来るが、それでもそういう世界の人間ではない。それ以上に踏み込んだ、専門的な解説を言われても、よくわからないというのが実状である。自分が知らない方程式で、解答を導き出されたような感じである。
 それでも、金子には落合の言葉を疑う気はなかった。落合を呼んだ時点で、彼を信頼するのは前提である。その態度を崩すつもりはなかった。
「そうか」
 もう一度呟いてから、ところで、と金子は話題を変える。
「黒木の意図がもうすぐ成就すると言ったね?」
「ええ」
「それは、その前段階として、また誰か消されると言うことだね」
「ええ、そうですね。まあ、事が成就する以上、それも今回が最後でしょうけれども」
「それは、あとどれくらいの猶予があると、君は考えるかね?」
 そうですね、と落合は受けたが、その答えは既に導き出されていたようである。その後間を置かずに答えた。
「あと二日でしょうね」
「二日……」
 金子は、あまりの猶予の少なさにしばし言葉を失う。
「よく保っている方です。黒木の力を考えると」
 落合が淡々と言う。
「なんとかならないのかね……?」
 金子が声を絞り出した。
「僕が出来ることはしますよ。しかし、僕一人では如何とも」
「人数が足らないのかね?」
「何人いても一緒ですよ。契約がありますから」
 そうか、と金子は長い息を吐いた。
「中谷君か」
「彼次第ですね」
 そう落合が肯定した。
「どうなんだろう、彼は?」
 金子の声に期待の色が滲んだ。
 しかし、落合は肩を竦める。
「動いてませんね」
「そうなのか」
 金子は嘆息した。
「そう悲観的になることもないですよ」
「君は解決できる目算をどれくらいと見ているのかね?」
「五分五分と見ています。判官贔屓であるかもしれませんがね。彼には心強い協力者がいますから」
「それは……?」
「誰とは、僕の口からは言えませんけれど」
 落合が柔らかく笑った。
 彼は、金子の依頼によって、原田令子消失の原因を探るために呼ばれただけである。裕介の件には関わりがなく、部外者として認定されている。彼が表立って関われば、それは黒木と裕介と囚われた者との三者の契約に反してしまう。
 建前上、落合が黒木と関われるのは、金子と原田令子の件だけである。彼はその中で、学校を焦点とした黒木の術を一つ解呪していた。学校と因果のある者の記憶操作に関わる術式の一つである。原田令子消失時にも影響を及ぼした術の一つで、それを解呪するのは、依頼内容からしてもそれほどはずれてはいない。たまたま、それが裕介の件にも反応を及ぼしたのだ。
 解呪した術式自体は、黒木の呪詛のほんの一部にすぎないものであるが、それを解いた影響が術の呪詛の焦点に近い人物の違和感となってあらわれた。裕介もその一人である。
 落合は、裕介の違和感を広げ真実に気づかせるため、もう一人違和感を持った人物を協力者に仕立て上げた。その人物を特定するのは、それほど苦もない作業であった。裕介に近い人物を捜せばいいだけ。その人物は、十中八九囚われた人物とも近い。
 契約によって表だって関われないので、依頼の件の事情聴取という建前で、その人物と接触した。だから、その人物は、自分が協力者の立場を与えられたことに気がついていないだろう。
 どういうことにしろ、落合の一連の行動は反則すれすれである。逆に言えば、裕介の件でこれ以上のことは落合はできない。
 その辺りのことを金子は思いだし、彼も微笑した。
「私も聞くわけにはいかないね」
「それで、これが頼まれていたものです」
 落合が、机に置いてあった封筒を金子に渡した。
 封筒の大きさは角形二号、A4サイズである。落合と金子がここで落ち合ったのは、これの受け渡しのためでもある。
 ありがとう、と金子は封筒を受け取り、中の紙を取り出した。その一枚目には、『原田令子消失事件についての報告書』という題名がついていた。
「一つ訊いていいですか?」
 落合が尋ねる。
 金子は、報告書の表紙を見つめながら頷いた。
「なにかね?」
「先生は、今回の件はどうやってお知りになったのですか?」
 金子は視線を上げた。
「あれから四十年。僕の見たところ、その間黒木に囚われた者も何人かいたかと思われますが。今回に限って、先生は最初から気がつかれていた感じがしてなりません」
「そうだね」
 金子は軽く息をついた。
「気がついていたよ。最初から、というわけではないがね」
「それは、どうして?」
「私が令子の消失に黒木が元凶だと気がついたのは偶然だった。いや、そのことを思い出せたのが偶然だと言った方が正しいのかな。それで黒木のことに気づいたのだから」
「それで、黒木の行動に目をつけていた……?」
 落合が先を推測して訊いた。
 もっとも、と金子は苦々しい表情をする。
「毎回、目をつけているのかもしれないがね。その記憶も黒木に消されているだけかもしれない。それで、どうして今回だけ私が気がついていたかだね」
 落合が目線だけで頷いた。
「単純なことだよ。私は逃げていく中谷君を見たんだ」
 金子は視線を窓の外に向けた。遠い目をする。
「それこそ偶然だった。私はたまたま職員室に忘れ物をしたのを思い出して、学校へ取りに返ったんだよ。職員室で忘れ物を取り帰宅しようとした時、階段を駆け下りてくる彼を見た。彼の様子は尋常ではなかった。何があったのかと声をかけようとした時、私は感じたんだ。魂を直接撫でられるような感覚を」
「でも先生は、依頼時には、誰に術がかかっているかわからないとおっしゃった」
「わからなかったのは事実だよ。私は素人だからね。あれが誰を焦点として発動されたものかの確信は持てなかった。私は一度黒木の呪詛によって大事なものを失っている。その恨みがあるからね。中谷君の様子、あの感覚から、また誰かが私と同じ様な目にあっていると推理したんだ。いささかこじつけ臭いけれどもね」
「なるほど」
「それで、君を呼んだんだ。中谷君の件をぼやかしたのは、黒木に知られてはまずいと思ったからだが、契約の件があった以上、よかったとは思う」
「そうですね」
 落合が、本心をうかがわせない笑みを浮かべた。
 金子は、視線を窓から報告書に戻す。
「私はこう思うんだよ、落合君」
「はい」
「私と令子が結ばれたかどうかはわからないのと同じ理由で、中谷君と今囚われている人物が結ばれるかどうかはわからない。将来的に別れるかもしれないし、お互いにどうしようもないくらい憎悪するかもしれない」
「そうですね」
「でも、それは彼らの意志によるものでなくてはならない。例え、破局にいたる何かがあったとしても、それは仕方がないことだけれども、それが黒木の人智を越えた力によって為されてはならない。特に、その間隙をついて一方の存在を消すのは、止めなくてはならない。……そう思う」
 金子は顔を上げて落合を見た。すがるような目である。
 落合は相変わらず、心中を読ませない。彼は黙ったまま金子を見返していた。
 たまらず、金子は目をそらす。
「私は中谷君に、私と同じ思いをして欲しくないと思っている。でも、それ以上に黒木を憎いと思っている。今回君を呼んだのは、中谷君のことよりも、私のこの思いの方が強かったからかもしれない。私は浅ましいだろうか?」
「いえ」
 落合が短く答える。
 金子はしばらく黙った。
 落合も無言で、金子を見ている。
 しばらくして、また金子がかすれた声で言葉を搾り出す。
「黒木を消して欲しい。この世界から」
 それから、落合の方を見上げる。
 落合は相変わらずの笑みを浮かべ、頷いた。
「わかりました」

   4

 裕介は、またベッドにいた。
 布団をかぶって、闇の中で丸くなっていた。
 眠れるわけがなかった。身体は妙な興奮に覆われており、爆発してしまいそうだった。それを無理矢理抑えつけていたのだ。
「くそっ……」
 知らず、呟いている。
 脳裏には、南と黒木の姿が映っていた。その背後からは、ぐるぐると先ほどの落合の言葉が渦巻いていた。それら全てが、裕介の興奮を煽っていた。
 何かしなければ、と思う。
 その何かがわからない。
 いや、わかっていた。
 落合が言うところの、「真実を取り戻す」ことだ。
 真実。
 本当のこと。
 落合や金子は、今は仮定の状態だという。自分のとても大事な者がいないという、仮定の状態。
「じゃあ、誰なんだ、それは一体……」
 自問自答してみる。
 そして、これの答えも出ていた。
 黒木の横には、常に女性がいるのだ。
 そこに思考がいたった時、裕介の焦慮が絶頂を迎える。裕介は布団を跳ね上げ、がばっと上体を上げた。
 荒い息をしながら、虚空を睨む。
 しかし、それだけだった。
 結局、ベッドから立ち上がることもせず、最後に長く息をついて、重力の命じるまま再び倒れ込んだ。
 今度は恐怖と諦めが興奮の熱を冷まし、裕介の肩を押さえつけているようだった。
 裕介は黒木を怖いと思う。
 何十年も若さを保ち、呪詛を操る人ならざる者。それ以前に、彼の人を拒絶する美しさが恐怖を喚起する。
 しかし、裕介は、それ以上に真実を知ることが怖いと思うのだった。
 恐らく、真実とやらは、裕介にとって良くないものだろう。自身にわき起こる感覚から、そういう確信があった。
 そんなことをわざわざ知る必要があるのか、と心中で、今はいない落合に反論してみる。
 勿論、回答はない。だが裕介の目にははっきりと悠然と笑う落合の姿が映っていた。
 その落合は何も言わない。ただ、わかっているだろうに、という視線を裕介に送るのみである。
「くそっ……」
 裕介は腕を顔に被せ、自分の視界を塞いだ。
 裕介にとって、現状は何ら不都合はない。真実があるとしても、その存在をずっと忘れていられるなら、構わないと思う。
 しかし、身体の奥底からわき出てくる感情が、全力で否を唱えていた。
 感情は、今のままではいけないと警鐘を鳴らしていた。理性と恐怖と諦めに抑えつけられても、その警鐘が鳴りやむことはなかった。
「くそっ……!」
 裕介は、再び上体を起こした。今度は自分の意志で、である。
 ベッドから降り、着替える。
 裕介は落合を好きにはなれなかった。だから、彼の言う通りに行動するのは癪であった。それでも、心中の警鐘は裕介を急き立てる。
 この圧死しそうな感情の膨張を消すため。そう理由を付けて、裕介は外に出ていった。
 外はもう夕刻で、急速に日が翳っていた。暗くなるのも時間の問題だろう。それでも、裕介は歩き始めた。
 特に行き先があるわけではない。
 とりあえず、裕介は学校へと向かうことにした。
 特別な理由などないが、黒木と自分の接点は学校しかないわけだから、行ってみようという気になったのである。
 裕介が学校に着く頃には、辺りは夜の闇に包まれていた。いつもにも増して、夜の訪れが早い。空を見上げると、雲が星々を覆っている。今夜もまた、雪が降りそうな予感がした。
 校内には、まだ何人かの生徒が残っていた。恐らく、クラブ活動を終えて帰宅する生徒の最終組だろう。部室棟や校舎から漏れる光は、極端に少ない。もう何分かすれば、警備員が、校門を閉ざすばずだ。
 裕介は校舎に入る。帰宅生徒が、私服で、しかも彼らとは逆に校内に入っていく裕介を奇異の目で見ていた。裕介は、それらを全て無視して西校舎の三階、二年一組の教室へと向かった。
 ドアを開け、中を覗く。
 誰もいない。
「当たり前か」
 裕介は、落胆したのか、安堵したのか自分でもわからないまま呟いた。もっとも、誰かいたとしても対応に困ったことであろうが。
 ドアを閉じ、ふらふらと後ずさって、廊下の壁にもたれる。長い溜息をつきながら、裕介は、少し途方に暮れた。
 その時。
 ぞくり、という感触が裕介の背中を撫でた。
 不快で不安な感覚だ。裕介は瞬間的に肩を竦めて振り返る。すると、窓の外には雪が降り出していた。
 心臓が高鳴り、不安感が急激に膨張する。
 雪。
 白い雪。
 裕介はよろよろと歩き出した。どこに向かっているのか自分でもわからない。ただ呼ばれているような、導かれているような、そんな感じがするのだ。
 行ってはならないと、今度は理性が警鐘を鳴らす。それを補強するように、進むたび不安感が肺腑を撫で、掴みかかる。
「たかだか、学校の中じゃないか」
 裕介はわざとそう声に出して、不安を抑えつけようとする。しかし、全く効果はない。止まろうか、行こうか逡巡しているうちに、裕介の足は階段へと向かっていた。
 裕介は自分がどこに向かっているか、突然理解した。
 屋上である。どちらにしろ、西校舎三階の北側階段を上ると、それ以外に場所は存在しない。
 階段を上りきり、屋上へ出る扉を開く。扉からは、強く夜風が吹き付けてきた。それは、理性とともに裕介を止めるよう。
 しかし、裕介は屋上へと踏み出した。
 どうしても行くという強い意志があったわけではない。むしろ、ふらふらと不安を催す対象へと導かれるような感じであった。
 屋上には薄く雪が積もっていた。雪の勢いはますます強くなっている。この勢いでは、積もるのは当然として、豪雪になるのではないかという気もした。
 周囲に光源はなく、開かれた扉から洩れる踊り場の電灯だけが、唯一視界を助けていた。
 あの日もこんな風だった。不意にそう考えている自分に、裕介は愕然とする。
「あの日……。あの日って何だ?」
 記憶が混乱する。
 不意に心底から出てきた『あの日』というのが、どういう日だったのか全く思い出せない。それでも、『あの日』がこんな日だったという確信が持てる。
「消された記憶……ってやつか……」
 裕介は、何か思い出せるものはないかと、周囲に視線をやる。
 そうはいっても、屋上にあるものといえば給水塔だけである。あとは広い空間が高いフェンスに囲まれているだけである。
 だがそれで充分だった。
 裕介の視線は、給水塔に釘付けになる。
「……あの建物……」
 裕介は給水塔へと歩き出した。
 足取りは、今までとは比較にならないくらい重い。一歩進むたびに、今まで感じたことのある屈辱感や敗北感が襲いかかってきた。
 それがピークに達したのは、給水塔を目の前にした時だ。
 それは、負的感情が爆発して心臓を貫いた感じだった。裕介は、その痛みに思わずうずくまってしまった。
 息をするのがやっとの状態だった。すぐに嘔吐感がこみ上げ、思わず口を押さえる。そうすると、息ができなくなり激しく咳き込んでしまった。
 落ち着くまでにしばらくかかった。
 その間、裕介は動けずに固まっていた。雪が背中と頭に積もっているのを感じる。その冷たさが、少しは裕介を冷静にさせたようである。
 立てるぐらいにまで回復してから、裕介は立ち上がって給水塔の扉を開けた。
 鍵はかかっていなかった。
 開けてみると中は暗い。壁を探って電気のスイッチを入れた。
 中には、当然ながら大きい給水ポンプがあった。染みのある壁には、パイプと配線が縦横に走っている。ポンプとドアの間には少しスペースがあって、そこに古びた机と椅子が置かれていた。
 裕介は視線を巡らす。
 別段、自分の感覚に訴えてくるものはなかった。そもそも、この給水塔そのものが訴えてくる元凶ではあるのだから、その中に何かあるはずもない。
 そう結論づけて、立ち去ろうとした時。
 視線を戻す途中で、その目が赤いものを捉えた。
 瞬間、心臓が高鳴った。
 それは、給水ポンプの下部に挟まっていた。
 よく見ると、布か紐の様なものに見える。近づいていって、裕介はそれを手に取った。
 それはリボンのようだった。埃にまみれていて、ここに落ちてから長い間放置されていたことをうかがわせた。
「赤いリボン……。髪を括るもの……」
 それは裕介のものであった。裕介が遠い昔に買って、髪の長い彼女にあげたものだった。
 裕介が彼女にあげたものは他にもたくさんあったが、彼女はそれがお気に入りだった。もらって以来、彼女はずっとそれをつけていた。
 あの時まで。
 あの時、奴に外されるまで。
「一葉……」
 裕介は、その名を呟いた。

 黒木は、目の前で眠る南を見下ろして笑みを浮かべた。
 南は空中に横たわっていた。つり下げられも、押し上げられてもいない。ただ空中に仰向きになって静止していた。
 黒木は指を伸ばし、ゆっくりと南の貌をなぞる。
 額。瞼。鼻。唇。顎。首。
 とても大事な壊れ物に触れるような手つきであった。
 指がさらに、身体へと進む。
 制服の上を艶めかしく動き、胸元へと移動する。
 その時。
 指に衝撃が走り、黒木は手を引いた。
「まだ逆らうか」
 それを予想していたのか、黒木は慌てなかった。嘲笑を浮かべ、指を再び南の瞼へとやる。
 やがて、南が目を開いた。
「なかなかねばるな」
 黒木が声をかけた。
 南は答えない。ただ黒木を見つめ返しているだけ。
「いずれ、意識も消えるというのに。何を期待しているのだ。お前は賭に負けたのだ。さっさと私のものになれ」
 南は答えない。
「あの男はお前を見捨てた。お前の信頼を裏切ったのだ。もはや、お前をこの世界に留めるものは何もない」
 南は答えない。
「私のものになれば、永遠を手に入れられる。永遠の若さ。永遠の美しさ。二人だけの世界だ」
 南は答えない。
「今はいいさ。だがもうすぐだ。もうすぐで元に戻る。全てがあの時のように」
 黒木は嬉しげに笑った。
 


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